幽州での無為なる日々
「玄徳はどうしてしまったのだ?」
そう劉亮に聞いて来たのは劉元起、劉備・劉亮兄弟の従叔父にあたる人物である。
一族の中では羽振りが良く、劉備を盧植の塾に通わせたのもこの人物であった。
劉備に期待しての事である。
かつて劉亮の中の人の記憶が出る前に、劉元起からは面と向かって
「玄徳は大器で、その底が見えない。
叔朗は遥かに劣るが、真面目で謙虚だから、兄を能く支えるが良い」
なんて言われた事があった。
そんな叔父からの期待を受けた劉備玄徳は……
洛陽から帰郷した後は、勉強なんかを馬鹿にしながら、遊び呆けていた。
不良少年たちと一緒に馬を走らせたり、何か怪しい物を持って来て市場で売りさばいたりしている。
大人たちからは不安な目で見られていた。
「都を見て、腑抜けてしまっただけだろ」
劉元起の息子の劉徳然が忌々しそうに話す。
彼の母は、劉元起が劉備に大金を支援している事に恨み事を言っていたが、劉徳然も同じ思いである。
劉徳然の場合、身近で劉備を見ているから、猶更そう思う。
秀才、この時代は後漢初代光武帝の本名・劉秀の字を憚って「茂才」と呼んでいたが、そんな学問が出来るタイプなら徳然も納得しただろう。
しかしこの従兄弟は見栄っ張りで遊び惚けているばかりだ。
大器とか言われているが、どうにも納得出来ない。
そして、幽州に居ても聞こえて来る都の腐敗。
そんな場所にのこのこ行って、毒気に当てられ、腑抜けになったとか笑えない話だ。
だが間近で洛陽の劉備を見て来た劉亮の感想は異なる。
今は大器とて何もする事がなく、かえって持て余しているのだと。
この兄の心から、気迫というか野心というかは消えていない。
劉備とは乱世にこそ生きられる人だと、劉亮の中の人の記憶は語る。
一方で平時であれば、幽州劉氏の一員であり、高名な儒学者・盧植の門下であった事から、推挙をされて祖父や父と同じ地方官吏への道を歩めただろう。
今はそのどちらでもない。
腐敗と汚職の政界。
そんな時代でも活躍する、前漢の功臣・陳平のような人物はいるが、劉備はそうではない。
曹操もまた、汚職の時代でもそこそこ、いやその状況を利用して生きていけるが、劉備は無理だ。
清廉潔白という訳ではないが、汚職政治家を殴りつけて遁走してしまいそうな危うさがある。
そんな男だから、今はこれで良い。
かえって劉備らしいと言えるかもしれない。
(俺も、推しの武将には甘いよなあ……)
推しのアイドルとか、推しのキャラと同じように歴史上の人物を扱っている劉亮の中の人だが、実際劉表に向かって気を放ちながら将来の共闘を約束した劉備の気宇を見たのだから、自分の推しはやはり凄いのだ、という気分になっていた。
話は劉元起と会話する数日前に遡る。
その日、劉備は市場にて大声を出しながら筵や草鞋を売っていた。
「一族の者が見たら、我等が家は卑しい真似をしていると誤解されますぞ」
劉亮は劉備の隣に座ると、小声で話しかける。
「誤解とかどうでも良い。
お前も特にそれを気には留めていないようだしな。
となると、母上から止めるよう言われて来たのか?」
劉亮は首を横に振る。
特に母からは何も言われていない。
最近はこうして市場に出たり、馬を駆ってどこかに消えてしまう兄と久々に話がしたかっただけだ。
劉備の商売は上手くもなく、下手でもなく、市が終わるまでにやっと全部売り切れる程度のものであった。
そして得た小銭で劉備は酒を買う。
「この筵、幾らであったか覚えているか?」
酒を飲みながら劉備が問う。
「五銖銭が五枚でしたな」
豪族の子だと、そんな安い物の価格等覚える気が無い! という者もいる。
劉亮は、というか中の人は注意深く見ていて覚えていたのだが、劉備はそれを賞賛するでもなく話題を次に進めた。
「では、その筵はいくらで作られたと思う?」
「無料……でしょうな」
「そうだ。
これは俺が農民の婆さんから貰って来たものだが、婆さんは税を払った後の麦藁で、小銭稼ぎの為に編んだだけで、要は余り物だ。
無料の物に銭五枚の価値がつく。
これはどういう事だと思う?」
「価値とは相互に納得して決まるもの。
とは言え、余りに安くし過ぎるのもいけません。
相場というものがありますね」
経済というものを、儒学社会では軽視しているのだが、劉亮の中の人はどっぷりと資本主義社会に浸って育った為、その辺は劉備よりもよく知っている。
「では、この筵が洛陽の宮城内では幾らで売られているか分かるか?」
「さて……自分は存じません。
洛陽に居た時に、そちらの方々とは話をしませんでしたので」
(不覚だった。
自分が知っている英雄だけでなく、宮中の有力者とも会っておくんだった。
まあ、会えたかどうかは分からんが)
この辺、歴史を知っている弊害であろう。
後世の有名人を見い出す事が出来るが、歴史に埋もれている現在の実力者を見落としてしまう。
劉備はそんな弟の後悔を気にせずに話を進めた。
「宮城では五千銭で売り買いされている。
涿郡涿県では五銭の物がな。
たかが麦藁を編んだ無料の物だぞ。
五千銭なんて、後宮の美女や商人からしたらはした金だ。
なにせ竹簡に墨を付けただけの書物に一億銭なんて価値が付いておるのだからな」
(それは付加価値ってもので、原価だけ見ていたら全ての物に価値は無くなる)
そう言いたい気分ではあったが、劉備が言いたいのはもっと別の事だろうから、言葉を飲んだ。
劉備は尋ねる。
「どうしてこんな違いになったと思う?」
「都には銭が溢れ、地方には銭が無いからでしょう」
「そうだな。
……つまらん、俺があちこち遊びまくっているように見せながら、足で集めた話をお前は頭で理解していたのかよ」
劉備は破落戸たちを組織して金持ちの用心棒の真似事をしたり、市場で筵売りをしてみたり、金を集めては仲間たちと宴会をしながら、国の実態を見ていたのだった。
地方では高額の税金により、稼いだ銭をごっそり持っていかれる。
残った銭は少ない。
貨幣が少なく物は多い、別に物余りでもないのにデフレと似た状態で、物価は低くなる。
高くしたって、銭が無いのだから誰も買わない。
否、買えない。
だから安く売るか、物々交換で等価交換する事になる。
一方の都では金余りが発生していた。
特に宮中ではそうだ。
そうなるとインフレが起こり、物は高額になる。
しかしバブル経済と似たもので、皆が大金を持っているから、高額である事を気にしない。
と、劉亮は前世の記憶からそう理解出来るのだが、劉備は色々体験して、その答えを導き出した。
(いや、でも大したものだ。
学問が嫌いだって言ってるのに、物事の根本を掴んでいる)
改めて劉備推しの気分を強める劉亮の中の人。
劉備は酒も入っているからか、久々に饒舌だった。
「洛陽に居ては何も見えない。
俺は涿県から洛陽に行き、洛陽を見て涿県に戻った。
だから分かった。
叔朗、お前もそうだろう?」
「ええ、まあ……」
「洛陽に巣食う宦官どももだが、太学でのたくる連中も、結局分かってはいない。
あの連中に世を正す事は出来ないだろう」
中々に凄い事を言う。
言っているのは、地方弱小豪族の倅に過ぎない。
だから
「かく言う俺も、まだ何も出来ない。
何が出来るのか、探している最中さ。
だけど、机上で理屈を捏ねて動かん連中より、実際に動く俺って、その分偉いと思わんか?
思うだろ、叔朗」
「まあ、そうですね……」
劉備の視点と現時点での無為の意味は把握出来た。
流石は後の英雄だけあり、ただ能天気に遊んでいたわけではない、それは想像出来た。
「劉表殿はどう思いました?」
劉亮が逆に尋ねると、劉備の回答は
「景升殿は自分で動いた。
友の為に命を懸けた。
侠を感じる。
だから、あの男は信じられる」
であった。
ここに劉備の他人への価値観が見られた。
口ばかりで動かない人を嫌い、行動の人を尊敬する。
こういう思いを、劉亮は実感と共に理解していた。
彼だって、前世では「動く人」の側であり、本社でデスクにふんぞり返りながら
「君、来月からどこどこ国に行ってね。
これ決まりだから。
辞令はその内出るよ」
とか言って来る上司には不満を持っていたのだから。
(だが、この知識人軽視というか軽蔑って、弱点なのではないか?)
劉亮の中の人は、一方でそうも思う。
この時代が、劉亮の中の人が生きた時代から遡ったものなのか、それとも一巡した世界で似て非なるものかは分からない。
彼の記憶の中に、若き日の劉備が洛陽に行った事など無かった。
だが、そこで失望した事と、今の劉備の言動は、知っている歴史とリンクする。
若き日の劉備の下には、知識人が長く居着かないのだ。
有名どころでは、後に曹操に仕える陳羣がいる。
徐州時代の劉備の下で別駕(副知事)を勤めたが、結局劉備からは離れた。
武将や近しい者たちは、苦しい放浪の生活でも付き従うのに、名士・知識人はさっさと離脱する。
生活の為とか、皇帝を擁する曹操に大義名分があるとか、色々理由はあるのだろう。
彼等には知識人、名門、同郷人のネットワークがあり、彼等を大事にする人物の情報が共有され、不遇な者は引き抜きをして自分の主君に仕えさせる。
「先ず隗より始めよ」とはよく言ったもので、程度が低い知識人でも大事にするという評判があれば、人が人を呼んで幕僚団は拡大していくのだ。
だが劉亮には、劉備がそういった人たちを好まない空気を出していた可能性に思い当たる。
(ここは俺がフォローしなければならない)
劉亮の中の人はそう思う。
転生当初劉亮の中の人は、歴史を変えるという事に抵抗を持っていた。
だが二つの思いから、今はある程度それを克服している。
一つは、今転生した世界が本当に自分の知る過去の歴史なのか疑問に思った事だ。
もし違う歴史ならば、自分が思うように行動したって良いだろう。
こちらの世界が一体何なのか、神ならぬ彼には俯瞰して判断する事は出来ない。
ならば、自分の持つ全力で生き抜かないと、明日はどうなるかも分からない。
もう一つの思い、それは至極シンプルなものだ。
「もう死にたくない」
彼は一度、自分の不注意から死を迎えた。
あの時の、自分が死んでいく怖さは鮮明に記憶に残っている。
あんな思いをするのは御免だ。
天寿は仕方ないにしても、可能な限り生きて生きて生き抜いてやる。
だからこそ彼もまた決意をしていた。
「多少歴史を変えてでも劉備に従い、劉備を補佐して、生き抜いてやろう。
なあに、自分一人が歴史に紛れ込んだところで、大枠は変わらないだろうし」
と。
おまけ:
前話に出て来た劉表さん(三十代無職)もそうですが、豪族の師弟が働いていないのに寛大な部分もあります。
朝廷の人材登用の郷挙里選で「孝廉」は、厳密には四十歳以上が対象だったので。
厳密さは失われて、袁紹とか曹操は二十歳頃に任官してますが、劉表みたいに名声を高める為に太学に居座ってる中年も居たわけです。
袁紹・袁術の先祖も、中年での初任官から、名臣と呼ばれるまでになってますし。
現代日本で例えるなら、政治家に立候補する時にあまり若過ぎると不安視される、だからいい歳になるまで待ち、その間に評論活動とかで「気鋭の経済評論家」とか「政府の闇を恐れない男」とか「腐敗追及の特攻隊長」みたいな二つ名を付けるようなものです。
そういうキャッチコピーを付けて流布するのは、現在ならマスコミですが、後漢の頃は人材鑑定人でして、曹操の「治世の能臣、乱世の奸雄」ってのも許劭という鑑定人が言ったものです。
他にも「臥龍」「鳳雛」というキャッチコピーの司馬徽とか。
こういう就活に便利なキャッチコピーを得る為、金さえあれば学生とか遊侠生活とかしてた訳です。
(劉家は劉備はOKで、劉亮は仕事しなければならない、長男以外の悲しいとこ)