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世界の終わりに祝杯を  作者: 凪司工房
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 大学三年生の秋は慌ただしく就職活動の準備に追われ、気づくと私も酒林も大学を卒業していた。互いに春からスーツを着て、毎日満員電車に揺られながら通勤することが決まり、久しぶりに会って酒でも飲もうということになった。

 それが三月十九日のことだった。


 土曜日の居酒屋は流石に混み合っていて、入口で十分ほど待たされてから、店の隅の方の席に案内された。二人ともビールを注文し、適当につまみを選ぶと、顎のところだけ髭が伸びているのを触りながら、酒林はこう切り出した。


「覚えてるか、あの約束」


 それは二年前の秋、二人で話した時に交わしたものだ。私は当然忘れていなかったし、でも出来れば思い出してもらいたくなかった。何より、あの頃の自分はどうかしていたとでも言って笑ってもらえるものかと、三割くらいの期待があった。


「明日、やろうと思う」

「は? 就職も決まって社会人としてやっていくんじゃなかったのか?」

「そういう自分もいたさ。けど、もう決めた」

「それじゃあ、私は約束通り……君に明日、殺されるよ」


 何故そんな約束をしたのか、まだアルコールが残っていた加減でブレーキが壊れていたのか、それともある意味で彼を止めるのに必死だったのか、自分の感情の記憶が欠落していたが、約束をしたということだけはしっかりと覚えていた。


「本当に、いいんだな?」

「そう言っただろう? 私は君が誰かを殺して死刑になるというなら、その誰かに私がなると」

「園崎は変わっているな」

「変わっているのは君の方だろう、酒林」


 それはまるで久しぶりに会った友人との何気ない会話のようだったが、話している内容はとてもそんな穏やかなものではなかった。ただ空気感は冗談を言い合っているようにしか見えなかっただろう。誰だって、人殺しをすると口走った人間が笑っていたら、本気でそう考えているとは思わない。少し危ない人かも知れないとは、考えるかも知れないが。


「じゃあ、これが最期の晩餐という訳だ」


 酒林は彼にしては珍しいくらいの笑みを浮かべ、それから何度か「最期の晩餐」と口の中で呟いた。


 最期の晩餐と云えば誰もがあのレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた十三人が一つのテーブルに横並びになっている絵を思い浮かべるだろう。十二人の使徒の中に誰か裏切り者がいる。それをイエスが予言し、更に自分の苦難の際に使徒たちが逃げるだろうとも言った。これはイエス・キリストが処刑される前夜の出来事を記したものだと云われ、磔になった後、三日後に彼は復活をする、というのがキリスト教でのイエスだ。使徒というのはイエスの弟子たちのことだが、自分を慕い、布教活動にそれぞれ熱心だった、それこそ息子のような者たちに対して、死ぬ直前にそんな忌まわしい予言をするのは少し意地が悪いなと私は思うが、その予言をすることで使徒たちをそう仕向けようとしていたと考えると、ただの善き人ではないと思えてくる。


「折角だからパンとワインを頼もう」


 彼なりのジョークだろう。けれどワインは種類がなく安物で、パンもメニューになかったので代わりにピザを注文するということになった。


「小麦粉が使ってあればパンだろう?」


 という、彼にしては珍しい適当さで、だから私も異存はなくチーズがどろりと溶け広がっているそのワンピースを頂いた。


 その後は“死”についての話は一切しなかった。

 まるで明日以降も日常は続いていくと云わんばかりの会社員としての身だしなみやマナーや、身につけておいた方がいいスキルとか、同僚との距離感であったり、酒の席のお誘いや上司その関係、最近はお酒よりもゴルフよりも別のスポーツだったり、MMORPGやFPSゲームなんてこともあると教わったり、そんなある意味でどうでもいい会話をした。


 人間が死ぬ前日の会話なんて、そんなものかも知れない。最期の晩餐だからといって殊更に何か特別なものを準備するとか、高額なものを注文するとか、そういう馬鹿なこと、無茶なことをしようとは案外思わないものだ。それは私と酒林だから成立したものなのか、それとも多くの他の人間にとってもそう変わらないものなのかは分からない。そもそもそんな他人のことを考えても仕方ないのだ。何故ならもう明日には全てが終わる。それはどこか清々しくもあり、恐怖とは無縁の、もっと綺麗で真っ白な部屋の中に一人佇んでいるような心地に近い。

 私と酒林は明日の合流予定地点についてだけ最後に確かめ、店の前で別れた。

 この時はそれが今生の別れになるとは思わず「また明日な」という、何とも当たり障りのない、日常会話の延長のようなもので互いの言葉は締め括られた。


 翌日、私は目覚ましをセットした時刻より一時間早く目が覚め、近所のコンビニに出かけておにぎりが三つ入ったパックとお茶を購入し、レジに並んでいる時に入ってきた若い男女の二人の会話で、その事故の話を知った。

 明け方だったらしい。

 交差点で酒林は車に撥ねられ、この世を去った。酒林穣太郎、享年二十四歳で、彼が実は浪人していたことを知ったのはその新聞記事でのことだった。記事にはまだ十代の運転手が前方不注意により、道路の真ん中を歩いていた酒林に気づかずに事故を起こし、すぐに連絡をしたが救急車が到着した時には既に心肺停止でそのまま息を引き取ったことが書かれていた。

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