第193話 甲塚の心変わり
俺としては結構紳士的な甲塚の住所を尋ねたつもりだったのだが、東海道先生はもの凄く嫌そうな顔で、
「無理に決まっているでしょう、そんなこと!」と、怒り出してしまった。
「なんでえ?」
「当たり前じゃないの。教師が、一生徒の個人情報を漏らすなんてとんでもないことなのよ!?」
「ちょっと落ち着いて下さいよ。何も赤の他人の住所を教えろってわけじゃないんですよ。俺と甲塚は一応友達だし、俺と東海道先生だって一応友達みたいなもんだし。……そんなに俺のことを信用していないんですか」
「そ、そういう問題じゃありません!」
あまりにもな拒否っぷりなので、先生の肩を掴んで、「良いから、教えて下さいって。悪いようにはしませんから」と尚も迫ると、「嫌よ!」と先生の方も頑固に拒否する。お互いまずい秘密を共有している仲なのに、何をこんなところで教員としての義務感に目覚めているのか分からない。
「教えて下さい」、「嫌!」の問答を繰り返していると、
「ねえ。何してるのー? 喧嘩?」と、事情を知らない郁が後ろからとことこ歩いて来た。
「ああ、郁。先生が意地悪して甲塚の家の住所教えてくれないんだよ」
「べ、別に意地悪しているわけじゃありませんっ!」
郁からすれば、俺たちの温度感というのは滑稽に見えるんだろう。ポケットに手を突っ込んで、猫の喧嘩でも見るかのような目付きで笑い出す。
「事情はよく分からないけど、二人とも傍から見たら修羅場みたいだよ。あはははっ!」
「……」
「で、甲塚さんの家の住所を教えて欲しいって? そんなの、本人に聞けば住むコトじゃん。なんでわざわざ遠回りして先生に聞いてるわけ?」
「今日、甲塚さんはお休みしているのです。具合が悪いからって。それで、佐竹君はこれから文句を言いに行くからって……。宮島さんからも何とか言ってください!」
「あ。甲塚さん病欠? ふーん」
……と、郁がポケットから取り出したスマホを操作して――俺に画面を見せてきた。
「はい。甲塚さん、位置情報送ってくれたよ。お見舞いに行くんなら私も一緒に行くよ」
「…………」
世の中というものは、想像よりもシンプルなパーツで構成されているのかも知れない。というか、甲塚は甲塚で学校サボっていることに何の後ろめたさも無いのか……!?
目の前の先生の顔を、直視することができない。きっと、とんでもなく冷めた目で俺を見つめているに違い無いから。
*
転送して貰った甲塚の家の住所は、理事長の家からそう遠くない場所にあるにはあるらしかった。とはいえ、仮に俺が手当たり次第に探し出そうとしたって彼女の家に辿り着くのは不可能だっただろう。なぜなら、彼女の家も東海道先生と同じように、入居者の許可が無ければ中に入れないタイプのマンションだったから。
とは言っても、勿論先生の家ほど常識外れな高級マンションというわけではない。やはりエントランスにシャンデリアや高級ソファーや庭園があるなんてのは異常だったのだ。普通のマンションと言えばこういう風に、白々とした照明、観葉植物、入居者用の郵便受けと……この辺りが揃っていればまず快適なんだよな。
だが、郁からしてみればこれはこれで高級感がある佇まいらしい。エレベーターに乗り込む前に一頻りエントランスの中を探検すると、両手を広げてこんなことを言い出した。
「すごーい! 私も一回こういう高級マンションに住んでみたいなあ」
「いや。本物の高級マンションはこんなもんじゃないって」
「そんなこと言って、蓮だって高級マンションに入ったことない癖に」
「いや、あるよ」
「ええ? 何処で? 何時?」
「この間、東海道先生の家で。……ほら、バイトがどうとかって話あっただろ。先生の家でちょっと物を運ぶ手伝いしてたんだよ」
「あぁ~! そういえば、そんなことあったね。良いな~! 私も高級マンション入ってみたい!」
「それなら、先生に頼んで遊びに行かせて貰えば良い。女子同士ってことなら、先生だって快諾するだろう。……でもオートロックってのは羨ましいよな」そう話している間に素早く到着したエレベーターに乗り込んだ。高級ではないが、新しい建物ではあるんだろう。「変なチラシが山のように投函されることもないだろうし、変な営業がうろつくこともないだろうし」
「あはは。そういうのあるらしいね。私の家は一軒屋だから、まだマシな方なんだ」
「――郁だって大学生になったら一人暮らしとかするかも知れないんだろ? オートロックマンションとなると中々の家賃だし……。こういう所に暮らすとなると、それなりの苦労があるんだよ。今から覚悟しておいて損はないんじゃないかな」
「えっ、一人暮らし!? 確かに!! うわーっ、わくわくしてきた……!」
郁はエレベーターが揺れる程興奮し始める。
なんでこいつはこんなに未来に希望を持てるんだろうか。できることなら、俺も郁と同じ視界で未来や過去を覗いてみたいものだ。
「今から興奮しても、実現するのは二、三年後になると思うけど」
「ねえねえ」
「なに」
「高校卒業したらさ、私達同棲しない?」
「えっ」
同棲? 郁と一緒に、同じ部屋に住む?
俺の脳裏に、私生活を共にすれば間違い無く衝突するであろうあれやこれやが思い浮かぶ。主に性関連、絵関連なんだが。郁と一緒に住む部屋で、あれらの作業を……?
「本気で言ってんの?」
「本気だよ。だって、蓮とは……あっははははっ」
「あんだよ!?」
「考えてもみてよ。二人でそれぞれ家賃を割り勘してさ、一人で暮らすよりも、きっと」
そう言っている間に、甲塚の住む家宅の階に到着した。
やはり平凡なマンションの一角であった。共用部分は各家庭の自転車や配達の荷物が扉の横に並んで雑然としているが、甲塚家と思われる扉の前だけはきっちり整然としている。住所を確認する限り、間違い無くそれが甲塚の家らしい。近くにはハワイアンのバーガーショップに、コンビニ、個人営業の喫茶店……。こういった生活感のある風景や、オートロックのシステム、一つ一つがどうにも現実感がなくて、俺は甲塚が本当にここに住んでいるとはとても思えないような心持ちになっていた。
しかし、甲塚はここにいたのである。
インターホンを鳴らして数十秒、慎重に開かれた扉の向こうにいたのは紛れも無く甲塚で――いや。見慣れた彼女とは明らかに違う女子だったから、俺も郁も、一瞬呆気にとられたのだった。
「えっと……あれ!? 甲塚さん!?」
「……」
甲塚は、前髪を捻って頷いた。
薄色だった甲塚の髪は全体が茶色になり、いつもは耳に掛けていた髪をだらりと顎の先まで伸びているから全然印象が変わってしまっている。……というか、少しだけ甲塚が真面目なルックスになっている!
 




