劉亮と劉表
劉表、字を景升と言い兗州山陽郡の人だ。
荊州の主として有名だが、荊州に地盤なんか無かった。
前漢の景帝の四男・劉余の子孫であり、後漢の初代皇帝・光武帝からはかなり遠い宗族である。
劉亮の中の人の記憶では、複数の顔を持っている。
「三国志演義」の劉表は、曹操に負けた劉備を匿い、信用し続ける優しい人物であった。
一方正史「三国志」を書いた陳寿の評では
「威容は堂々としていて名は世に知れ渡っている。
しかし外面は寛大に見えるが、内面は猜疑心が強く、謀を好みながら決断力に欠ける」
というもの。
両方に共通している事は、政治能力は高く、名声もあって人士が集まって来る、しかし後継者選びで優柔不断さを発揮した事だ。
これらは後世に生きた者の記録を、更に千八百年くらい後の一般人が読んだものであり、実際の人物はどうなのだろうか?
劉亮は曹操に「生の皇帝を見てみろ」と言われて以来、人物観察に注意するようになっている。
張倹という人物が宦官に恨まれ犯罪者となっていたのだが、劉表はこの人の逃亡を手伝って、自身も逃亡せねばならない状況に陥っている。
官勤めの盧植が、正式な捕縛命令が出る前に劉表に事を知らせ、幽州に帰る劉備たち「劉氏の群れ」の中に潜り込ませて洛陽を脱出させた。
劉表は次の関に着く前に劉備一行から離れ、行方を晦ますという。
この一点を見ると、劉表は義侠心があり、我が身の危険を顧みない人物にも見える。
一方で張倹は名士であり、彼を匿う、彼の逃亡を手助けする事は反宦官派の誉れと思われていた為、だから手助けしたという穿った見方も可能だ。
名声を大事にしている以上、助けた挙句宦官から恨まれるというのは、劉表の名声を更に高める事になるのだ。
さて、実際の劉表とはどのような人物なのか?
劉亮は教えを乞うという形で、劉表の事をじっと観察しようと思った。
「有り難いお話でした。
浅学な田舎者の私には、為になる事ばかりでした」
劉亮は、まずは儒学の講義について礼を述べる。
礼法に則ったものでもあるし、お世辞でもあるが、半分本当でもあった。
洛陽に行く前も、行った後も高名な儒学者でもある盧植から学んではいたが、何せ多忙な上に弟子も多い盧植の事、突っ込んだ議論はしている時間が無い。
それに対し、太学で学び名声がある人物が、逃亡中で手持ち無沙汰なのだから、じっくりと得意げに色々と教えてくれる。
興味深かったのは、後漢時代の儒学の分野「訓詁学」についての話であった。
訓詁学は、平たく言えば日本の国語の授業における古文・漢文の勉強である。
その字句をしっかり読み解き、意味を理解する。
その概念は知っていた劉亮の中の人だが、そうする意味についての説明は目から鱗であった。
「昨今、古書に独自の解釈を付けて流布し、原典がどこまでか分からないものもある。
また独自の解釈をする事で、己に都合の良いようにする者もある。
君は王莽を知っているな」
「はい」
王莽、それは前漢を滅ぼして「新」という王朝を建てるも失敗し、次の後漢時代では「希代の悪人」「簒奪者」とされた男だ。
知らないなんて言ったら口も利いて貰えないだろう。
だから、知っているかという質問ではなく、単なる確認作業である。
「王莽が漢を乗っ取った時、儒学者に己の都合が良いような解釈をさせた。
二度とそのような事があってはならない。
儒学とは普遍の真理を説いたもので、恣意的な解釈は、決してしてはならない。
それが古書を正しく学ぶ理由なのだ」
(なるほど。
そう言えば曹操が後に行う「孫子」の研究も、基本は書き加えられた贋物の条文を削除し、改変された部分を復元する事で、原典の「孫子十三篇」に戻す事だった。
その上で自分なりの注釈を付けた「魏武注孫子」と、抜粋して分かりやすくした初級用テキスト「兵書節要」を作っている。
文書改竄や勝手な追加は、この時期は日常茶飯事だったからこそ、原典をしっかり読むという流れになったのか。
あと、王莽を防ぐ目的というのはしっくり来る。
なにせ、第二の王莽を出さない為、気骨の士を育てるのが太学の目的の一つなのだから、そこで学んだ劉表はしっかり理解しているんだ)
興味深い話ではあったが、劉亮の目的はそこではない。
もっとこの劉表という人物の真の姿を見たい。
今までの話は、太学で学んだ俊英であれば誰でも教えてくれるだろう。
そうではなく、劉表その人はどのように考えているのか。
どうにか上手く、それを聞き出すとしよう。
「それで劉表先生は、この後は如何いたしますか?」
劉表はこの質問に警戒の色を浮かべる。
逃亡者は身内に売られる危険性を常に持ってしまう。
予定等明かしたら、それを通報されるのかもしれない。
劉亮はその顔色を読んで、言い換える。
「この先すぐの事ではありません。
いずれ先生のような優れた方が、隠棲をして良しとは思いません、復帰なされましょう。
その時、無力ながらも我々で協力出来る事など有りましょうか?
末端ながら、我々とて劉氏なのですから」
劉表は少し考え込む。
分かれた後の行き先とかを聞いた訳ではないから、自分を売る気は無さそうだ。
何となく自分を買ってくれていそうな、この少年は害は無いだろう。
だが、子供相手にどこまで語って良いものか。
そう考えた後に
「まあそれは、朝廷が私を必要としてから考えよう。
朝廷が必要とされないなら、その時はその時であろう」
と無難な回答をする。
「そうですね。
天子様ならいつか分かってくれますよ」
何気なく返した言葉に、劉表は皮肉っぽい反応を見せた。
「天子様、ねえ……」
劉亮の中の人のセンサーが反応した。
「天子様が、何か?」
「いや、何でもない」
「先生は天子様に拝謁された事は御座いますか?」
「一度だけある。
私も宗室に連なる者であるし、太学で学びそれなりに名が知れたゆえ、宮中に挨拶をしに行った。
その時だけで、普段陛下は後宮におわして、会う事は中々に無い」
「天子様はどのようなお方でした?」
ここで劉亮は、某「体は子供、頭脳は大人」なアニメの名探偵の手法を取る。
目をキラキラさせて、皇帝になんか会った事がない田舎の子供丸出しにしたのだ。
……中の人のオッサンは、ちょっと恥ずかしい思いをしているが。
そんな子供に気を遣ってか、劉表は言葉を選びながら
「この漢土の社稷をお守りする陛下は、素晴らしいお方じゃ。
それに陛下は、清流派の名士・陳蕃様が擁立された方。
名君であらせられる。
今は君側の奸に騙されているだけで、いずれ正道に立ち返られよう。
君が言うように、私の罪も許され、復帰する日はいずれ来よう」
やはり、いくつか引っ掛かった。
陳蕃という人物、更には外戚の竇武らもなのだが、それらによって擁立された皇帝。
万人が納得する帝位継承ではないのだろう。
清流派の人士にしたら「自分たちが擁立したのに、なんで濁流(宦官)に寄っているのか!」という不満があるのかもしれない。
劉亮の中の人は思う、崩御した皇帝に子が無く、外の宗室から次期皇帝を選ぶ場合、なるべく傀儡にしやすい者を選ぶのが擁立者の常だ。
劉表は「陳蕃」のみの名を出し、外戚の竇武の名は出さなかった。
竇武からしたら、扱いやすい当時十二歳の貧乏劉氏で良かったのだ。
そんなのを「名君」「正道に戻る」なんて言っている。
その言葉は、真意を隠す裏返しの言葉なのかもしれない。
同じ劉氏だからこそ、あんなのに皇帝の資格は無いとか思っているのではないか?
それは穿ち過ぎた考えかもしれない。
そして、劉表も一回しか会った事はなく、それも遠くから拝謁したのみ。
会話等はしていない。
劉表もまだ、そんな地位には登っていない。
つまり、劉表もまた霊帝の実際の姿を知らず、行動によって判断しているのだろう。
(この人は弁舌爽やかだし、言葉もしっかり選んでいる。
儒学の枠を決して取り払わない。
だけど、何となく皇帝劉宏という個人は嫌っているように、思えるのだが果たして……?)
まあ、これ以上突っ込んで聞くのはやめた。
彼は十五歳の田舎の劉氏の少年に過ぎない。
名の知れた劉表に対し、ズケズケ行き過ぎると不快に思われるだけだ。
前世、営業をしていた時に
「あまり相手のパーソナルな部分に入り過ぎるな」
とも言われていた。
話を変えて、また学問的な話をするとしよう。
劉表も皇帝の件では慎重に言葉を選びながら話していたが、古典の話や清流派の人士についての評では、実に気持ち良く言葉を吐き出す。
「劉叔朗殿。
君はまだ若年だが、よく出来た子だ。
このような場で、斯様に楽しい話が出来るとは思わなんだ。
洛陽では近年、恨みつらみを肴に酒を飲んでばかりだったからなあ」
劉表は劉亮を褒める。
その後にボソリと
「私は単に嘆き悲しみ、何もせずに終わる気は無い。
そんな人生の為に、学問を修めて来たのではない」
と呟いた。
「劉叔朗殿。
いつかその時は君の力を借りるかもしれない。
それまで学を修め、徳を積み、野に在ってもひとかどの人物となられよ。
いずれ名が聞こえて来るのを楽しみにしている」
こうして劉表「先生」との会話は終わった。
翌日、劉表は彼の従者と共に別行動を取る。
この時、昨日は会話に入って来なかった劉備が、劉表に対して言葉を発した。
「此度は師・盧植に頼まれ、劉表先生をお守り出来て嬉しく思いました。
私はいまだ布衣の未熟者です。
長じて天下の役に立つ者になった後、改めてお会いしたいと思います。
その時、お役に立てたら良いと思います。
子供の戯言ですが、お心の内に留め置かれたら幸いです」
劉表は驚いた表情になる。
単なる派手な衣装の用心棒、分を弁えているから不快ではなかったが、それでも学問について語り合う相手ではないと看做していた劉備がこのような事を言った。
単なる田舎者でも、武にしか興味が無いような人物でもない。
劉表は
「貴殿たちには世話になった。
劉玄徳殿、劉叔朗殿、お二人とも流石は盧植殿の弟子だ。
貴殿たちのこれからの成長が楽しみである。
また会いたいゆえ、お互い壮健でいようぞ!」
と言って別れて行った。
劉亮は劉備に尋ねる。
「兄上はいずれ天下に名を売るつもりがお有りなのですか?」
劉備はフンと笑い
「無ければ洛陽くんだりまで行かんよ。
だが、まだ俺の出番は無い。
それだけだ」
と答えた。
(流石は俺の推しの劉備玄徳、洛陽の体たらくに腑抜けたかと思ったけど、まだ心は生きている!)
そう嬉しく思う劉亮の後ろで、劉展が
「俺は?
俺の事は?
劉徳公の事は期待してないって言うのか?」
と喚いているけど、無視する事にしよう、
おまけ:
自分的解釈での劉表は、幕末の松平春嶽。
同じ徳川・松平の一族でありながら、将軍徳川家定の事を馬鹿にしまくっていた。
将軍という地位には敬意を持つ一方、家定個人には全く敬意を持たない。
そして明治維新の頃はさっと切り替える。
なんか清流派劉氏は、劉宏個人は全く敬っていない、むしろ軽蔑してるように思えるんですよね。
同じ劉氏だけに、余計に元々の地方貧乏皇族劉宏なんか尊敬しないような。
その辺、他姓の方が事情が分からない分、劉宏と皇帝は不可分になっているかな、と。