第20話 渋谷、十七時
「――はっ!?」
気が付けば、俺は見慣れた通りに立っていた。目の前には呆れた様子の郁が立っている。
「あ~あ。やっと正気に戻った」
「ここは……俺の家の前?」
「そうだよ!! いきなり鶏みたいな叫び声を挙げて、道のど真ん中で膝から崩れ落ちたんだから。めっちゃ恥ずかしかったんですけど!?」
「俺がそんな醜態を? 一体何が――うっ!?」
記憶を掘り起こそうとしたら、何故か鼻血が出てきた。
「ちょちょ、何で尾行してるだけでそんなにダメージ受けれるの!?」
郁が慌ててティッシュを差し出してくるので、それを鼻に突っ込む。
「……思い出したぞ。東海道先生がヴィジュアル男とホテルに……」
その時死滅した俺の脳細胞が、今鼻血となって流れてきている――なるほど。
「だから、違うんだって。何度も説明したじゃない」
「違う?」
「東海道先生が入ったビルは、ホテルの隣の雑居ビル!! それなのに蓮ったら早とちりしちゃってさぁ!」
隣の雑居ビル?……そうか。言われて思い出すと、ホテルの看板が掛かっていたのは若干ずれていた気がする。
鼻のティッシュを取ると、スッと脳内のもやが晴れた気がしてきた。
「鼻血止まったぁ!」
「いやいらないからその報告」
「それより、東海道先生が入った雑居ビルって何だったんだ?」
「よく分かんない。一応入り口ちらっと見たけど地下にも上にも階段が続いていたし……確か、地下はなんかのスタジオで、上はキャバクラでしょ? あと、マッサージ店でしょ? あとは何だったかな……」
「おいおい。きっちり確認しておいてくれよ」
「……いや、蓮が絶叫しててそれどころじゃなかったんだけど」
「そ、そうか」
まさか自分の中にそんな獣のような一面があるとは思いもしなかった。
「ていうかさ。明日どうしよっか?」
「明日? 明日って……土曜日だよな」
「そう。私達先生がどこに住んでいるのかなんて知らないでしょ? 今日みたいに尾行することもできないよ」
「そうだな……」
俺は些か驚きを覚えつつ呟いた。まさか、土曜にまで人間観察部の活動をすることになるとは全然考えていなかったのだ。
でも、そうか。普通部活動って土日も普通にやってるもんな……。
とはいえ、俺たちに休日の先生を追う手立ては無いのも事実。
「仕方ない。明日明後日は各々情報を整理する時間にしよう。俺も土曜は絵画教室に行かなきゃだし」
「うーん……まあ、それ以外にないか。教室は何時に終わるの?」
「え? えーと、大体17時くらいだけど」
「オッケー。じゃあおやすみ、蓮」
「あ……うん。おやすみ」
そして郁はあっさりとした様子で家の門扉へ姿を消してしまった。どうして帰りの時間なんて聞いてきたんだろう。まさか、「情報を整理する」っていう俺の案をまともに受けて報告会でもするつもりなんだろうか。正直こっちは「休みにしよう」くらいのニュアンスだったのだが……。
*
翌日、十時からのクラスをみっちり受けて夜。十七時十分頃に教室を出ると、五分前に郁からラインが届いていることに気が付いた。
『教室終わり?』
終わったと返事をすると、『今どこらへん?』とすかさず返ってくる。
『渋谷』
『渋谷の?』
辺りを見回して、パッと見えたのがハチ公だった。
『ハチ公辺り』
それから郁の返信が止んだ。
一体どうしたんだろう。
こちらの場所を聞いたと言うことはこちらに移動してくるのか?
……いやいや、それにしても渋谷のハチ公前なんて家から電車に乗ることを考えたら少なくとも十五分は掛かるだろうし――それとも、暇つぶしに俺にラインでも送ってきた?
動かないラインの画面を見つめてしばらく立ち止まっていると、背後からどんと背中を押された。
振り向くと、昨日より洒落た格好をした郁が立っている。今日はベースボールキャップに、オーバーサイズのTシャツ。下に履いているものはTシャツの裾に隠れて見えないが、足の素肌が見えているから短パンか何かだろう。それに、スマホくらいしか入らないように見える小ささのポシェット。
「うお……」
どこに出しても恥ずかしくない、立派な渋谷女子って感じだ。
……というか、やっぱり美人――美人? そういうのとはちょっとニュアンスが違うんだが、とにかく整った顔立ちをしているんだ、な。こいつって。
こちとら大して工夫も無いジーンズにTシャツの組み合わせなんだぞ。隣に立つのが恥ずかしいだろ。
……私服の郁に会うと改めて思うが、俺という男は郁にとことん釣り合っていないな。
「すっごい偶然! 丁度友達と歩いててさ!」
「お、おう」
まあ、俺たちの住んでいるエリアから高校生が遊びに行くとなると大体渋谷になるんだが。
それにしても、友達を置いて俺との(多分)実りの無い会合に休日の時間を使うなんて。郁のことだから、きっと一緒にいた友達というのも別クラスの一軍女子だろう。
「友達はいいのかよ」
「うん。この時間だし、皆帰るってさ。私は家近くだからまだアレだけど。蓮もでしょ?」
「あ、うん」
何が「アレ」なのかは分からないが、まだ家に帰らなくても平気でしょという意味だろう。
「じゃさ、どこかお店入って話合おうよ。先生のこと」
「じゃあ、マック」
ハチ公近くのマックがある方向を指差すと、郁が俺の腕を掴んで無理矢理曲げる。
「マックやだ!」
こ、こいつ何てことを言いやがるんだ……まるでガキじゃないか。
「な、何でだよ!? 美味いだろ!」
「おいしいけどいつでもいけるじゃん! せっかく渋谷来てんならこっちでしょー!?」
郁に強引に指差させられた先は、丁度スクランブル交差点を挟んで対角の通りにあるQFRONT方面の喫茶店。ビルの二階にあって、カオスな交差点を見下ろせるポジションにある。
だが、その分混んでいる筈だ。
「くだらん。人の行き交いを見るのがそんなに楽しいか? どうせならしなしなのポテトでも囓りながら……」
「うっさいなあ。いいから行くよほら」
「お、おい」
腕を掴まれたまま郁が歩き出すと、とても腕が掴まれているだけとは思えない作用が俺に働いて、あっさり喫茶店まで引っ張られる。
ところが、店内のウィンドウを覗くと見通しが良くもない一階ですら満席だ。流石に土曜の渋谷とあって、順番待ちがスタンダードらしい。
「ほら、な? やっぱここらの小洒落た喫茶店なんて週末は入れないって」
「う~」
犬のようなうめき声を挙げて腕を組む郁を、俺はやきもきした気分で眺めていた。仮にこんなところの席を取ったところで、のほほんとしていた俺には特に報告すべき事項はない。気持ち高めなお茶代を――恐らく郁の分も払ったとして、待っているのはいたたまれない無言の時間なのではないか。
「ちょっと、席無いか見てくる。これ持ってて!」
郁はそういうなり、自分の提げていたポシェットを俺の首に通して店の中に入って言ってしまった。
女子って言うのはどいつもこいつも、こういう「映える」感じの喫茶店にこうも苦労して入っているものなんだろうか。
「……」
郁は中々戻ってこない。よほど熱心に空席を探しているのだろうか。俺は、郁のポシェットを無駄にかけ直したり、突然財布の中身が心配になって確認することを二度繰り返し、最終的には腕を組んで煌びやかな交差点の方の通行人を眺めた。
ここは日本一カオスな交差点。歩いている人間だって、ぱっと見でサラリーマンやOLだと判別が付く連中もいるし、高校生の団体から遅くに出歩いている中学生のカップルだっている。
そんな人混みの中に一人、ふと俺の目を惹く通行人がいた。




