曹操と劉亮
袁譚の首が鄴に届けられる。
袁煕はそれを確認すると、丁重に弔わせた。
その一方で、裏切りが露見した許攸は、鄴から逃げ出すも捕縛され、処刑されて市場に死体が晒された。
こうして袁煕の当主の座を脅かす一人を排除した所で、曹操との和議が始まった。
袁煕・劉備と曹操との和議は、ある一点を除いてあっという間に合意に達する。
簡単に言えば、黄河の戦い以前の曹操・袁家の状態維持であった。
もう他国を攻める余裕のない袁煕、河北を安定させて自立を目指す田豊・沮授の意見を容れた劉備に、これを拒否する理由は無い。
よく分からなかった条件、それが
「劉亮を許都に出仕させよ」
であった。
「えーっと……どういう事ですか?」
劉亮には意味が分からない。
いや、曹操が何度も「お前を俺の部下にする」と言っていたのは覚えている。
それにしても、つい先日まで敵として戦っていたのに、こんなのアリなのか?
「曹操は、お前を差し出せば以降は河北を攻めない。
十年の和平を約束すると言っていた」
「たった十年……とは言いませんよ。
それだけあれば、荒れた河北は立ち直りますからね。
ではあっても、私にそんな価値が有るんですか?」
「有る」
「自分の価値をご存知ない?」
「天下に名が聞こえているのに、随分と呑気な事だ」
「河北四州分の価値はありますね」
劉備だけでなく、沮授、田豊、張郃が一斉にツッコミを入れた。
「それにしたって、私に断り無しで講和条件に入れるなんてあんまりです」
「いや、曹操は本人と話し合いたいと言っていた。
俺も曹操の意図は聞いたし、叔朗にとって悪い話ではないように思った」
「どんな意図ですか?」
「本人に聞け。
その上で嫌だったら断れば良い。
断る事は出来るそうだ。
ただしその場合、和議は不成立で再戦となるが」
「それ、断れないって奴じゃないですか!」
すると劉備の代わりに田豊と沮授が
「其方一人で河北の民が安心して暮らせるようになるのじゃ!」
「劉亮殿、ここで断ると名士の名が廃りますぞ」
と圧を掛けて来る。
「まあ、なんだ、曹操とは旧知なんだし、話だけでも聞いて来い」
「兄者」
「何だ?」
「兄者は私が居なくても大丈夫なのか?
私は不要だったか?」
「そんな訳無い。
お前は大事な弟だ。
仮にお前が無能な役立たずだったとしても、俺はお前を見捨てたりはしない。
現実のお前は俺よりずっと頭が良い。
俺の宝だよ。
手離すなんてとんでもない。
だけど、曹操の話を聞いたら、天下の為にもお前を貸した方が良いように思えてなあ」
「兄者、貸すだけですね?」
「当たり前だ。
誰が渡すものか!」
「分かりました。
話だけでも聞いて決ます。
ですが、私の主君は兄者一人です。
決裂した後、再戦の準備もしておいて下さいね」
「うむ、天晴れな兄弟愛。
なれどお断り無きように」
「貴方様は左将軍の片腕。
我々としても頼りに思っております。
ですから、曹操の下でもしっかりお働き下さい」
(こいつら……)
田豊と沮授からそんな事を言われながら、劉亮は許都へと向かう。
こういうのは前例が無い訳ではない。
孫策、次いで孫権に仕えていた華歆という人物は、曹操の招聘を受けて移籍をした。
その際、引き止める孫権に
「将軍は曹操と関わり始めたばかりだから、誼を通じる必要があります。
私を曹操の元に行かせれば、必ず将軍にとっての益があります。
今私を留めていても、無用の者を養うだけのことで、将軍にとって良計ではありません」
と言ったという。
華歆はその後も曹操に仕え、史実ならやがて相国とそれを改称しての司徒、即ち宰相になっているが、果たして劉亮は……?
「おお、やっと来たな、叔朗!
俺の下で働いて貰う。
とりあえず”司徒”の職を用意しておいた」
曹操は爆竹くらいの感覚で、水爆級の爆弾発言をする。
「待て!!
なんで人の意思も確認しないで、しかも『三公』の一つを用意してるんだよ!」
いくらなんでも、朝廷では郎しかしていない劉亮を三公にするのはやり過ぎだ。
「うむ、意思の確認か、分かった。
今からしよう。
ただし断る事は考えない方が良い」
「脅迫か?」
「いや、絶対に断らないって自信だよ。
で、何か聞きたい事でもあるのか?」
「有るだろ。
私を兄から引き離して、何をするつもりだ?」
「知れた事!
お前が居ない劉備等恐れるに足らず!」
「帰らせていただく」
「待て待て、戯言だ。
簡単に言えばな、劉備ではお前を使いこなせん。
だから俺の元に来て貰った。
劉備の部下としてのお前は換えが利くが、お前の頭脳を使いこなすものとしては俺以外には居ない」
「それは買い被り過ぎだって……」
「まあお前がそう言いたいのは分かる。
人の頭脳には三種類ある。
一つは知識。
物をどれだけ知っているかだ。
一つは知能。
物事をどう解決していくかだ。
一つは智謀。
人をどう謀るかだ。
物をよく知っていても、融通が利かん奴もいる。
色々と有能ではあっても、他人の悪意には鈍感で罠に嵌まるようなのもいる。
人を貶めるのは得意でも、それ以外の事は何も知らん陛下の側近のような奴等もいる。
頭の良さは人それぞれだ。
お前は智謀は丸で無い。
人を騙してどうにかしようって意思に欠ける。
知能は人並みだな。
融通が利かん所が見受けられる。
だからお前が最も持っているのは知識だ」
「……まあ、否定はしません。
出来ません」
(こいつ、一体どこまで俺を観察していたんだ?)
曹操の分析にちょっと怖くなる劉亮。
曹操は話を続ける。
「普通、知識だけでそれを活かせない奴を、俺は評価しない。
その知識を吐き出させ、書類にしておけば、知能が有る者がそれをより良く生かしてくれよう。
より多くの者が知を共有出来るから、人よりも書の方が便利だろう。
だが、お前の知識はそんな程度ではない。
何というか、何百年も掛けて試行錯誤して得た結果が頭に詰まっている。
それもありとあらゆる事についてだ。
書物として書き起こすとなれば、何十年という時間でも済むまい」
曹操は、劉亮の未来知識について薄々感づいていた。
それは人類の歴史で積み重ねていった叡知。
劉亮がカンニングだと思っている事は、その過程の逸話も含めて曹操が欲しいものであった。
「その知識を全て吐き出せ。
お前は、全ての知識を使う事を躊躇っている。
まあ無理も無い。
儒一尊で凝り固まった者には理解どころか、聞くのも汚らわしい事すらあるからな。
出し惜しみするのはお前が生きる為の知恵だったろう。
だが、ここではそんな遠慮は要らん。
思う存分、自分の知っている事を活かすが良い!」
曹操もちょっと誤解している。
曹操は、劉亮の中の人が「これをやったら、歴史を変え過ぎてしまう、自分が生きた未来に繋がらなくなるかもしれない」という恐れにまでは気づいていない。
知識が先鋭的過ぎて、余人には理解出来ない、だから「世を惑わす者」として排除されないようにしていると解釈していた。
「私の知識を何に活かせというか?
あんたの為か?」
「俺の為でもあるが、もっと広く、天下の為だ」
「天下の為?」
「お前も、兄の劉備や関羽とかも、天下の為と誓って挙兵したんだろ?
俺も、袁紹本初も、果てには董卓だって天下の事を考えていたんだ。
だったら最も天下の為になる場所で、その知識を活かすべきさ」
「だが、そうなると私の知識は河北には届かない。
天下全ての民の為にはならない」
「おいおい、劉叔朗ともあろう者が、随分と狭い了見で考えているなあ。
ここに書が在り、字が書かれている。
書も字も、誰かの物として収まり切れないものだ。
やがてこの漢の地はおろか、塞外や化外の地にまで広まろう。
農もそうだ。
誰かが考えたより多く収穫する方法は、留めようとしても人々に伝わり、やがて全国の知る所となる。
そういうものだ。
そういうものを俺はお前に期待している」
「……そうやって力を着けたなら、あんたは兄を攻撃するのではないか?」
「お前の兄弟に対する感情の強さは敬愛に値するな。
俺からしたら、お前の方が余程天下の役に立つ男なのだが……。
まあ良い、その質問に答えよう。
お前が居たなら、俺は劉備の事などどうでも良い。
手出ししない。
する必要が無い。
結局は俺の後追いをする事になるだろう。
そうなれば、争う理由も無くなる。
戦わずして劉備は俺の下に入るか、手を携えて共に歩くか、そうなるだろう」
「それが分からない……」
「お前が青州でやった軍屯(屯田兵)、戸籍の回復、騎馬民族の慰撫。
それらは俺や袁家だけでなく、他勢力だって見様見真似で真似している。
俺は儒に偏った推挙を改め、『唯才是挙』として才能重視の登用をしている。
これもやがては全ての者が採用するだろう。
詩の新しい形も模索している。
各地の文人たちにも伝わるだろう。
天下は変わる。
変わっていく。
その時、劉備だろうが袁煕だろうが、呉の孫権だろうが荊州の劉表、蜀の劉璋、誰でも良いが、結局は一つの漢に戻って来るだろうさ」
ある意味壮大で、ある意味楽観的な曹操の考え。
劉亮の前世も、大概「平和ボケ」「お人好し」「世界を自分たちと同じように見ていて、もっと悪意に満ちている事を知らない」と揶揄されたものだ。
「曹操殿」
「なんだ、改まって」
「私はよく現実離れと言われて来ました。
閣下もそうなのですか?
人の野心や悪意、敵視、嫉妬というものは、そう簡単なものではないですよ」
「知っているさ。
何と言っても俺は宦官の孫、幼い時からそういう感情をぶつけられるのには慣れている」
妙に胸を張る曹操。
「だがな、俺の中にはこういう夢を見る曹操孟徳も居るのだ。
世を豊かにするだけでなく、楽しく生きよう、生きたいように生きよう。
美味い酒を飲み、詩を詠みながら、馬で駆け回る。
女を愛し、まだ見ぬ異国に思いを馳せ、天文を観察する。
どうだ、この曹操孟徳は随分な欲張りだろう」
「はあ……」
「その夢見がちな曹操孟徳と、世間が知る『乱世の奸雄』曹操とが共に思うのが、
『お前さえ居れば、劉備なんて恐れるに足らず』
なんだ。
物量で圧倒する方法でも、天下を共に豊かにするという道でも、結局戦う必要が無くなる。
どうだ!」
「どうだと言われてもですねえ……」
劉亮は久々に、思うがままの曹操をぶつけられて困っていた。
確かに曹操は詩人でもあるし、芸術や学問にも興味を持つ多彩な人間だ。
こういう浪漫追及者な部分があっておかしくない。
そして、もしかしたら曹操に全てを委ねた方が、この先の歴史改編がどうとか迷う事も無く、責任を全て押し付けた形で民を救えるかもしれない。
それを知って、劉備も「天下の為にもお前を貸した方が良い」なんて考えたのだろう。
だが…………。
(曹操の中にロマンチストが棲んでいるように、俺の心の片隅には邪悪な存在が棲んでいる。
そいつは偶に「三国志の動乱が見たい、赤壁や定軍山の戦い、果ては五丈原の戦いを間近で見たい」って言っているんだ)
劉亮の中の人は、葛藤を抱えている。
劉亮叔朗という人物は、この世界に生きて、民の為に働けという思いを持っているのに、
中の人の精神の片隅には
「転生したこの時代の民なんて、所詮は他人、関わりが無い存在、ゲームの中のキャラと一緒。
お前は所詮は無関係の未来人なんだ。
歴史マニアとして興味がある曹操・劉備・孫権の殺し合いを特等席で観られたらそれで良い。
歴史を変えたのは、その為に生き残りたかったからだろう。
それが終わったら、寧ろ『史実』そのままの方が良い。
その先を知っているのだから。
百万の兵が焼かれ、死してなお敵を走らすような策謀を見る為には、このまま人が死ぬ時代を続けさせた方が良いんだ」
そう囁くモノも棲んでいるのだ。
もう一つ。
これは未来人であり俯瞰した視点を持つ中の人の意思でもあり、劉亮という後漢時代に生きる人物の意思でもあるのだが
「劉備は本当にこれで良いのか?
これでは結局曹操が圧倒的有利な状況になり、劉備は屈服する事になる。
それでも天下の為だからって認めるのか?
劉備は、曹操が善政を敷きさえすれば諦めるような人なのか?」
という疑問も感じている。
これについては、曹操だけ見ても分からない。
劉亮は回答を保留し、一度劉備の元に戻ると曹操に告げた。
曹操は何かを理解したような表情で
「分かった。
認める。
どうせお前は帰って来る。
席を用意して待っているぞ」
と答えた。
劉亮は劉備と一度じっくり話し合う事にする。
おまけ:
劉備「なんか、叔朗に対して厳しくない?」
田豊「そのような事は有りません。
袁家の半分を取り込むような方です。
上手くやる才覚が有るでしょう。
妥当な評価です」
沮授「左様、左様。
左将軍と曹操が手切になった時は、またいつぞやのように烏桓や鮮卑を動かしてでも逃げ出すでしょう」
張郃「まあ、冀州を荒らすのは避けて欲しいですな。
だから、出来るだけ冀州からは離れて貰って……」
劉備「もしかして、あの件、君ら根に持ってる?」
田豊・沮授・張郃「別に〜」
大海嘯の件、味方からも恨まれていて当然ですな。




