詳細な医療知識なんか知らないけど
曹操は劉亮の事をよく観察している。
彼は不思議な陶器を使っていた。
二段重ねの鍋なのだが、下の鍋はなんて事も無い普通のもの、しかし上の鍋は真ん中に山のような形の穴が開けられている。
最上部の蓋は丸くドーム状になっている。
下の鍋に水を入れてから火にかけて湯立たせる。
沸騰した蒸気が、上の鍋底の穴から入り込み、そこで冷えて水となる。
「汽鍋」というもので、劉亮が青州で作らせたものだ。
この道具自体も興味深いが、曹操にとって不思議に感じたのが、劉亮の子供の料理に、この鍋で出来た水しか使わせていない事だった。
上の子は健康だが、劉亮には三つ子が生まれていて、この子たちが未熟で虚弱だったのだ。
それが健康管理に気を使った為に、とりあえず普通の子に成長していた。
「どういう事か?」
曹操は疑問に思って劉亮に尋ねた事がある。
「汚れた水でも、こうして沸騰させ、水蒸気にしたものを冷やせば綺麗な水になる。
例え海水でも綺麗な真水になる。
下の子たちは体が弱いから、汚染された水を使わせたくない」
劉亮はそう答えた。
後世の科学技術を知る劉亮からしたら、生水を使うのは危険極まりないと思ってしまう。
自分たちも食事には濾過した後に煮沸した水を使っているが、子供たちに対しては体を洗う水、産湯、服を洗う水すら蒸留水を使っていた。
多少汚れた水でも気にしないようでないと戦場で役に立たないと曹操は言う。
しかし劉亮は、それは大人になってからで良く、幼児の内は過保護なくらいで丁度良いと答えた。
実際、乳幼児死亡率が高いではないか。
曹操すら、多くの子を少年にすら達しない年齢で失っている。
周囲を見れば、産まれて来ても育たない子は多い。
曹操はこの時、劉亮には医学の知識もあると感じたのだった。
「医学と衛生は違う!」
自領に留まらず、天下前提の医療体制を構築するよう言われた劉亮は反論した。
彼は確かに、後漢時代の人よりは医学知識がある。
しかしそれは使い物にならない。
この時代にはワクチンも無いし注射器も無い。
西洋医学に基づいた薬も無いし、劉亮の中の人も創薬の知識は持っていない。
知っているのは、汚れた水を使わない、冬場に乾燥をさせない、手洗いうがいをする、寝具は日光に当てて消毒する、気休めでもマスクをする、といった事。
石鹸を作りたかったが、油が足りないから断念した。
青州牧の時に、油用のアブラナ大量作付を命じたが、食糧最優先だった為に軌道に乗っていない。
こういう事情であると説明したが、曹操は認めない。
「司徒ともあろう者が、自ら医者のような事をする必要は無い。
医者を見極めれば良いし、その医者を使いこなせば良いのだ。
人を使う事も大事な事だぞ」
古代「周」の時代、医者は4ランクに分けられていた。
上から順に、王の食事を管理する「食医」、病気を治す内科医「疾医」、戦場での軍医となる外科医「瘍医」、そして獣医である。
食医と言えば聞こえが良いが、
「春に酸を多く、夏に苦を多く、秋に辛を多く、冬に鹹を多く、調えるに甘滑」
というメニューのアドバイザーみたいなものだった。
東洋医学では、病気とは気の乱れ、淀みによって生じる為、五行思想も交えて「正しい食事と生活をすれば病には罹らない」という思考になっている。
だから病気にさせない者が最上、病気を治癒する者が第二となり、以下外科、獣医となったのだ。
(未病の概念は素晴らしいが、それでも感染症には罹る)
それが劉亮の知見なので、「疾医」の地位をもっと上げなければならない。
この内科医が処方する薬、所謂「生薬」「漢方薬」だが、これもいい加減な物が多い。
漢方医学を知らない劉亮からしたら、どの医者がまともなのか、サッパリ分からない。
(人を使えって言ったよな。
だったら曹操を使ってやるよ)
劉亮は曹操にある事を依頼する。
「同じような病人を揃えて、医院という場所に隔離し、医師の処方を調べさせろだと?」
どの薬が実際に効果があるのか、症例別に試してみないと分からない。
ある意味人体実験である。
こんな事を頼めるのは、悪名を屁とも思わない曹操くらいだろう。
果たして曹操は
「面白い!
確かに薬の効果について資料を作った方が良いな。
それも一人、二人ではなく、多くの人を使った方が確実だ。
そして、効かない薬を効くと称している贋物を焙り出す事も出来る。
よし、やろう!」
と食いつく。
これには多くの医者が反対をした。
曰く、症状を見極めた上で適切な投薬量を決めている。
症状は千差万別で、似ているように見えて違っている。
だから同じ薬でも、処方する医者と処方される患者による違いが出る。
データベース作り等無意味な事だ、と。
それでも許都で曹操と劉亮に逆らえる者はまずいない。
まず劉亮は冬場の咳から調査を始める。
咳病の中には、当時概念すら無かったから誰も知らないが、インフルエンザの可能性のものもある。
だから発熱した咳病と、発熱の無い咳病は分けて調査を行わせる。
半数の偽医師が脱落し、少数の名医は見事に治し、他は治せたり治せなかったりと患者によって違っていた。
飛び入り参加となった劉亮の、加湿器代わりに湯立たせた鍋を置いた部屋では、半数以上の治りが早かった事もあり、一躍医師たちからも注目される事になる。
まあ、一部の医師は経験則から劉亮と同じ加湿を行っていたから人間の知恵ってのは侮れない。
こういう医師は民間の者で、名士とかを相手にしている偉ぶってる者には居なかった。
劉亮にはちょっとエセ医師たちに負けたくない事情もあった。
古代中国の医学は、儒学と道教も混ざっている。
仙人になろうとする道教の薬は、極めて危険だ。
「人間は朽ち果てる、金属も錆びる、しかし水銀は永遠の姿を保つ」
という事で、水銀が仙薬と言われるものには混ぜられていた。
こういうのは野放しにしておけないが、ある意味どこか遠くの話である。
仙人になりたい世捨て人が飲んで体を壊そうが知った事ではない。
不老長寿を求めた始皇帝のような権力者は仙薬を求めるが、劉亮が仕える劉備も曹操もそういう人物ではない。
だから道教系医師は、民に変な事をしなければ放置で良い。
劉亮にとって道教の水銀薬以上にムカついたのが、儒学系の医師であった。
儒学系の医学は既に述べたように
「人間は正しい事をしていれば、正しく陰陽の気が循環して健康でいられる」
という天地陰陽の気の思想を組み込んだものである。
だから個人の体調管理以上に、天の理にかなった生活をしているかを見る。
それは生活態度だけでなく、親に孝行をしているか、主君に忠実であるか、等も含まれる。
だから好き勝手に生きている曹操とかは、その頭痛が「天地陰陽を乱す行いのせい」なんて陰口を叩かれたりしていた。
それはまだ良い。
曹操は生きているし、そういう話をしている場面にヒョイと現れては
「ならば、お前の治療で俺の頭痛を止めてみよ」
と凄んで、相手をビビらせて遊んでもいる。
反撃して来るから良いのだ。
劉亮がカチンと来たのは、今は亡き董卓について語った儒学医たちのしたり顔でのご高説であった。
「あの董卓を見てみよ。
正しい行いをせず、天を冒涜するような政治をした。
欲に溺れて暴飲暴食を繰り返し、酒食に耽った。
その結果があのような肥満した体となり、呂布が殺さずともいずれ天が滅ぼしただろう」
こんな事を訳知り顔で言っている。
(何も知らない癖に偉そうに。
一体お前に、董卓の何が分かるって言うんだ)
あの時期、間近で董卓を見ていた劉亮は、この医師を殴りつけたい衝動に駆られた。
まあ、我慢はしたのだが、気づけばその左手が董卓の遺品でもある腰の刀を弄んでいた。
後漢時代に「ストレス」だの「フラストレーション」だのという医学用語は無い。
特に精神医療や、心療内科のようなものは概念すらない。
だから知らなくて当然だが、あの時期の董卓は明らかに精神状態が普通ではなかった。
数多くの裏切り、自分が良しと思った政治の失敗、今劉亮が味わっているような官吏たちの面従腹背、そういうのが積み重なって暴食に走ったのだろう。
恐らく彼はあの時、いくら食べても満腹を感じなかっただろう。
そんな状態であった事を、見もしないで語っている。
董卓の恐怖政治があった時は身を隠していた者たちが、董卓が死んで時間が経ち、恐怖の記憶も薄れていった頃に薄っぺらく語っている。
(まだ医学的な見地から董卓の健康について批判するなら良い。
だがこいつが言っているのは「医学」ではない。
一端の儒学者ぶりたくて語っている思想だ。
なんか、こいつらには負けたくないように思ってしまうなあ。
どうした事だろう、俺は董卓は観察対象、つかず離れずの関係でいようとし、思い入れとかは特に無かった筈なのに、妙にあの傲慢で怖い男が懐かしい。
敵討ちなんてものじゃないけど、妙に董卓を語ってテキトーな事を言っている連中を負かしてやりたくなった)
それが司徒ともあろう者の、治療実験への飛び入り参加の理由であった。
この劉亮の、現代医学知識を使ったものも、結局五行の水の循環とか、換気による邪気の除去とか、色々テキトーな解説がされるのだろう。
それでも成果を出してみせた事で、医療改革に対する反対派も口を閉ざす事になる。
曹操は大笑いしながら
「思った通り、お前には医の知識があったな。
あの者たちを打ち負かすとは大したものだ。
俺にはあの者たちの、気だの陰陽だのという言葉より、お前の目に見えない病原体の話や、それが乾燥した口では繁殖しやすいと言った理屈の方が納得出来る。
だからこそ、医の改革もしっかりやり遂げて貰う。
……という訳で、勅命で全国から病人を送らせたから、しっかり頼むぞ。
あと医者もだ。
全国から埋もれている名医を探し出して、その知見を根こそぎ取り出すのだ!」
なんて言って来やがった。
曹操は必要とあらば強権発動を平気でする。
反対者は投獄し、一方で一般に向けても実験に参加する医師や、実験対象の患者を募った。
更に劉備、孫権、劉表、劉璋、馬騰、韓遂、公孫康といった者たちに対しても
「こういう患者が居るなら送れ」
「医療改革をするから、これはと思う者がいたら推挙せよ」
と皇帝を動かして勅を送ったりしていた。
(なにしてくれとんねん……)
劉亮はボヤいたが、そもそもデータ収集の為に病人を集めろと曹操に頼んだのは彼自身だ。
曹操はそれを大規模にやってのけたに過ぎない。
こうして敵対勢力や怪しげな存在からも病人や医師を集めるよう手を打たれたからには、劉亮も仕事をせねばなるまい。
劉亮は学者、この場合は儒者ばかりになるが、彼等に指示をして
「一定水準以上の者を医師として認める朝廷公認資格の発行」
「一定水準を計る為の指標の作成」
「薬草と薬効についてのデータベース作成」
「データを得る為の病院と、データを得る以上無償に近くして貧民からも病人を集める」
「医学の基礎教育の共通化」
「『秘伝』『一子相伝』も無いと協力しない医師もいるから、例えば毒と薬が紙一重な分野とか、現在研究中だから迂闊に外に広めたくない分野等の例外規定」
の作成を頼む。
更に健康調査として「保健官」を身分問わず派遣出来る事を認めさせた。
伝染病が発生した場合の早期対策、適切な予防方法の指導、乳幼児死亡率を下げる為の見回り等が職務であるが……
「流石ですね。
健康調査という名目で様々な身分の家に入り込める事を隠れ蓑に、人材調査、その家の富貴の調査も行い、私が唱えていた『有能な人材を探して推挙する』方式の下準備までなさるとは。
前例さえあれば、後は話が早いので」
現在は儒者の反対に遭っている新しい人材登用「九品官人」の肝となる審査官・中正。
この原型となる役人派遣を、別口から実現させた劉亮を陳羣は賞賛していた。
(まあ、正面から攻めてダメなら、裏口を使うっていうのはアリだからね)
自分の事でなく他人の依頼事については、柔軟に対応出来る変な癖がある劉亮であった。
おまけ:
名医「人間には陰陽の気が巡っています。
その気が淀めば病になります。
正しい生活や、激しい怒り等の精神から来る気の乱れを無くすれば、自ずと病にならずに済みます。
身体の凝り等をほぐせば、気の淀みも取れましょう。
経絡を温める灸、経絡の気の淀みを解放する鍼、ただ押すだけでも気を循環させられましょう。
薬だけが病に対するものではありません」
某偽医者「どれ、俺が治してやろう。
心配するな、俺は天才だ。
気の乱れを治すツボはここだな!
ん? 間違えたかな?」
劉亮「司徒権限で命じる。
即刻処刑せよ!
こいつは長く生き過ぎた……」
おまけの2:
その頃、青州では……
劉備「俺は高唐に移るぞ!」
劉徳然「待て、この臨淄は春秋の頃から斉の都。
廃れていたが、それでも青州の治所。
叔朗が梃入れして、昔の賑わいを取り戻して来ている。
あんな歓楽街しかない高唐より、ここが拠点として良い。
何故移るんだ?」
劉備「高唐は冀州、兗州に近い。
行動に移りやすい。
臨淄は少し遠い」
劉徳然「しかし……」
劉備「俺が青州牧なら臨淄で良いが、俺は左将軍。
俺の幕府は高唐に置くよ。
臨淄を捨てる訳じゃない。
ここはお前が治めりゃいいさ」
……という訳で軍事司令部の高唐と、政治経済の臨淄という形になり、劉備陣営はてんてこ舞いになりましたとさ。
田豊「確かに言ってる事は正しい……」
沮授「冀州に近くなったのは有難いが……」
劉備の司令部が置かれるだけに、都市開発もしなければならなくなり、皆が頭を抱える。
劉徳然「せめて叔朗が帰って来てからにしてくれ!
うちで一番そういうのが得意な奴なんだから」
それじゃ遅いのさ、徳然君。
おまけの3:劉亮が汽鍋を作った経緯は、番外編で書きます。




