冀州乗っ取り
劉備が袁尚の元に駆け付ける時に、渤海郡に隠居していた田豊が兵を集めて加わったという報が袁尚の元に届いた。
更に鉅鹿郡に引退していた沮授も手勢を率いて参入。
その他にも劉備に加勢する者が相次ぎ、鄴に到着した時には五万の兵力に膨れ上がっていた。
「参陣ご苦労様である。
淳于将軍、劉将軍には我が愚兄と組んだ曹操と戦って貰いたい」
袁尚は精一杯虚勢を張って、淳于瓊と劉備を出迎えた後に命令を出した。
「待たれよ。
確かに劉備殿は五万、我が軍は二万と数の上では劉備殿が勝るが、これまでの袁家への貢献から考えれば、儂が上将となるべきであろう。
戦う前に、まず序列をハッキリさせるべきだ」
淳于瓊がそう言うと、袁尚は頷き
「劉将軍、それで良いな!?」
と言ってのけた。
(この男、袁紹殿が優柔不断と言われた事を反面教師に、ただ果断であれば良いと勘違いしたな。
そう居丈高に言われて、人がすぐに納得すると思うのか?)
劉備は袁尚の人格を見定めながら、表では
「若殿の指示に従います」
と頭を下げていた。
袁尚の方も
(これまで動こうとしなかった田豊や沮授が劉備の下に着くとは、この男は用心せねばならん)
と劉備を警戒している。
それで劉備軍監視の為に送った目付が張郃なのだから、見る目が無いと言わざるを得ない。
張郃は既に、同じ旧韓馥家臣の縁で田豊、沮授と共謀しており、劉備に寝返っているも同然だったのだから。
劉備が曹操との戦いに出撃した後、劉亮軍五千が悠々と鄴に入城する。
漢人だけの部隊であり、車一杯に食糧や武器を持って来た為、皆は安心する。
「劉亮之禍」の張本人、その名だけで冀州の官民は緊張する。
だがどうやら戦闘部隊ではなく補給部隊、そこに獰猛で野蛮な異民族の兵は居ない。
人々は肩を撫で下ろした。
鄴に入った劉亮は、袁隗を訪ねる。
そこで彼は、今回の謀事を袁隗に伝えた。
「何だと!?
冀州を貰いたいだと!
この袁家の所領をか!」
流石の袁隗も気色ばむ。
袁一族の所領を奪うと宣言されて、そうならない方がおかしい。
だが劉亮は涼しい顔で続ける。
「袁譚殿も袁尚殿も、魏王の後継者としては相応しくないですな。
それで、袁煕殿はどうでしょう?
彼はこの二人よりマシではないでしょうか?」
「話を逸らすな!
如何に儂が貴殿から大恩を受けた身ではあっても、国を売る事は出来んのだ!」
袁隗は確かに劉亮を頼りにしていた。
しかしそれは、どこか劉亮を袁家の為に働く準家臣扱いでのものであった。
決して下剋上をしろなんて言ってはいない。
まして袁家の所領を奪うなんて、袁家を滅亡させに来たようにしか見えない。
だが下交渉だけなら得意な劉亮は冷静であった。
袁隗のような人には、最初から全部言った方が話が早い。
ちょっとずつ後出しで明かすやり方だと、聡いだけに途中で意図に気づいてしまい、以降はガンとして協力を拒む可能性が高い。
「だから聞いています。
このままでは冀州は曹操に奪われます。
その前に我々が貰うのですが、それは袁家を守る為。
袁譚、袁尚両人では家は滅びます。
袁煕殿は、この冀州を任せるに足る人物ですか?」
「分からん。
結局の所、貴殿たちは冀州を奪うのだろう?
ならば何故、顕奕(袁煕)の資質を問うのか?」
「冀州を手に入れる理由、それは我が青州・東徐州・幽州の一部と、袁家の所領を合わせた勢力にする為のものです。
強い者が統率者となる。
だから我々は亡き魏王を盟主とし、その指示に従いました。
既に今、その形になっていますな、袁が上、劉が下という形で。
しかし袁譚・袁尚殿は到底亡き魏王には及びません。
袁譚・袁尚殿では冀州一州すら危うくします。
では袁煕殿は?
せめて冀州を統べる力は有りますでしょうか?」
袁隗はしばらく考えた後で
「無い」
と回答。
「あれは強欲な顕思(袁譚)、未熟な顕甫(袁尚)と違い慎重だし、謙虚である。
本初が病に倒れた時も、顕奕は政争ではなく、真に心配していた。
見舞いに訪れた後、儂の元を訪ねて来て嘆いておった」
袁煕は父の見舞いの後で
「兄上と顕甫、その家臣どもが争っているのを見るに耐えません。
私が来れば、この争いに巻き込まれてしまいます。
申し訳無いですが、私は所領の薊に戻ろうと思います。
父上の事、大伯父上にはよろしくお頼み申します」
と泣いて頼んだという。
人間的には好人物と言えよう。
「だが……あれには従う家臣が居らん。
劉家の所領以外の幽州を統べておるから、能力は申し分無い。
しかし、袁家の全てを束ねるのは無理じゃ。
母の身分が低く、誰からも後継者と看做されていなかった。
じゃから、冀州を統べるのは無理じゃろうな」
それは劉亮も想定内の回答である。
だから劉亮は続けて
「もしも太傅殿の補佐が有れば如何ですか?」
と聞いた。
「儂の補佐だと?」
「左様。
『四世三公』の袁家は存続すべきです。
それを知る太傅殿が、袁煕殿を支えて冀州を統べて、袁煕殿を成長させるのです」
「…………」
袁隗は考え込む。
確かに袁譚と袁尚では袁家は滅亡する。
能力は二人ともそれなりに高いが、行動が危うい。
袁紹すら綱渡りの行動と見ていた袁隗には、袁譚や袁尚は亡国に向けて直滑降な選択をしかねない。
それだけは避けたい。
だが、他姓の劉備・劉亮は信用出来るのか?
口だけ良い事を言って、乗せられた結果、やっぱり国を失い袁家滅亡となれば袁隗は、騙され利用されただけの大馬鹿者として歴史に名を残すだろう。
劉備・劉亮は本気で袁家を残す気が有るのか?
劉亮は無理に結論を出さずとも良い、暫く我々のやり方を見ていて欲しいと告げて、袁隗の元を辞した。
見た上で気に入らないなら、袁譚か袁尚のどちらかに通報しても良い。
無論、それまでは他言無用ですぞ、と口止めはした上で。
劉亮は確かに袁家乗っ取りの汚れ仕事を頼まれた。
もうとんでもない悪名が着いているし、汚れ仕事、乗っ取り犯の悪名上等。
しかし、彼は暗殺や欲得ずくの寝返り工作を、ギリギリまでは使う気が無い。
元々が平和ボケの国の企業人の転生者。
割り切ってはいても、ギリギリまで血は見たくないのだ。
そして彼の得意技は、下交渉や水面下での交渉である。
袁隗に対しても、口だけでなく、彼が不利益な行動を取らないよう監視を付けてはいたが、彼を殺したいとは微塵も思っていなかった。
劉亮には冀州調略の宛てがある。
かねてより青州には、儒学を語りに多くの袁紹陣営の文人たちがやって来ていた。
劉備の「部下が言って来た事で、役に立ちそうな事なら丸飲み」政策の賜物で、青州は孔融以来の儒の国となっている。
劉備自身は学問としての儒学に全く興味が無かったが、劉亮は多少話が出来る。
彼はもう一つの儒の中心地・荊州の劉表とは文通友達である。
自分の儒学の見解は無いに等しいが、交遊関係を利用して彼等の知見を語る事は出来た。
人の褌で相撲を取る形だったが、彼は汚名払拭の為にも、以前と違って積極的に文人たちと交わるようにした。
劉亮の悪名は基本「風評」。
直接会えば何とか出来る。
それには、「この人はちゃんと儒学を知る者だ」と分からせねばならない。
頑張って清談をしている内に、文人たちは割と劉亮に心を開くようになる。
だから彼等の大半は、以前の「董卓に七度投獄された気骨の士」という方を信じ、「騎馬民族を引き入れて中原を滅茶苦茶にした悪逆非道の者」は、手違いから生じたという事にしてくれた。
冀州入りした劉亮は、かねて親交していた文人たちを通じて、袁煕待望論を密かに広めていく。
「袁譚・袁尚がこのまま内戦を続けるようなら、中立の袁煕が後を継ぐべきではないか」
といった感じで。
劉亮が水面下で工作をしている中、袁尚は袁譚を攻撃する。
ちょっと鄴城の中の人心に気を使っていたら、劉亮の工作を察知し得ただろう。
劉亮の前世で行った水面下での工作は、陰謀というよりもビジネスを上手く進める為の雰囲気作りであった為、バレても特に問題は無かった。
意見としては
「袁譚と袁尚には仲良くして欲しい、出来ないなら第三の候補を立てるけど、いいの?」
といったもので、不快ではあろうが不忠とは言い切れない。
それでも短気な袁譚や、強引な袁尚が怒って弾圧に出る可能性はある。
劉亮の中の人もそれは承知していて、もしそうなったなら
「クーデターを先に起こそう。
どうせ俺には実態とは違う悪名がついているんだし。
そして、幽州の田豫に連絡して、袁煕を無理矢理にでも連れて来て当主に立てよう」
と実力行使を視野に入れていた。
だが袁尚は、袁譚との対立にばかり目が行き、足元が見えていない。
だから袁譚討伐に行った瞬間に、曹操が留守の鄴を狙って動き出す事を想像しなかったのだ。
兄は自分が倒す、そうでなければ正統性を示せない。
袁尚を支持するのは幹部級が多く、それより下の者たちは袁譚を支持していた。
袁尚は生まれつき美貌の持ち主だった事もあり、母親の劉夫人の寵愛を受け、それで後継者に名乗り出たという負い目もある。
だからこそ武勇に人一倍拘ったし、兄を直接倒す事で幹部未満の者たちにも、自分の強さを見せたいという願望があった。
こうして袁尚が袁譚との戦いに出た隙を衝いた曹操だったが、冀州と兗州境を守る淳于瓊と劉備連合軍の前に苦戦を強いられる。
淳于瓊の下に沮授が、劉備の帷幕には田豊が入り、共同して持久戦を仕掛ける。
これまで劉備本隊を指揮していた張飛は、兵法に秀でていたから、確かに戦闘指揮能力は高かった。
しかし作戦という面では、各地の軍師たちに一歩も二歩も劣る。
相手に持久戦を取られると、攻めまくった結果、戦闘に勝ちつつも消耗し切って敗退する。
陽動作戦に対し、囮部隊を殲滅しながら、結局敵本隊に目的を果たさせてしまう。
だからより広い視点を持つ軍師が居て、その下で部隊を指揮する今回は、能力を遺憾なく発揮出来ていた。
淳于瓊軍の先鋒・顔良も、黄河の戦いで死に掛けた事もあり、今回は良く軍師の統制に従っている。
そして「史実」なら蜀を何度も苦しめた名将・張郃は、特に指示が無くても最適の行動を取ってくれる。
「こんな楽な戦はした事が無かった」
と悠々自適な劉備は、
「それでよく天下を狙おうとしなさったな!」
と田豊に説教されながら、蕩陰県から内黄県に掛けての戦線を維持し続ける。
時に小部隊が曹操に負ける事があるが、劉備の統率力はこれを全体の負けに波及させない。
曹操も
「いつもの劉備ではない。
随分と良い軍師を得たようだな」
と感嘆し、調べた結果それが田豊だと知ると
「それなら勝てなくて当然だ。
今回も兵を引こう。
袁家討伐の戦いは、この一戦が全てではない」
と言って、黎陽まで兵を引いてしまった。
これで困ったのは袁譚である。
袁尚の猛攻が続いている。
そこで袁譚は一気に并州まで逃げ、刺史の高幹と手を組んだ。
高幹は袁紹の甥にあたる。
高幹は馬騰・韓遂と手を組んで、数万の兵を集めて袁譚と合流した。
そして再度、曹操に対して袁尚攻撃を要請する。
袁譚・袁尚の内戦は、曹操・劉備・馬騰・韓遂と外部の勢力を巻き込んで拡大し続けている。
更に袁譚・高幹は南匈奴にも参戦を要求していた。
あの「大海嘯」の記憶も生々しいのに、である。
余りの愚策。
袁譚から人心が離れていく。
一方の袁尚も、戦継続の為に民への賦役を増している。
遊牧民に荒らされた事から立ち直って来たのに、再び冀州を疲弊させてしまう。
曹操の動員兵力が一万程度と、再建中の領土に対する負担が軽いものなのに、袁尚は五万程を動員しているし、袁譚軍も数万である為、冀州への負荷は大きかった。
この状況に、ついに袁家の第三勢力が立ち上がる。
「劉叔朗が言った通りだ。
顕思(袁譚)・顕甫(袁尚)に任せていたら、冀州どころか袁家が丸ごと吹っ飛ぶ。
我々は顕奕(袁煕)を立てよう!」
袁隗は同志を集めて、袁尚留守の鄴でクーデターを起こした。
「時が来ましたな」
それを知った田豊は、下準備が済んでいた渤海・鉅鹿・河間の三郡を直ちに呼応させる。
劉亮は幽州及び南匈奴に使者を派遣。
予め劉亮から今後の話を聞いていた南匈奴単于・呼廚泉は、高幹の元に派遣していた匈奴兵を戻した。
そして幽州薊城。
田豫と鮮于輔が礼を取りながら
「お迎えに上がりました、袁煕殿。
これからは貴方が袁家の当主です。
どうぞ、我等と共に冀州へお進みください」
と強引に決起をさせたのである。
「えーっと、一体どうなっているんだ?」
知らぬは袁煕ばかりであった。
おまけ:
この回で分かったと思いますが、袁煕もポンコツです。
史書を見るに、良い人だし、死に臨んでも潔いとか人間的にはアリなんですが。
袁尚べったり過ぎて振り回される、劉亮とも似た部分有ります。




