黄河の戦い(延津の戦い)
袁紹と曹操の勢力圏は、大体黄河で区切られている。
黄河より北が袁紹、南が曹操となる。
だから袁紹は「河北の雄」なのだ。
黄河は大量の土砂を含む流れであり、下流部はそれが積もった川床が高い「天井川」である。
その為か、氾濫を起こして流路を変える事がある。
後漢時代の黄河は、曹操の勢力圏である兗州の、最北の郡である東郡を流れていた。
袁紹はまず、陳琳に曹操打倒の檄文を書かせる。
それから挙兵をした。
田豊は
「戦うなら速やかに行動すべし。
そもそも徐州の戦況を見てからではなく、侵攻初動で動員を開始すべきであった。
今から動員を掛けるとは遅過ぎる。
幸い、徐州が持ちこたえているから良いが、それでも曹操は主力を戻して防御を固めるだろう。
その上、わざわざ檄文を撒いて、敵に我が行動を知らしめる等、愚の骨頂」
と批判して袁紹の不興を買ってしまう。
まあ所謂「正論なんだが、今言って意味あるのか?」というものではある。
田豊は
「やるなら一撃で決着する形でやるべきだった。
そうすれば冀州の負担も小さく済んだ。
今から大戦を始めるとなれば、平定したばかりの北部諸州に多大な負担を掛ける。
まして檄文なんかを出せば、引くに引けなくなるではないか」
と、本来の主張である「北部諸州を固めて、戦わずに長期的な対応」からブレてはいない。
一方の曹操は
「この檄文を読むと、俺でさえ曹操って奴に対し怒り心頭に発する。
曹操って奴は本当に酷い奴だなぁ」
と妙な形で褒め讃えながら、徐州に居る主力を兗州に戻した。
徐州方面には曹仁を大将とした軍だけが残る。
危機を脱した劉備が徐州奪還の戦いを仕掛けてくるだろうから、これに対するのだ。
袁紹は、本拠地の鄴城から真っ直ぐ南下する。
それに先んじて、袁紹の客将である淳于瓊の兵団が戦場となる東郡を抑えようとした。
ここは曹操軍の于禁が守っていたが、数が足りない。
曹操は荀攸と楽進を派遣して、淳于瓊軍に当たった。
淳于瓊軍は総数五万程。
軍監として袁紹本軍からは郭図が一軍を率いて参戦している。
先鋒の顔良が白馬津から黄河を渡河し、東郡濮陽城を攻める。
ここは郡の治所であり、東郡太守の劉延が居た為である。
荀攸は自軍も黄河を渡河させ、黄河南岸の白馬津に居る顔良と、北岸に居る淳于瓊本隊を分断する事に成功する。
しかし、そこからが問題であった。
荀彧は顔良・文醜という二人の猛将について
「匹夫の勇のみ、一戦にして生け捕れます」
と評していたが、その匹夫の勇が生きる場面だって存在する。
孤立した事が分かり、遅ればせながら撤退を決めた顔良軍そのものは壊滅に成功したが、指揮官の顔良他数騎は脱出を果たしてしまった。
「史実」で活躍した関羽と張遼は、こちらの世界では徐州で戦闘中。
猛将というか、個人的に強力な武を持つ人物を倒す一撃が、現在の曹操軍には欠けている。
それでも緒戦における東郡奇襲作戦は失敗、袁紹軍は黄河南岸に橋頭堡を作れずに終わった。
ここで「津」について説明する。
津とは渡し場、港の事を指す。
黄河は大河の割に水量が少なく、冬季は凍結して騎馬で渡河する事も出来る。
だが季節によっては増水もするし、特定の場所では船でないと移動出来ない。
この東郡を通る黄河は、船でないと渡河出来ない為、渡し場が幾つか存在していた。
淳于瓊軍は最短コースの白馬津を渡ったが、荀攸はそれより上流にある延津から北に行って、淳于瓊軍の背後を衝くような動きを見せたのである。
どうにか白馬津を使って北岸に戻った顔良を保護した淳于瓊は、今度は北岸で孤立する荀攸を討とうとする。
荀攸は東郡の救出に成功した事を知ると、さっさと他の渡し場を使って南岸に撤退していった。
東郡を領有している曹操軍には地の利があり、渡し場も全て把握していた。
その渡し場を使って、神出鬼没に袁紹軍の背後を衝けるだろう。
逆に袁紹軍は、黄河を渡らないと曹操の領土に侵攻出来ない。
この一帯の渡し場を全て抑えて、南岸に橋頭堡を確保しながら袁紹本隊を待ちたい。
よって、ここ暫くの戦いは黄河の渡し場を奪い合うものとなるであろう。
黄河の渡し場を巡る戦いが始まる前に、劉備は徐州琅邪国奪還に打って出た。
曹操の主力軍が居ないのだから、怖い者は無い。
それは琅邪国では当てはまった。
曹操は琅邪国は諦めて、留守部隊すら残さずに全軍を撤退させていたのだから、劉備は無抵抗で奪還に成功する。
次の東海郡で劉備は、曹操が残した部隊と戦って苦戦を強いられた。
この東海郡には徐州州庁を置く郯城が在る。
濮陽城で袁紹軍の攻撃に耐えた劉延といい、この郯城といい、曹操は要所はきっちり守っていた。
ここの守将・朱霊は、袁術討伐では劉備と肩を並べていた人物である。
その後、徐州を劉備に任せて帰還した結果、劉備の離反を許してしまった為、汚名返上とばかりに徐州の主要城である郯城に残って劉備を迎え撃つ。
同じく、かつて袁術討伐で劉備と共に行動した路招も、劉備を野放しにした事に責任を感じ、同じく重要拠点である彭城を守っている。
劉備は攻城戦は得意でない、というか経験が少ない為、郯城を攻略出来ないでいる。
『増援部隊を送って欲しい』
青州の劉亮に劉備から書状が届く。
「兵を送っても、今のままでは無駄死にさせるだけで意味が無い」
そう思いつつも、劉亮と陳羣はある書状を見ながら悪い笑顔になっていた。
袁紹から
『曹操討伐に協力せよ。
青州の精兵を率いて参陣されたし』
という要請が来ていた為、そちらには行きたくないと思っていた所だった。
『曹操軍を徐州に引き付ける事も重要。
徐州の劉軍が敗れた場合、曹軍は全軍黄河に向かうでしょう。
自分たちは徐州を奪還の戦いを継続、別働隊として曹軍を拘束するつもりです』
この返答に文句は言えないだろう。
袁紹軍が動いたのは、曹操が中々徐州から足抜け出来なかったからである。
自分の初動の悪さから曹操が戻って態勢を立て直したから、青州の劉亮にも出兵を要請して来た訳である。
だから「曹操軍を徐州に引き付けておく事は有効な作戦」という事は、向こうの軍師連中も納得出来るだろう。
むしろ第二戦線を放棄して黄河戦線に戦力を集中させれば、曹操軍だって兵力を集中させるだけである。
「で、兄者の事をどうしようか……」
袁紹はどうにか出来るが、劉備が一筋縄ではいかない。
「そうですなあ。
兵力さえ出せばどうにかなるってものじゃないですしねえ」
本気で籠城に入られたら、当時の技術では中々攻略出来ない。
城内に内応者が居るとか、兵力が極端に少なくて防衛に穴が開いているとか、食糧が尽きるとかでないと成功しない。
易京の戦いで、公孫瓚は袁紹軍の攻城兵器の前に辟易していたが、それでも攻略は地下坑道によるものであった。
そういった兵器も工兵も居ない今のままでは、城壁に向かって何個も生卵をぶつけて破壊しようとするような、無駄な攻撃を繰り返すだろう。
「この際、郯城と彭城は無視して、他の地の奪還を勧めましょう」
陳羣の言う事は、分かってはいる。
分かってはいるのだが、劉備が
「そこに俺を待ってる人が居るでしょ!
だから解放してあげないと!」
と言って聞かないのだ。
「後回しにして、必ず解放すれば良い、そうお伝え下さい」
「……陳羣殿、もしかして私に説得にいけ、と?」
「弟の州牧殿以外の言う事は聞かないでしょ」
陳羣は徐州時代に、何度か劉備に進言していたが、身内で固まる気質のせいで受け入れられなかった苦い思い出がある。
劉亮が高く評価し、徐州から青州に招いてくれなかったら、もしかしたら劉備の事は見限っていたかもしれない。
「まあ、私の言う事も聞くとは限らないが、自分しか居ないよなあ、確かに……」
「留守はまた私が預かります」
「有難い」
「それと、もう一つ献策があります」
「伺います」
「我々は徐州を担当しますが、やはりそれだけでは今後の袁家との付き合い上、何かとしこりを残すでしょう。
そこで、北の方々にも動いて貰いましょう」
「北……幽州のうちの一族ですか!」
「それもありますし、長城の外からの援軍を」
「それは既に袁紹軍がやっていますよね。
彼等は袁王と言って袁紹殿に懐いていますし、結構な兵力が動いています」
「もう一勢力欲しいですね」
「北に居る勢力は……公孫度と高句麗ですか」
「公孫度は動かないでしょう。
動かない事が生き残る道だと思っていますから。
高句麗は、大軍を貸せと言わなければ交渉の余地ありです」
「大軍でなくて良いのですか?」
「構いません。
元々数の上では袁紹殿の方が多いのです。
必要なのは、劉家と高句麗が兵を出したという事実のみ。
兵が少なくても、筋を通したとなれば袁紹殿は満足するでしょう」
「しかし、高句麗とは今まで一度も交渉をした事は有りません。
素直に応じるでしょうか?」
「それは州牧殿の得意な事でしょう?」
「私がですか?
いや、確かに下交渉とか得意ですし、烏桓や鮮卑の方々と仲良くさせて貰ってますよ。
ですが、今から徐州に行って、それが終わったら遼東から高句麗の地まで行くんですか?」
「他に人が居ませんよ。
それだけではなく、州牧殿は下邳城への救援くらいしか動いてないように見えます。
後方支援は大事な事ですが、前線で戦っている人にはそう見えないかもしれません。
私は州牧殿が戦働きなさるのは反対ですが、閣下は戦も出来る御方、それが州庁でのうのうとしているように見えては、御味方が不満を持ちましょう。
だから、閣下が忙しく動き回っていた方が、袁紹軍も徐州の皆さんも納得するでしょう。
援軍集めているとか、味方を増やそうとしていれば、皆様納得してくれます。
危険な目に遭うのでなければ、閣下が色々と多忙な方が青州には得なのです」
「……言ってくれますね……。
では、私が長期留守の間、本当に頼みますよ」
「はい、慣れっこですから」
劉亮は前世において、正論を言われてぐうの音も出ず、仕事をさせられた事を思い出す。
優秀な部下というのは、上手く上司をこき使うものである。
こき使われる側であった劉亮の中の人は、それもあって
(自分は出来ない人間なんだよなあ)
と自己評価を低くしている部分があった。
ともあれ、相変わらずふんぞり返って仕事をするのが苦手な州牧は、南へ北へと動き回る事になった。
その頃、黄河の戦線では淳于瓊の兵団が、東郡の渡河地点を全て抑えて南岸に橋頭堡を作る事に成功する。
しかし荀攸が指揮する曹操軍は、最も西に位置する延津の渡しに対して執拗な攻撃を仕掛けていた。
そして、攻めあぐねて撤退すると見せかけた囮に、淳于瓊軍の将・文醜が引っ掛かる。
輜重部隊に攻めかかった文醜軍は、略奪に入って混乱してしまい、その機会を狙った曹操軍の攻撃に遭って大敗する。
顔良の個人的な武勇で脱出を許した失敗を、荀攸は二度も繰り返さない。
文醜は混戦の中で、名も知れない兵士たちによって殺された。
かくして黄河の戦い序盤戦は、橋頭堡を築かれた時点では曹操軍の負け、兵力及び文醜という将を喪失してこれ以上の行動は不可能という点では袁紹軍の負けという、双方痛み分けとなって膠着した。
余談:
中国の南北朝時代後期、北朝が分裂し、黄河を国境とした北斉と北周が誕生。
遊牧民の大半を得た北斉が強かった為、北周は冬場に凍結した黄河を渡って来られないよう、氷を砕いて防衛していた。
しかし次第に形成逆転(というか北斉が自滅)。
北斉が黄河の氷を割って、北周からの侵攻を防ぐようになったという。
……この北斉・北周・南朝の三国志モドキの時代、いいネタが有れば書きたい時代です。
(蘭陵王は既に使われているし、「関羽の再来」こと蕭摩訶は田中芳樹先生が書いたしなぁ)




