回想、官渡の戦いとは?
劉亮は前世の記憶を辿っている。
前世における「史実」で、袁紹を曹操が倒した官渡の戦い。
こちらの世界では「進撃の蛮族」が起きて有耶無耶で終わったが、「史実」の方ではどうだったろうか?
子供の頃に読んだ漫画では、バッサリと省略されていた。
青年になってから読んだ漫画では、火計までは良いが、その後の展開が意味不明だった。
では史料の方は?
烏巣の焼き討ちで食糧を失って終わりではない。
袁紹は烏巣が攻撃を受けていると聞くと、こちらは官渡本陣を落とすべく命令。
この時点では烏巣はまだ失われていない。
だから袁紹軍の将軍・張郃は曹操本陣攻撃よりも、烏巣救援を説いた。
しかし袁紹軍の軍師・郭図が官渡攻撃を主張した為、袁紹は中途半端にどちらも実行する。
烏巣には軽騎兵部隊を救援に送り、張郃と高覧には官渡攻撃をさせる。
しかし張郃と高覧は待ち構えていた曹洪に敗北し、すぐに曹操に降伏する。
烏巣救援軍も敗れ、烏巣を守っていた淳于瓊の部隊は全滅した。
これを受けた袁紹軍は撤退。
官渡の戦いの翌年には倉亭の戦いが勃発。
史料としての価値は無いが、それでも「三国志演義」では袁紹軍は三十万だったという。
どうも官渡敗戦後も十分な大軍を動員出来る力が残っており、あの敗戦は痛手であっても致命傷では無かったようだ。
倉亭での敗戦は、官渡以上の痛手であり、袁紹勢力圏の各地で反乱が勃発する。
二度目の大敗で、見限る者が現れた。
逆に言えば一度目、官渡での敗戦は見限られる程では無かったとも言えよう。
そして袁紹は、この反乱を全て鎮圧する。
曹操はこれに介入していない。
袁紹は建安七年(202年)に死亡する。
官渡の戦いの二年後、倉亭の戦いの翌年である。
その後、袁家では内紛が勃発し、曹操がこれに介入して、本拠地の鄴を落としたのが建安九年(204年)。
袁譚を殺したのが建安十年(205年)で、袁尚が討たれたのは建安十二年(207年)。
官渡の戦い後、七年も袁家は戦い続けたのだ。
しかも後半は袁譚と袁尚で内紛をしながら。
「官渡の戦いは、袁紹を食い止めたという意味があるだけで、実はしょっぱい戦いだったのではないだろうか?」
劉亮は今更ながらにそう考える。
彼がこちらの世界に転生した時、考えるのは「張純の乱の最中に戦死しない事」であって、生き残った後は劉備配下の一部下として平々凡々に、死なない程度に激動の時代を体験しようと思っていたに過ぎない。
自分が歴史のプレーヤーの一人になるとは、微塵も思っていなかった。
だから官渡の戦いとその結末は知っていたが、それを「自分たちは上手く巻き込まれない、一方で曹操に国を追われない」という事に利用していただけだ。
戦いの意義なんてものは、考える余裕も無かった。
官渡の戦いに相当する黄河戦役が起こる際、袁紹と曹操の他に、劉備が第三勢力としてそれなりの力を持って臨むなんて、彼の知る「史実」には無かった事だ。
だから許容量超過になった劉亮の中の人は、ただ目の前の事を処理するだけ。
それで色んな事に目を瞑って来た。
その結果が今の事態であり、本人は
「どうしてこうなった?」
と言っているが、事情を知る第三者視点の者なら
「あんたが余計な事しまくったからだ。
それも中途半端に。
自業自得だ」
と言いたくなるだろう。
さて、「史実」同様現在の袁紹・曹操関係は小康状態となっている。
劉亮は徐州の立て直しで忙しいものの、戦争期の激しい情勢変化に対応する事に比べれば、随分と考える時間も出来た。
だから改めて考えたが、「官渡の戦いは、兵糧を焼かれ、味方に裏切りが出た袁紹軍が撤退した」だけで、しょっぱい結末では無かっただろうか?
前世の記憶で有名な「赤壁の戦い」も似たようなものだ。
漫画や映画では劇的な結末となっているが、彼が前世で死ぬ前既に
「赤壁の戦いとは、明建国前に起こった鄱陽湖の戦いが、『三国志演義』に反映されてしまって劇的なものになった」
そのように解説されている。
史料では実際の戦いの描写が少なく、しかも『魏書』『呉書』で異なっていてよく分からない。
疫病が流行ったから曹操が撤退したとも、いや船酔いだとか、撤退に際して曹操軍が自ら船に火を放っただの、それは呉の黄蓋の火計の成果だのと、色々な説がある。
分かっているのは、曹操の江南侵攻が一旦止まった事と、この戦いは致命傷でも痛手でもなく、引き続き曹操は最強勢力で居続けた事である。
そう考えると、天下分け目の戦い、「官渡」と「赤壁」は似たようなものかもしれない。
火計で撤退したが、相変わらず「最強の兵力」を維持し続けているのだから。
一方で、袁紹軍内部の事情は「史実」もこちらの世界も似たようなものだ。
袁紹軍では、田豊がこの戦いに反対して投獄されている。
「史実」では出兵が遅きに失した事を詰って袁紹を怒らせる。
こちらの世界では、袁紹の作戦に悉くケチを付けて怒らせた結果だ。
ただ、怒らせる以前に袁紹軍内部では深刻な分裂があり、公孫瓚戦までは沮授が監軍だったのを、沮授・郭図・淳于瓊に権限を分散させたりした。
沮授と田豊は、旧韓馥家臣という部分で同じ立場、しかも共に曹操との即決には反対である。
同じく韓馥家臣だった張郃も、曹操との対決には反対していた。
こうして見ると、冀州を安泰にしてから曹操と戦えば良いとする前冀州牧の韓馥家臣と、天下をすぐにでも狙いたい袁家の家臣では、戦いに対する意識が違っていたのだろう。
そしてこの時は袁家の家臣たちが優越し、韓馥家臣だった者の意見は却下されたり、半分しか用いられなかったりする。
そして袁紹の家臣内でも対立が有ったり、讒言されたりしている。
こんな分裂寸前の家臣団を、袁紹はよく纏めていたなあ、劉亮は振り返ってそう評価した。
「史実」の方は置いて、こっちの世界のこれからをどうしようか。
袁紹と曹操は、倉亭の戦いをするだけの余裕が無い。
だから袁紹はまだ死なないかもしれない。
敗戦による心理的な負荷や、反乱鎮圧の疲労とかで寿命を縮める事は無いのだから。
だが、病死なら「史実」通りに死ぬだろう。
実は今も密かに癌とかが進行していて、その時になったら「苦悶の内に血を吐いて死去(『三国志』魏志『袁紹伝』)」も有り得る。
一体どうなるだろうか?
袁紹が生きている間は、家中の分裂は抑えられる。
家督争いも、本人が生きている時にやったら自滅ものだ。
だから今は、密かに多数派になろうと勧誘とかをしている。
死ねば、それが一気に表面化するだろう。
こっちの世界ならではの、袁紹軍の違いもまた存在する。
淳于瓊とその軍団が健在なのだ。
こっちの世界では、袁紹と淳于瓊は西園八校尉の同格同僚で、現在も同盟者のような位置づけだ。
そしてこっちの世界の淳于瓊は、顔良と戦死した文醜を配下とする独立戦闘集団の長である。
もしかしたら「史実」でもそうだったのかもしれない。
だが「史実」では顔良も文醜も失い、黄河渡河地点の維持で相当の兵力を失った為、侵攻部隊では無く、引き続き渡河地点の延津を守り、その流れで食糧倉庫・烏巣を守っていたのだ。
それが曹操の攻撃で壊滅、淳于瓊は鼻を削がれた無惨な首となって、袁紹軍に投げ込まれる最期を迎える。
それが、こっちの世界では起きていない。
淳于瓊は猛将の顔良を維持したまま、相変わらず袁紹の客将格で居座っている。
これが袁家の内紛においては、どう動くのだろう?
考えている内に眠ってしまったようだ。
この日は下邳城から関羽が来る。
沂水を境界とした東徐州の州牧はあくまでも関羽、劉亮は主君の弟といっても本当の担当は青州で、東徐州には補佐役として来ているに過ぎない。
関羽の性格からも、組織の運用面からも、諸事彼の承認を得てから進めないとならない。
関羽の下には麋竺、糜芳兄弟、陳珪、陳登、陳応父子が仕えている。
劉亮と陳羣は、関羽配下の徐州官僚団と話し合い、合意の上で物事を進めていた。
呼ばないと臍を曲げる癖に、呼ばれたら何もせずに酒を煽っている関羽。
この赤ら顔の男を見ながら、劉亮は
(この人も運命が微妙に変化している)
と思っていた。
彼は「史実」では下邳城の戦いで曹操に降伏、その後劉備が消息不明になった為、一時的に曹操に仕えたのだ。
そして官渡の戦いの前哨戦・白馬の戦いでは、張遼と共に顔良軍を撃破する。
「史実」ではなく「異説」の話だが、この時顔良は袁紹の元に逃げた劉備から
「もし赤ら顔で長い顎鬚の大男が居たら、それは我が義弟・関羽だから、俺が袁紹殿の下に居ると伝えて欲しい」
と頼まれていたという。
だから声を掛けたら、その瞬間に斬り殺されてしまった。
この仕打ちに、顔良の恨みが残ってしまい、顔良を祀った祠で三国劇を公演すると祟られるとか、関帝廟も顔良の出身地では祟りを怖れて建立されないとか言われてしまった。
現在、顔良は生きているし、一方で関羽の武名は少し足りないものになっている。
今回の関羽は、事務的な会合が終わると、ある要求をして来た。
関羽の元には、曹操の一族ながら反主流派となった夏侯氏が、既に関羽配下となっている夏侯博を頼ってやって来ているという。
曹操もこれを問題視し、
「後継者の絶えた家には、親戚から後継者を探し、田畑や牛を給付してやってくれ。
後継者がいる家は、廟を立てその先人を祭るように」
と布告を出し、故郷・礁の夏侯氏を慰撫している。
それでも一部の夏侯氏が劉備配下になったから、彼等に誇りある職務・官職を与えて欲しい、朝廷に取り計らうなり曹操に話をつけるなり、善処して欲しいとの事だった。
その件は承知し、陣営内での役目については劉備と相談して決めて貰う、これで関羽とのすり合わせは終わった。
そして青州・徐州を往復して両方の政務に携わる孫乾が、関羽の要求を伝えてから徐州にやって来る。
孫乾は劉備からの伝言を預かって来た。
その内容は
『念願の軍師が来るかもよ!
やったね、亮ちゃん!
まだ正式決定じゃないけど、期待して待ってて良いよ』
というものだった。
流石に誰なのか、実名は書いていない。
劉亮は自分の目が届かない所で、良くも悪くも何かを仕出かすのが劉備だと、改めて思い知らされた。
※:鄱陽湖の戦い
元末、明建国前に起こった朱元璋と陳友諒の戦い。
両人ともに紅巾の乱によって立った群雄で、元朝を打倒する陣営。
陳友諒は漢皇帝を名乗り、朱元璋は呉国公を名乗っていた。
もう一人、張士誠という群雄もいて、呉王を名乗っていた。
荊州の陳友諒は、蘇州の張士誠と共に南京の朱元璋を挟み撃ちにしようとする。
しかし張士誠が動かなかった為、陳友諒は単独で朱元璋を攻めた。
六十万の陳友諒軍は、大船を鎖で繋いで陣としていた。
それに対し二十万の朱元璋は小型船で、火砲重視。
戦いの三日目、東北の風が吹くと朱元璋は火船七艘を陳友諒に突っ込ませた。
密集した巨艦は、風に煽られて次々炎上し、陳友諒も戦死した。
軍師の劉基が、怖気づく味方を鼓舞して決戦に導いた事。
荊州から来た側が大軍で、大船を鎖で繋いでいた事。
風向きが変わった時に火計を行って、大戦果を挙げた事。
天下分け目の決戦であった事。
とても「赤壁の戦い」そっくりで、「三国志演義」の作者・羅貫中は第三勢力の張士誠に仕えていた為、この戦いを参考に「赤壁の戦い」を描写したのでは? と言われてます。




