第195話 厄介な事情
写真の中の甲塚の父親・新藤君弘は、服の裾を幼い甲塚に引っ張られて苦笑いを浮かべていた。画角が地面寄りでロケーションが分かりにくいが、後ろに見える作り物の馬は――メリーゴーラウンドか。遊園地のようだな。
……その割には、真白いワイシャツに灰色のスラックスという真面目腐った出で立ちであった。新人パパとでも言うような清潔感と、若さ。顔は優しそうに見えるけど、こいつがこの後家族や学校での責任を放棄して逃げることを考慮すれば「気弱」という言葉がしっくり来る気がする。
彼からすれば、俺たちの学園生活なんぞ知る由も無いことなんだろうが、人間観察部の背景のそのまた背景には彼の存在が佇んでいるわけだ。黒幕なんて言うつもりはないけどさ。
――って。確か俺の横顔がこいつに似てるんだっけ? 嫌になるなあ、もう。
「甲塚、アルバムとか無いのか? こう、家族の写真とか」
「あっ。私ももっと見たい。甲塚さんの子供の頃の写真」
「無いわよ、そんなの。私が写真嫌いなの知ってるでしょ……」
「そうか。なら仕方ないな」
俺はスマートフォンを撮りだして、写真の写真を撮影した。それに気付いた甲塚が慌てて俺の手からスマホを奪い取ろうとする……が、勿論失敗する。
「ちょっと! 勝手に何やってんのよ!」
「あのな。お前にとっちゃ親の顔なんだろうけど、俺たちからすれば初めて見たおっさんなんだぞ。写真の一枚もないと見分けが付かないだろ」
一生懸命俺のスマホを取り上げようと手を伸ばす甲塚が、沈黙した。
「それじゃあ蓮、私にも写真送ってー」
言われた通りに、今撮った写真を郁に送った。すると、郁はスマートフォンで父親の顔を拡大表示して唸り声を上げる。
「うう~ん。言われて見れば甲塚さんに似ている気がしないでもないけど、私この人見かけても気づける自信、無いなあ」
「……」
郁の心配は尤もだな。
彼女のスマホを覗き込んで見たが、新藤君弘という男は人目を引く特徴も無ければ、滅茶苦茶甲塚に似ているなんてことも無いようだし。中肉中背、イケメンと不細工の丁度中間、こんな奴は日本の何処にでもいるだろ。
感覚としては、駅とかで見かける指名手配書かな。その場では覚えておこうかなという気になっても、三歩歩けば忘れてしまう。写真で見る人間の印象なんてそんなもんだろう。テレビに出るような有名人とかはきっと動いたりしているから覚えられるんだよ。
それにも増して――だ。
「そんな写真幾ら見たって役に立たないわよ。路上生活している人間が律儀に髭を剃って、きちんとした身なりをしていると思う?」
「ま……な」
甲塚の指摘も、尤もなんだよな。
渋谷という都会を歩いていればホームレスの人間を見かけることは数え切れない位ある。だが、一人として彼らの顔を見分けられたことがあっただろうか? ああいう人たちは帽子を目深に被ったりしているからな……。少し年配の人だと、髪を伸び散らかして髭ぼうぼうというのもよくいる――気がする。
ここまで考えて、参ったなあという気分になってしまった。
俺たちは、ホームレスの人たちの生態をあまりに知らないでいる。彼らは何を食べているのか、どこで寝ているのか、彼ら同士に会話はあるのか。考えてもみれば、彼らは一体どうやって俺たちの生活圏の影に隠れているのか検討も付かない。
取り敢えず、俺は彼らを直視することから始めないといけないらしいな。
「甲塚。さっき言ってたホームレスが集まるエリアなんだけど……具体的には、渋谷のどこら辺になるんだ?」
「宮下パーク近辺」
甲塚は拍子抜けするほどあっさり言ってのけた。
……宮下パーク? 用もないのに公園に行くような趣味はないので、あまり知らないエリアだ。だが、郁は思い当たるところがあるらしい。
「あー、あの辺りね……」
「そこに行けば、ホームレスに会えるのか?」
「……行ったことあるなら知っているでしょうけど、あのあたりはブルーシートのテント群があった筈よ。ちょっと前まではホームレスの聖地なんて呼ばれていたんだから」
「なんで過去形?」
「家のない人が集まっていたのは、宮下パークになる前の、宮下公園の頃の話」甲塚の代わりに郁が俺の質問に答えてきた。「あそこ、ちょっと前に再開発されてショッピングセンターみたいになってるからね。そういえば今はそういう人見かけないねえ。皆どこに行ったんだろう? 私はあんまり行かないようにしてるから、よく分かんないや」
「何で行かないようにしてんの? 郁、そういうスポット好きだろ」
「あそこ、ナンパの名所らしいんだよね。女子の中では、結構デンジャーゾーンなんだよ」
えっ。そんなものがあるのか。全然知らなかった。
これでも俺は、勝手知ったるシティボーイのつもりだったんだが。
まあ、それは良いとして。
「……それで、宮下公園にいたホームレスは何処にいったんだ? 聖地って呼ばれるくらいなら沢山いたんだろ? もしかしたら、甲塚のお父さんもそこで寝泊まりしていたかも知れないぞ」
「宮下公園にいたホームレスがどこに行ったのかは、分からない」
甲塚は、少し位調子で呟いた。
「あそこに暮らしていたホームレス達は、再開発の時に強制的に退去させられてね。家が無い人が居場所を追われて行く先は流石に想像できないわ。ネットで調べるのも難しいと思う。せいぜい辿り着くのは個人的なケースで、殆ど方々に散ってしまったんじゃないかしら」
「それは――」と、続く言葉の思い浮かばぬうちに呻いてしまった。
再開発によってホームレスの居場所が追われた。だから、俺たちの生活圏から彼らの多くがいなくなった。……これを「悪く無いことだ」と、そう思ってしまう自分を薄情に思うのは、甲塚の父親が彼らの一人と知ったからだろうか。
とはいえ、
「……最悪、だよな」これだけはハッキリ言える筈だ。
「そうね。しかも、話は宮下公園だけじゃない。渋谷駅近辺の公園はどんどんホームレスを排斥しだしているのよ。パパを知っている人がいたとしても、何時渋谷から出て行くか分からない状況と考えて良いと思う」
「それじゃあ、早速今週末から渋谷のホームレスに聞いてみようか」
――えっ! と、郁と甲塚が同時に声を挙げた。
「ちょ、ちょっと待って。いくら何でも、私達だけでそういう人たちと喋るのは危ないんじゃないの?」
……何だ? 珍しく郁が及び腰になっている。
「危ないことはないんじゃないの? そりゃ、怒られるかも知れないけどさ」
「私も直接ホームレスと接触するのは反対……」
「何で甲塚まで!?」
「だって、怖いし……。あと、ホームレスのことだからってホームレスに聞くってのは単純すぎる発想じゃない? 渋谷には幾つか支援団体があるから、まずはそこにコンタクトを取ろうかと思ってる」
「なっ……ええ……?」
それは、なんかのんびりしている上に確実性が低い気がするんだが。……いや、聞くだけだから、やらないよりマシだとは思うけどさ。
頼りにしていた二人が、調査の第一歩目でこんな調子だと俺まで心配になってきた。
たしかに、高校生だけでホームレスのテントの中に突っ込むってのはどうなんだろう。しかも、俺たち三人の内二人が女子。
……ここは、大人の力を借りた方が良さそうだな。当てになる人といえば――まあ、あの人くらいか。
*
結局、その日の話し合いはぼやけた方針を決めた程度で終わってしまった。
気になるのは、渋谷からホームレスが排除されつつあるという情報だ。これは家に帰ったらもう少し詳しく調べた方が良いかも知れない。あと、あの人に相談もしないと……。
で、甲塚は甲塚で今週中に支援団体に連絡を付けると言う。もしかしたら、学祭のときのように理事長の力を上手く借りられるかもな。
結局俺たちは一介の高校生に過ぎないわけね。
やるべきことを整理しながら玄関を出たところで、「あっ!」と、郁が振り返った。
「危ない危ない。忘れるところだったよ。私たち、今日は甲塚さんに大事な報告があったんじゃない」
「ん。……ん?」
大事な報告? 私たち? そんな話、いつしたんだろう。……と、訝しがる俺の手をいきなり掴んできたので驚いた。
「甲塚さん。私たち、付き合うことにしたの」
見送りに来た甲塚は、家の中で呆然と俺たちを見ていた。……そりゃ、こんな表情にもなるよな。突然にも程がある話だ。多分、俺も同じような顔している。
「あ。ふーん」
甲塚は、興味無さそうに鼻を鳴らした。
「だから、蓮のこと好きになっちゃ駄目だからね」
「あ。うん。……蓮、良かったじゃ――」と、甲塚が言い終わらぬうちに扉が自重で閉まった。




