愛
聖堂の空間に一筋の亀裂が現れる。
その亀裂は人ひとりが丸々飲み込まれるほどの大きさにまで広がる。
その亀裂の内側から、何かがこちら側を覗いていた。
「な、なんですか!?」
それを見たグラトリアが驚きの声を上げる。
後ろに立つ二体の魔族もたじろいだ。
亀裂の後ろに立つセシリアだけが、曇りない、どこまでも澄んだ瞳でそれを見ていた。
「見せてあげよう。マルタン」
その言葉と同時に、亀裂の中から“それ”は現れた。
それは二メートルを超えるほどの巨大な体躯をしていた。
全身は血を被ったように赤い。
頭部には数本の触手が絡まり、まるで甲冑を被ったかのような形をしていた。
肩や背中からは幾つもの棘が生えている。
下半身は途中で途切れ、先端が空間と同化していた。
右腕には真っ二つに折られた剣が一体化している。
そして、首には全身よりも更に赤く、黒い臓物のようなマフラーが巻かれていた。
グラトリアは突如現れた異形の怪物に後ずさりしたが、すぐにそれの右腕にあるものを見て目の前の存在の正体におのずと合点がいく。
「……その右腕の折れた剣、聖剣か……! まさかお前、勇者マルタンか!?」
「……」
異形の怪物は----マルタンは答えない。
彼は左腕をゆっくりと動かし、グラトリアの後ろにいる魔族の片方に向かって掲げた。
「え? ……あ、あ、あっ」
何かしらの攻撃を受けると考えた魔族はとっさに身構える。
しかしのその行動は結果として徒労に終わる。
「あ、あ、あ、ああ----」
突如その魔族の体が見えない力によって雑巾のように絞られた。
血と肉片が辺りに飛び散るが、それらすべてをセシリアの結界が死体と共に包み込む。
魔族の死体が入った結界の箱はどんどんと収縮し、やがて死体ごとこの世から消失した。
「汚さないで」
それを行ったセシリアは冷たく言い放った。
その目に魔族に対する一切の慈悲はない。
マルタンは掲げていた左腕を横へ動かし、もう一体の魔物に向けた。
「ひっ! う、うああああ!!」
その魔族は死を感じ取ると踵を返し、聖堂の外に向かって駆け出す。
しかしすぐにその体は不自然に体制で止まる。
「あ、あ、あ、あ、あ----」
やがて彼も先ほどの魔族と同じように原型が無くなるまで捩じられた。
またも同じようにその死体はセシリアの結界に包まれ、収縮してこの世から消える。
後方で二人の部下が殺されたにもかかわらず、グラトリアは笑みを崩さなかった。
しかしその額には一筋の汗か滴る。
「やはり勇者か……!」
姿に面影は殆どない。
しかし今の攻撃、それからわずかに感じる気配。
目の前の怪物が勇者の成れの果てであることをグラトリアは確信した。
「ククク、アーハッハッハ!」
グラトリアはまた高らかに笑う。
それは果たして心からの笑いか、或いは焦りを誤魔化すためのものか。
それは彼本人にしか分からない。
「おかしいと思ったのだ! 教会にどれだけ近づいても、我々魔の物を拒絶する気配が一切ないことに。それもそのはずだ! まさか教会の核たる聖女がアンデットの存在を許しているのだから!」
グラトリアはそう言いながら腹を抱えてひとしきり笑う。
そして突然その笑いをやめた。
彼が顔を上げた時、その目は純粋なる殺意に満ちていた。
「会いたかったぞ、勇者」
もう今までの取り繕った態度はない。
剥き出された本性。
グラトリアの体は次第に肥大化し、それに比例するように強い気配が聖堂を満たす。
「これを見ろ」
グラトリアは丸太のように太い腕で、胸に深々と刻まれた傷をなぞって見せた。
「あの決戦でお前につけられた傷だ。どれだけ寝ても、食い殺しても、この傷だけはいつまで経っても消えやしねぇ!」
「……」
牙を剥き出しにして叫ぶその姿を見ても、マルタンは何も答えない。
その甲冑のような触手の下で、どこを見ているのか、何を見ているのかわからない。
「……お前も哀れだなぁ。死してなお、後ろの女に魂を抑留され、現世に縛られ続けるとは」
グラトリアは両腕を下ろし、脱力する。
次の瞬間、その場から黒い巨体が姿を消した。
マルタンが右手の聖剣を構えると、そこに鋭利な爪が振り下ろされた。
耳障りな金属音が教会内に響く。
「その無様に折れた聖剣で俺の肉体を斬れると思うなぁ!!」
グラトリアは振り下ろした爪でマルタンを抑え込み、もう片方の爪でその体を串刺しにしようと、腕を突き出した。
マルタンは素早く体を翻してその場から逃れた。
そしてその右腕の聖剣で突き出されたグラトリアの腕を切り落とした。
「グアアアアア!?」
刹那の一閃。
折れた聖剣を使用しているにも関わらずその速度は生前のマルタンと同等、いやそれ以上に研ぎ澄まされていた。
魔王軍幹部のグラトリアですら自らの腕が切り落とされた瞬間を認識できていなかった。
グラトリアは傷を抑えて痛みに唸る。
その傷の断面からは大量の血が流れ落ちた。
「汚さないでって言ったのに……」
聖堂の床が汚られたことにセシリアは顔を顰めた。
「クソォ!!」
グラトリアが残った腕を頭上に掲げた。
その一部分に体内の魔力を集中させる。
魔力は高密度に凝縮され、やがて熱エネルギーへと変換された。
今、グラトリアの掌には超高温の火球が生成されている。
「勇者! ここら一帯諸共貴様を消し炭にしてやる!!」
魔王軍幹部の手で作り出されたその火球は、聖堂のだけでなく周囲の街にすら甚大な被害を与える威力を秘めていた。
グラトリアは叫びながら掲げた手を振り下ろす。
火球はマルタンに叩きつけられ、爆炎が周囲を飲み込む----はずだった。
「----は?」
グラトリアの目線の先には作り出した火球も、それを持つ掌も無かった
振り下ろされた腕がすでに切断されていたのだ。
グラトリアは頭上にある光源を感じ取り、咄嗟に顔を上げる。
そこにはセシリアに作り出された結界の中に覆われた、自らの切断された掌と火球があった。
セシリアはグラトリアが腕を振るうよりも早く、その掌を結界で囲うことで無理やり切断したのだ。
「私に戦う力が無いと思った? 私の結界術が二年前と同じだと本当に思っていたの?」
結界の中で火球が勢いよく弾けた。
逃げ場のない衝撃がダイレクトに彼の掌を燃やし尽くす。
火炎が消え、傷一つ無い結界の中にはさっきまで掌だった灰だけが残った。
そしてその灰も結界と共に消失する。
「ぐ、グオオオオオオ!!」
為す術なく両手を失ったグラトリアは叫ぶことしかできなかった。
彼の強者としての矜持が、今完全に打ち砕かれたのだ。
マルタンはそんな彼の心情などお構いなしにその腹に聖剣を突き刺した。
「がッ、はッ」
串刺しにされたグラトリアはマルタンによってその巨体を持ち上げられる。
足をジタバタと動かし抵抗するが、目の前のあるものを見てその動きを思わず止めた。
マルタンの頭部が、甲冑の形を保っていた触手が花弁のように開いたのだ。
そしてその中から人間の姿をしたマルタンの上半身が現れる。
「俺を哀れだといったな?」
死人の彼が、まだ生きているグラトリアに当然のように話しかけた。
「彼女が俺の魂を縛り付けていると。違うな。これは俺の意志だ。愛する人が俺を必要とし、それに俺が答えた。思いの力だ。ただそれだけだ。殺す前にこれだけは言っておきたかった」
真剣な面持ちで話すマルタンの姿をセシリアはただ見つめていた。
グラトリアもまた、無抵抗に目線を外すことができなかった。
「……死んだことで分かったことがある。生きとし生きるものすべてに宿る魂には色がある。決して他者とは被らないそいつだけの色が」
マルタンはグラトリアの顔を、肉体を、その奥に宿る魂を覗き込んだ。
「薄汚い色だ。この色は一度見たら決して忘れない。……クヒヒ」
マルタンは突然笑い出した。
それを見たグラトリアは、背筋にかつてないほどの悪寒が走る。
額から汗が滝のように流れた。
その様子を見たマルタンは更に嗤う。
「アァハッハッハッ! いいか? あの世に行ったら魔王を探せ! 俺もいずれそこに逝く! お前は印だ! あの世に行ったらお前のその薄汚ねぇ魂を探しだし、お前も! そばにいる魔王も! 周りの魔族も全てもう一度殺す! お前たちが傷つけ、苦しめた人々の数だけ、何度も、何度も、何度もだ! せいぜい楽しみにすることだな!!」
「あ……あぁ!」
グラトリアはただ震えることしかできなかった。
目の前の男の目に一切の偽りはない。
彼は死してなお自分に安寧の地はないことを確信したのだ。
「……じゃあな」
マルタンは突き刺した聖剣を上方向に引き抜いた。
グラトリアの体は腹から真っ二つに裂ける。
マルタンは加えて横一線にその体を切り裂いた。
十字に切り裂かれたグラトリアの肉体は聖剣の光に包まれ、その血の一滴たりとも残さずに消滅した。
聖堂はいつもの夜の静けさを取り戻した。
次がエピローグです。