2. 男子トイレ
『桜が舞い込む窓際に、音色がふたつ飛び込んだ。香る好奇心を携えて、吹く風は移ろい変わる。』
「くんくん……これは事件の香り!」
「アンモニア臭だろ」
男子トイレに入るなり、春野さんは至極的外れなことを言った。
僕にとっての女子トイレと同様、入る機会はそうそう無いだろうから、物珍しさでテンションが上がっているのだろうか。
「橘さんと一緒にしないでもらえますか? 女装して女子トイレに入ろうとか思わないでくださいね」
「僕を犯罪者扱いするのはやめてもらっていい? さっきもストーカー扱いされた気がするんだけど」
「安心してください、半分冗談ですよ」
「全部であれ」
よく考えれば初対面の女子と人気のないトイレに二人きりというのは状況的に芳しくない。
もしこの場面を先生にでも見られれば、不純異性交遊として職員室にしょっ引かれかねない。
恋愛禁止なんて眠たい校則はないけれど、この現状は十分指導の対象だろう。
「それなら心配しなくても大丈夫です。ここは滅多に人が来ませんから」
「そうなのか?」
「ええ。何せ特別教室棟の隅っこで、周りは倉庫にされてる教室ばかりですからね」
春野さんに連れられて来たのは、特別教室棟の1階の最西端にある男子トイレだった。
確かに僕はこのトイレを利用したことがないし、なんならここに来るのも初めてである。
トイレの目の前にある教室は、二つ並んで机やら備品らしきものが詰め込まれていたし、反対側や中央にもトイレがある以上、わざわざここに訪れる理由もない。
田舎の学校の癖に校舎は無駄にデカいから、こういう場所も自然と生まれるのだろう。
「カップルがエッチなことをするために利用しているという噂もあるくらい人が来ませんから、安心してくださって構いませんよ」
「構うわ! 本当に誰も居ないよな!?」
まあ、彼女が男子トイレに入るにあたって、事前に中に人がいないか血眼になって確認したので、そんなミステイクはありえないのだが。
「それではワトスンくん、窓を開けてみてくれたまえ」
「ワトスンじゃ……まぁいいや」
ここまで来たんだから、サイドキックでもサンドバッグでもなんでもいい。
先輩に貰ったヒントが表すのは絶対に部室だと思うし、彼女もそう考えていたように見えるが、推理小説好きのプライドを刺激してしまった結果、こんな遠回りを余儀なくされた。
ならばこれ以上余計なことはせず、サイドキックに徹しよう。
それが宝探しと彼女から開放される最短距離に違いない。
言われるがまま窓を開けてみるが、離れたところに立ち並んだ木々と、その向こう側に見えるフェンス、その奥の車道と田圃が確認できる程度で、特に変わったところはない。
もしかして窓自体になにかあるのかと思ったのだが、なんの変哲もない薄汚れた窓である。
「変わったところは特にないぞ」
「いやいや橘さん、窓の外をよく見てください、左っ側です」
「左? ああ」
言われるがまま視線を向けると、そこには確かにおかしなものがあった。
木。
背の低い1本の木、その幹までもが枝のように細い若木が、伸ばせば手が届きそうな距離に生えている。
「なんだこれ?」
「江戸彼岸ですよ」
「江戸彼岸……随分おどろおどろしい名前だな」
「名前はそうですが、言ってしまえばただの桜です。奥に見える染井吉野と違って自生する、野生種というやつですね」
「なるほど? ……ああ、そういうことか」
「やっとお分かりですか、橘さん」
得意げに、これ以上無いドヤ顔を披露する春野さんである。
確かにヒントの冒頭、『桜が舞い込む窓際に』という部分がピタリと当てはまる。
「なんでこんなところに桜が生えてるんだろ。奥の桜から種でも飛んできたのか?」
「さっき言った通り、奥の木々は染井吉野ですからそれは無いですね。染井吉野は自生しませんから」
「ああ、そうか」
どこかで聞いたことがある。
現存する染井吉野は、全て人間の手で増やされたクローンであると。
詳しい仕組みは知らないが、クローンというのは結構インパクトのある字面だ。
「なぜ江戸彼岸が生えているのかは分かりませんけど、イタズラで植林をするエコロジカルな不良なんて想像できませんし、恐らく偶然運ばれてきた種子が成ったのでしょう。見つかった時にはそれなりに成長していて、しかし現状何かの邪魔になるわけでもありませんから、放っておかれているんだと推理します」
「そういうことか。ていうかよく知ってたなこんなの。僕はこの桜の品種どころか、こんなところに木が生えてることすら知らなかったよ」
「ふふん! 私は名探偵ですからね! 入学してすぐに高校の敷地内を嗅ぎ回ったんですよ。外と内の位置関係を考えれば、『桜が舞い込む窓際』がここを指すと一瞬で推理できるわけです。そりゃあもう一瞬で!」
やたら『一瞬』を強調するあたり、僕が先に部室を導き出したことがかなりショックだったのだろう。
そして、そこそこ広い校内を調べ上げるにはそれなりの時間を要すると思うのだが、この子友達とかいるのだろうか。
「……恐れ入ったよ。それで、肝心のお宝はどこにあるんだ? 重要なのは桜じゃないだろ」
それとなく探索を促す。
本気で言っているのではなく、さっさと何もないことを証明してしまいたいのだ。
断言できるが、ここにお宝や次なるヒントがあるはずがない。
たまたま偶然、詩の情景にこそ当てはまっているけれど、ここに桜の木が生えていることを前提に、それを知っていることを当然として、こんな謎解きを出題するはずがない。
仮にこの木を探し当てることが謎解きの根幹だとしても、開花時期をとっくに終えて、新緑の葉をつけたこの若木を桜だと判断できる人間がどれほどいる?
それはもう新入部員歓迎会の枠を超え、単なる新人いびりでしかなくなってしまう。
そもそも、ここが何処なのかをお忘れではあるまい。
男子トレイだぞ。
圧倒的に女子部員が多い文芸部のお宝探しで、男子トイレが隠し場所に選ばれるわけがないのだ。
女子トイレもまた然りであるが。
「あ、あはは。まぁ、そうですね。次の手がかりを探さないと」
分かりやすく引き攣った笑顔で、春野さんはそう言った。
思うに、彼女としても、もうここに用はないのだろう。
謎解きが好きで推理小説を嗜む彼女が、僕の考察を下回るなんてありえない。
先程彼女が言った言葉、《ノックスの十戒》を借りるのならば、サイドキックは読者よりも少しだけバカでなければならい。
逆に探偵はサイドキックよりも、当然読者よりも、聡明で賢くなければならないだろう。
「えーと、えーと」
答えがあるわけのない男子トイレを、顎に拳を当てながら、さながら探偵のように徘徊する春野さんだが、彼女がここに僕を連れて来たのは宝探しでもなんでもなく、『私ならこんな推理もできるけどね』という、分かりやすい実力の誇示だったのだろう。
誇示ではなく、意地と言い換えてもいい。
なんにせよその目的は達したわけで、ともすればさっさとここの捜査は切り上げ、本命である部室に向かいたいはずだ。
見事な推理をしたが、されど真相は他にあると後々気づく。なんて推理小説じゃよくある展開だろう。
だから僕は、彼女が目の前で繰り広げる捜査という名の探偵ごっこが終わるのを、今か今かと待ち侘びるしかない。
「あっ」
しかし、春野さんは突然そんな声を上げた。
なんとも間の抜けた、鳩に豆鉄砲でも食らったかのような声である。
「どうした春野さん。何か見つかったか?」
冗談半分に、しかしそれを悟られないように、まるで推理小説の登場人物かのように言ってみたのだが、「うん」と、想定外の答えが返って来た。
「ありましたよ! 次のヒント!」
春野さんが指差したのは、意外なことに窓の外だった。
窓の外、新緑が茂る江戸彼岸の若木の枝に、それはあった。
あったと言うか、縛り付けられていた。
「おみくじ……?」
少し離れた位置から見ているので実際にそれがおみくじなのかは分からないが、神社でよくみる厄落としの如く、二つの紙が1本の枝に括り付けられていた。
「橘さん、あれ取ってください」
「僕が?」
「跳んでも跳ねても届きそうにありません。ほらこの通り」
春野さんは実際にぴょんぴょこ跳ねて見せるが、確かに届きそうにない。
得体の知れない物に触れるのは気が引けるのだが、仮にあれが歓迎会に関する物でも、そうでなくとも、確認しなければ話は進まないだろう。
「よっと」
僕は窓枠に手を当て身を乗り出し、なんとか紙が括られた枝を掴んだ。
しかしその拍子に、枝がポッキリと折れてしまった。
「あんまりよくありませんよ。素人が木の枝を折るというのは」
確かにその通りなのだろうが、春野さんに言われる筋合いだけはない。
色んな意味でだ。
「結果的に紙が取りやすくなったから良いだろ。どのみちあの体勢じゃ綺麗に紙を取れなかっただろうし」
「ふむ。まあそうですね……いえ、待ってください! そうだ、それですよ!」
「え? どれ?」
「ヒントの2行目です! 『香る好奇心』というのは、ヒントが巻かれた桜の枝の事だったんです!」
「というと?」
「『好奇心』が次のヒントを指す言葉だというのは橘さんが仰られた通りですが、その頭についた『香る』の意味が曖昧だったんです。それが指摘した推理の穴だったのですが、『好奇心』つまりヒントが、『香る』つまり桜の枝にくっついて、『香る好奇心』になるんです! 今ピッタリ嵌りました! 流石は私のサイドキック! 良い働きです!」
「そりゃどうも」
ありえないだろ、そんなこと。
単なる偶然、用意された必然からは程遠い。
春野さんは散々興奮して捲し立てた挙句、「じゃあ押さえていてください」と言って僕に枝を持たせた。
そして恐る恐る、丁寧に、結ばれた紙を解いていく。
「約束ですからね! 最初に見るのは私ですよ!」
「ああ、うん。どうぞどうぞ」
春野さんは図書室の前で、僕の推理には穴があると宣言していたが、もしこれが本当に宝探しのそれだとすれば、とんだ大穴が当たったと言えるだろう。
まあ紙の様子見る限り、とても昨日今日括り付けたものとは思えないほど劣化している。
恐らく、春野さんが外からこの木を発見した時には角度の問題で見落としてしまっていたのだろう。
「じゃあ、読みますよ」
出来ることなら白紙であってくれ。
もしくは中身の文字も劣化していて、おおよそヒントとは考えられない状態であってくれ。
そうすればこの無駄な時間から抜け出すことができるのだから。
「こ、これは……!」
本当に驚いているのか、それともそういうポーズなのかは図り知れないが、春野さんは二枚の紙をまじまじと見つめている。
そして、僕も一つ分かったことがある。
表面こそよく見えないが、二枚ある紙のうち、片方はどう見てもおみくじなのだ。
ぼろぼろになっていて細かい文字はほとんど読み取れないが、得てしてそのデザインには見覚えがある。
おみくじの裏面に書かれた有り難いお言葉だ。
おみくじなんて表面の運勢しかまともに読んだことはないけれど、それでも確かに裏面の形を記憶していた。
「なあ春野さん。どう見ても関係なさそうだし、そろそろ行こうぜ」
薄暗く人気のないトイレ、その外に生えた出所不明の江戸彼岸、その枝に括り付けられたおみくじと謎の紙。
段々と気味が悪くなってきた。
ただの偶然と言ってしまえばそれまでで、何一つ関連性など無いのだろうが、何か作為的なものを感じずにはいられない。
「……春野さん?」
僕の呼び掛けに答えず、彼女の目は紙に釘付けである。
まるで、何かに取り憑かれたかのように。
「春野さん! おい、春野! しのぴっぴ!」
「はっ! なんでしょうか彼氏くん!」
「なんでそこで気づくんだよ」
はっとした様子で顔を上げた彼女は、しかし何かに取り憑かれた様子も無く、あっけらかんとしていた。
「昔から文字を読んでいると周りの声が聞こえなくなっちゃうんですよ。お恥ずかしいです」
「はぁ、びっくりするからよしてくれ。呪われたのかと思ったぞ」
「呪い? ないですよそんなもの。仮にそれらしい現象に見舞われたとして、呪いの元を辿ればいつでもトリックと犯人がいるんです。そうじゃないとただのオカルトですよ」
ジャンルが変わってしまいます。
と、当然の如く語る。
僕だってオカルトなんて、それは神も含めて信じちゃいないけれど、おかしな偶然が重なれば十分にオカルト足りえるのではないかとも思う。
「とにかくもう行こう。なんであれ女子がいつまでも男子トイレにいるのは良くない」
「それもそうですね。じゃあ次の目的地に行きましょうか」
その瞬間、嫌な予感がした。
嫌な予感だなんてそれこそオカルト地味ているけれど、このまま部室に行くことが出来ないような、そんな気がしてならない。
そしてその予感は見事に的中することになる。
「ところで橘さん、通学手段をお聞きしても?」
「え? 自転車だけど」
これが失言だった。
失言であり、今日一番の失敗でもあった。
「それなら都合が良いです! さあ行きましょう! 時間がないですよ!」
言いながら彼女は僕の袖を鷲掴みにして、ぐいぐいと引っ張るのだ。
微動だにしないほど非力なのだが、また転ばれても困るので、彼女の導くままに着いて行く。
いや、まあ。
格好をつけずに正直言うと、女子に手を引かれる経験など皆無であり、手を繋いだ事すらない僕は、このちびっ子が相手だとしても、その状況を拒めるほどハードボイルドではないのだ。
「い、行くって、どこに行くんだ?」
「決まっているでしょう! 荒脛巾神社ですよ!」
どうやら決まっているらしい僕の行き先、宝探しの目的地は、もはや校内ですらないようだった。
さて。
後になって思い返せば、ここが僕たちにとって最後のチャンスだった。
より正確に言えば『僕たち』ではなく、春野が引き返すための最後のチャンス。
なにから引き返すのか?
それは僕には分からないし、答えなんて無いのかもしれない。
続きを話そう。
謎に包まれた、謎解きの話を。