河南尹夏侯惇
後漢の司徒は独裁者ではない。
宰相である相国、丞相という職名が使われなくなり、前漢の大司徒から「大」が取れた後漢では、事実上の宰相として国政を担っていた。
しかし三公の一つであり、他の司空・太尉とも職務を分担している。
外戚が専横を振るっていた時期は、大将軍が独裁者として振舞い、司徒は名誉職に過ぎなくなった。
他にも董卓時代は彼が相国を復活させた為、やはり司徒は名ばかり宰相となった。
現在の漢は、司空の曹操が牛耳っている為、司徒の劉亮はその下のような立場である。
ただ、曹操は劉亮に国政の一部を委任していた。
そもそもの司徒の職務は戸籍の管理、財務、文部科学省のようなもの、である。
土断の法を先取りする現住所戸籍法や、通貨政策、医者の国家試験や登録制度の整備なんかは司徒・劉亮が発案したり、曹操の意向を受けて実行していた。
この職務の範囲でさえ、属吏たちから反発されたりする。
ましてや劉亮が司徒の職を超えて何かしようとすると、関係省庁から更なる反発を食らうのは当然だ。
劉亮は越権行為をしない。
紙は兎も角、料理に関する食材の栽培なんかは、自分の邸宅内に畑を作って自分だけで消費しようとしていたのだが……いつの間にか曹操が嗅ぎ付けてしまう。
そして気に入ると、作付命令を出すのだ。
農業は大司農が取り扱っていた。
しかし、この時点では大司農が一括管理はしておらず、穀物、塩鉄、輸送、貯蔵等の各種役割が分割されて担当官を置かれていた。
曹操の思いつきを実行させるには、これらの担当者との調整が必要になる。
その調整について、曹操は劉亮に丸投げしていた。
曹操と同様、劉備も丸投げ体質がある。
しかし両者は異なる。
劉備の場合、担当者がこれをしたいと提案したら
「よし、自由にやってくれ、責任は俺が持つ」
といった感じになる。
言い出しっぺは感動し、頑張ってこの恩に応えようとする。
しかし曹操の場合は
「俺が計画を立てた、この通りにすれば問題無い、だから後は全部任せた。
責任は俺が持つが、それは計画そのものに間違いがあった場合だ。
職務怠慢による失敗はお前の責任だからな」
と言ったもので、結構怖い。
何よりも
「言い出しっぺはあんたなんだから、最後までやってくれよ!」
と思わざるを得ない。
曹操からしたら、能力に見合った仕事を振っているから問題無いとの事。
本人のやる気なんてものは考慮しない
「俺の下に来たのなら、その能力を全部発揮して貰う」
という考え方なのだ。
そんな訳で、農業では大司農から分割された各種担当、財務では大司農から権限を奪った尚書、その上曹操の文人招聘では袁煕とも調整をしなければならない劉亮に、更に仕事が増やされる。
劉亮は曹操から呼び出しを受けて、
「知っていると思うが、この隻眼が夏侯惇だ。
一緒に仕事をして欲しい」
と言われたのだ。
(この人が夏侯惇……)
演義や漫画で見ていたような風体である。
左眼を矢傷で失い、本人は「盲夏侯」と呼ばれるのを本気で嫌がっていたが、それが見た目の特徴になってしまっている。
それでいて武将なのだから、描かれる姿は似たり寄ったりになるだろう。
夏侯惇は河南尹を勤めていた。
洛陽の存在する河南「郡」を、首都の在る地だから特別に河南尹と呼び、郡太守に相当する職務も河南尹と呼んでいた。
だから元々は首都地域の地方行政官、劉亮の前世で例えるなら東京都知事に相当するものだが、夏侯惇には更に重要な任務が命じられていた。
それが首都・洛陽の復興である。
董卓が破壊し、孫堅が復興しようとして途中で終わり、その後皇帝が長安から帰還するも、いまだ廃墟のままであった為に許都に移されて今に至る。
許都は臨時の都のような扱いで、本命の首都は皇帝も曹操も洛陽を考えていた。
その洛陽復興を任された夏侯惇だが
「どうして俺なんだって、あんたも思うだろ?」
と、曹操の元を辞して劉亮と二人になると、早速愚痴って来た。
夏侯惇は気性が荒く、曹操から独断専行を許されていたりと、豪傑なイメージである。
しかし違う側面も持っている。
彼は人を見た目で判断しない。
自分の隻眼にコンプレックスを持った事もあるのだろう。
曹操を嫌う者や、曹操から距離を置こうとする者とも、親しく付き合いが出来る人物だ。
曹操陣営の中で、荀彧・荀攸以外は劉亮を嫌っているが、この夏侯惇はそうでは無かった。
実は、彼くらい劉亮の立場を理解している者も居ない。
実の兄弟からは距離を置かれている曹操を、旗上げ以来ずっと支えて来たのが夏侯惇・夏侯淵・曹仁・曹洪の四人である。
夏侯惇はその中でも曹操の副将格であり、自由奔放な曹操に代わって彼の陣営を束ねて来た。
そして曹操から無茶振りもよくされる。
説得役とか、調略の担当とか、この洛陽復興の任務とか。
「どうして俺なんだって、あんたも思うだろ?」
その質問に劉亮は
「皇帝を狙って盗賊が現れたり、逆に官位狙いで盗賊が皇帝を守ったり。
そんな物騒な地域で安心して人々が暮らすには、将軍の『名』が必要だったからでしょうね。
司空殿の事ですから、細かい指示は自分で出している。
その指示を遅滞無く実行するには、裏切らない、怠けない、人を過酷に使用しない、逆に甘やかさない、そして賊に怯えさせずに安心して作業をさせられる人物が適任。
失礼ながら、工事の才能とか都市設計の才能を、司空殿は期待してはいないでしょう。
将軍だからこその抜擢ではないでしょうか」
そう回答。
それを受けて夏侯惇は更に愚痴を零す。
「それはそうなんだ。
言い当てたあんたは凄いが、その事を俺は孟徳……失礼……殿から直接聞かされている。
だけどなあ、聞いてくれよ、あいつはもっと辛辣だった」
「えっと……どういう事でしょうか?
実の兄弟以上に親しい将軍に、司空殿が酷い事を言うのですか?」
「ああ。
あいつなあ、
『”負けまくりの夏侯元譲”でも世間は”鬼の盲夏侯”と恐れている。
その虚名を使わん手は無い。
戦えば負ける事もあるから、負けないように温存してやる』
なんて言いやがったんだ。
酷いと思うだろ!?」
夏侯惇は、当然勝利も多いが、意外に負ける事も多い。
反董卓連合での戦いにおいて、揚州で募兵して精強な兵士を得たが、反乱により多くを失ってしまった。
曹操の徐州攻めの際、兗州の留守を任されていたが、呂布に大半の領土を奪われた。
その後、曹操が戻って来る前に解決しようと呂布と戦い、呂布の部下に捕らわれてしまう。
曹操帰還後に再び呂布と戦うが、これで左眼に矢を受けてしまった。
劉備と共に、呂布配下の張遼・高順と戦ってまた敗北。
袁紹との対峙中、不穏な動きをした劉表を牽制すべく荊州に赴いたが、ここでも敗れて兵を引いた。
そんな夏侯惇なのだが、曹操は積極的に「鬼将軍」という仇名を広めて回っている。
そして夏侯惇は、実績以上に恐怖される存在になってしまった。
曹操は
「お前も嬉しいだろ? なあ『負けまくりの夏侯元譲』」
と揶揄ってくる。
その虚名を目一杯利用しての、河南尹での治安維持であった。
「俺は先年の并州平定だって先鋒を勤めた。
俺は勝ったんだぞ。
その後に暴れた郭援と郭図とやらも俺が撃退した。
なのに殿は『負けまくりの夏侯元譲』って言うのを止めない。
その癖、周囲には『鬼の盲夏侯』と吹聴して回っている。
俺の実態はどうなってるんだか……」
(郭図に勝っても自慢にならんのでは?)
一瞬そう思う劉亮。
(この人、俺と似ているなあ……)
劉亮はつい同情してしまう。
彼も虚名が勝手について回る居心地の悪さを知っていた。
良い方では「董卓に七度逆らい投獄された気骨の士」「名臣盧植の愛弟子」「青州の名州牧」。
悪い方では「字もろくに書けない野人」「異民族を招き入れて中原を荒した千年に一人の悪人」。
どれも彼を現してはいない。
「青州の名州牧」と言われているが、彼の在任中は部下からかなり反発されていた。
青州において流民を屯田兵として治安安定させたのは兄の劉備が州牧時代だし、士大夫が褒め称える「儒学の都」化は孔融の名あってのもの。
盧植が遺言を託した男としても知られるようになったが、それは青州を統治していたからで、弟子として愛されたからではない。
大体現役時代の盧植は、幽州の私塾の弟子の事なんて一々覚えておらず、出世した弟子が報告に来て認識したという具合だ。
こんな感じで虚名と付き合って来た劉亮は、夏侯惇にも同じものを感じた。
それは夏侯惇の方も同じだったろう。
最初は洛陽を守護する者として、異民族の大挙襲来には怒りを覚えていたが、その後曹操から
「それは恐らく劉亮叔朗の策ではない。
状況的に烏桓単于の娘婿のあいつが疑われているが、あいつはそこまで出来ない。
かなりの民思いでかつおっちょこちょいだぞ、お前と同じで」
と半分揶揄われながら言われて、夏侯惇は腑に落ちた。
(自分と同じって事は、虚名が先行しているって事か?)
こうして夏侯惇は、講和成立後に劉亮が朝廷に仕えるようになると、敵意無しに彼の事を観察する。
そして思った通り、異民族を招き入れて戦場を滅茶苦茶にするような策は立てず、手法こそ奇抜に見えるが、目的は至極真っ当な事であると見切る。
それで曹操に直談判して、彼と会えるよう取り計らって貰ったのだ。
その日、劉亮と夏侯惇は洛陽復興について語り合う。
案の定、洛陽の宮殿の設計だの市場の置き場だの道路枠の排水だのは、曹操自らが設計図を引いていた。
この辺は劉亮が特に口出しする必要が無い。
夏侯惇が気にしたのは、別の問題である。
霊帝から始まり董卓に至るまで、散々な目に遭った地域だ。
そして霊帝の時のハイパー一歩手前のインフレを経験している。
通貨の価値が滅茶苦茶になっていた。
それ自体は劉亮の策もあり時間が解決するが、問題は董卓が暴いた歴代皇帝陵や貴族の墳墓である。
これを修復する事も、人心掌握の上で大事だ。
だが、元通りに大量の副葬品を入れる事はしたくない。
また財貨が死蔵される事に繋がる。
しかし儒学的に、何も無いのも認められない。
曹操は
「死んだ後、結局使われる事が無いのは、董卓が墓暴きをして証明した。
だから何も入れる必要は無い」
と割り切ってしまっているが、子孫の感情としてはそうもいかないだろう。
夏侯惇は、師が侮辱された事に怒り、相手を殺害した事がある。
儒の価値観を濃厚に持っている為、先祖の墓を大事にしないというのは何とも気持ち悪い。
劉亮の社畜精神が、分かっててやらない事について「宿題を先送りしているようで落ち着かない」と感じるのに似ている。
そこで劉亮が良案を持っているだろうと曹操から教えられたから、思い切って相談したのだ。
劉亮は
(俺に振るなよ)
と溜息を吐きつつも、紙で作った冥銭とか、土で作った馬車、それもミニチュアを提案する。
古くは生きた人間を「冥府での使用人」として生き埋めにしたが、やがて土作りの俑に代わる。
始皇帝の死後の軍団「兵馬俑」なんかが有名だ。
漢になり俑は小型化する。
その流れを踏まえて、副葬品は現物でなく、代用品をミニチュア化しよう。
「しかし、代々の皇帝の陵に、そんな安物を入れると馬鹿にされたと思うだろう。
それは殿が誹謗される材料にならないか?」
夏侯惇が理解しつつも、問題点を指摘する。
夏侯惇だって、似たような事は考えていたのだ。
劉亮の回答は
「安物にしなければ良いのです。
職人を集めて、しっかりした物にしましょう。
職人には高い報酬を払います。
そうすれば安物ではなく、高価な物として先祖への礼になりましょう」
である。
「だがそれは、墓に高価な物を入れる事と同じではないか?
手厚くしたいが、殿の方針は墓なんかに銭金を使うな、なのだが」
「将軍、墓の中の人物は銭金を使いませんが、墓の中に入れる物を作った人たちは金を使います。
墓の中で留まっていたのが問題で、使われ続けるならそれで良いでしょう」
経済は動かないのが問題で、回転し続けている限り借金でも問題は無い。
そこまで分かった訳では無さそうだが、夏侯惇は劉亮の言いたい事を直感で理解したようだ。
夏侯惇は劉亮の知を称え、今後の協力も頼むと頭を下げる。
こうして劉亮は、敵だらけの中にまた一人味方を作る事が出来たのだった。
おまけ:
司馬懿、字は仲達、建安十二年(207年)は曹操の招聘を断っての自宅仕官生活六年目となっていた。
「働きたくないでござる!!!
絶対に働きたくないでござる!!!」
司馬懿は怪しい書物を読みながら、兄・司馬朗からの朝廷への出仕催促も拒否していた。
曹洪が勧誘に来た際も、重職を任せたいと言われたが
「だが、断る」
と拒否。
周囲に何と言われても
「まだあわてるような時間じゃない」
と悠然としていた。
曹操が
「仕官しないなら、家ごと焼いて良いからな」
と言って無理矢理仕官させる一年前の事であった。
(※:暫定最終章でのちょっとした重要人物なので、ここで先行登場させました)
告知:
三連休進行します。
この章終わらせて、番外編入ります。
19時に次話アップします。




