青州の内政
青州牧・劉亮には、故郷・涿郡と青州を接続する「渤海回廊」もしくは「渤海航路と渤海艦隊」の構築以外にもすべき事がまだまだあった。
青州は黄巾の乱終結後から、張純の乱や青州黄巾党の蜂起等で荒れ果てていたのを、劉備以降立て直しを続けていて、今もその途上なのである。
劉亮が取り組んでいるのは、ローカル貨幣を使った領民の経済立て直し、青州の産業の立て直し、東萊郡の少数民族の慰撫、交易や北方民族との関係強化、袁紹との様々な交渉、そして兵の強化。
青州の産業振興だが、ここに在った春秋戦国時代の斉国の首都・臨淄の再開発によって成されている。
臨淄は青州の州都であり、劉備も孔融も劉亮もここの庁舎に入っている。
臨淄は土壌が痩せていて農耕に適さないことから、製鉄、銅の精錬、陶器製造、織物産業が発展した。
しかし秦の始皇帝による天下統一、項羽と劉邦との戦争、呉楚七国の乱、黄巾の乱といった戦乱で昔の繁栄はすっかり失われていた。
経済こそ強国の条件だと、アメリカとの戦争で思い知った日本人の転生者である劉亮は、こうした産業を保護して出資すらしている。
続いて少数民族の慰撫だが、これも産業育成と結びついていた。
劉亮の前世は、世界各地に飛ばされっぱなしの日本人商社マンであった。
だから漢人の持つ華夷思想とは無縁であったのだが、東萊郡の諸族は信用しない。
ここには萊族を最多とし、東夷と纏められている諸民族が居住している。
なお、山東の諸民族の一つ・嵎夷を日本人の祖だと言う者もいるそうだ。
彼等は漢の領域内に住んでいる為、長城の外で自由に生活している北方民族とは違った形で差別されている。
表向きは同じ漢に住む民扱いだが、
「不気味な物(一部の海産物や獣)を喰う」
「迷信のような祭祀を行う」
「罪人でもないのに刺青をする」
等と折りに触れ文化を軽蔑し、これだから夷人は……といった態度をされる。
差別される側はこういうのに敏感だ。
東夷たちは漢人と隣人付き合いはしても、信を置く事はしなかった。
だが、劉亮の前世・金刀卯二郎はこういう人たちと上手く取引をする為、下準備をする仕事を何十年と続けて来た男である。
何度も自ら足を運び、話を聞いて利害調整を図り、徐々に信用され始めている。
人間、他人の悪意には敏感に気づくものだ。
劉亮の前世の世界基準では、日本人とは差別意識が無いに等しかった。
差別意識が無い訳ではない。
だが「唯一神の教えを知らないから家畜にされて当然」とか「原住民なんて動物と同じだからスポーツハンティングしても構わない」とか「有色人種の都市だし、新型爆弾の実験台にしてやろう」といった、残酷さを伴う差別意識までは無い。
まして金刀卯二郎という男は、発展途上国で現地人と付き合うのが仕事であった。
文化について珍しいとか面白いとは思っても、「遅れた奴らだ」とか「野蛮だ」とは思わない。
大体、彼は前世において自分を殺した相手すら憎んではいない。
二度と死なない、そう決心しているが、基本的にそれは自分の用心に過ぎない。
なお、劉亮の中の人とて聖人ではないので、自分をないがしろにしたり、ハラスメントを続ける相手は決して許さないのだが。
それでも、こういうお人好しさが伝わったようで、変わり者の州牧とはそれなりの付き合いをするようになる。
莱族は山東半島だけでなく、遼東半島や台湾にも広がっている。
故に劉亮は、彼等は航海技術を持っているものと見て、海運を任せたいと考えていた。
青州で作った物を北方に売る。
陸路は他人の領土を通過する為、そこを通らない海路での輸送を模索していたのだ。
劉亮は彼等を使うのではなく、協力を依頼して共に栄える事を理想としていた。
こうして北方の市場に運んだ商品で、烏桓や鮮卑、匈奴、最近では公孫度経由で高句麗とも交易を行う。
商取引に不慣れな北方民族が、漢人の商人に騙されて損をし、それに気づいて暴れる事もある。
上手くそれを宥めて、非が有る方を罰し、決してお互いが損にならないよう気を遣っているから、劉虞亡き今は劉亮が最も北方民族からの信頼を受けていた。
領土が分断され、幽州の所領は海に面していない為、何だかんだで袁紹との関係は欠かせない。
また冀州北部・幽州涿郡との州境にある易京に、今も籠って抵抗を続けている公孫瓚との戦いは、劉展が参陣している事もあって共同で進めている。
最近は立場もあって直接出張っては来ない袁紹だが、相変わらず信頼はしているようで、野心的な彼の家臣たちも劉亮には礼を以て接してくれる。
こうして青州領民、東萊の少数民族、北方民族、袁紹陣営から信頼されてはいる劉亮だが、この乱世で物を言うのは軍事力である事も知っていた。
如何に栄えてもその富を狙って、例えば呂布や袁術といった者たちが侵略して来て台無しにされるかもしれない。
領内の少数民族も北方民族も、袁紹すら青州が弱かったらナメて来るだろう。
だから安心して発展する為には、兵の強化が必要である。
このように一連の政治は、全て連携している。
兵を強くするにも資金が必要だし、経済を強化するには領内が安全である必要があり、兵の強さが求められる。
劉亮は青州牧であるから、全部を一人でする必要は無い。
担当毎に部下を使えば良い。
そうしないと仕事が回らない。
実際、清廉な上にきっちり仕事が出来る陳矯と戴乾が加わる前は、不正とは切っても切り離さない通貨政策に掛かりっきりになって、他の仕事が進捗しなかったのだし。
だから陳羣と相談して部下に仕事を振っているのだが、幹部役人は兎も角、中級以下の官吏は
「士大夫ともあろう者が、金銭の管理なら兎も角、商人の真似事等したくはない!」
「東夷や北狄どもに媚びるようなやり方は好かん」
「こんなに銭に拘るのでは、宦官たち濁流派と同じではないのか?」
と、度々徒党を組んで文句を言いに来ていた。
士大夫たるもの、酒を飲みながら愚痴愚痴言い合って発散とかしない。
洛陽の太学よろしく、大挙して直接苦情を言うものだ。
ガチガチの儒学の徒からしたら、産業育成の為の融資とか、その為の原資稼ぎの交易とか、本来は朝廷だけに許される通貨発行とか、そういうのは「卑しい」事なのである。
こういうストライキを匂わせながら文句を言って来る官吏を、説得したり宥めたりするのも劉亮の仕事である。
何度言っても、根底では納得出来ないのか、それとも抗議が趣味なのか、繰り返しやって来る。
それでも納得いかないと、辞表を叩きつけて辞める者もいる。
その分の補充もしなければならない。
(劉備が散々、口舌の徒と言って太学にたむろってた者を嫌っているが、納得出来る。
それが行き過ぎて、実行力重視で学者肌の知識人まで嫌っているのは行き過ぎだが。
名士を嫌っている感じもあるし、陳羣が居てくれるのは有り難い事なんだよなあ)
劉亮は陳羣には本当に感謝している。
幹部役人は、豫州の名士・陳羣の推挙によって賄えているのだから。
陳羣も儒学の徒、名士ではあるのだが、実力も無い癖に、いや実力が無いからこそ原理主義者となるこういった手合いには辟易していた。
人脈が少ない幽州劉氏では、県レベルなら兎も角、州を賄う人数の官吏を用意出来ない。
だから前州牧の孔融が残した人材を使っていたのだが、この連中が思考ガチガチ過ぎて大変なのだ。
なにせ孔融は、孔子直系の子孫であり、儒学の徒の憧れであった。
孔融の青州統治は
「政務は形式的で現実味に欠けるところがあり、法網を上手く張り巡らしたが実行力に欠けた」
という後年の評なのだが、当時の儒者からしたら「立派な政治」なのだ。
上級人材は劉備・劉亮・陳羣が集めた者たちだが、役所の大半を占める下級官吏の登用までは手が回っていない。
それでも役人になるのは憧れのようで、今は中央で役人をしている孔融や、大儒学者の鄭玄に頼み込んで推挙されて来る者は後を絶たない。
一方、儒の素養が無い者も、特に「吏」と呼ばれる下働き・専門職として登用されるが、この中にはモラルに欠けている者も結構いる。
金銭が絡む為、どんなに見張っていても汚職は発生している。
そうした者には陳矯が厳罰を与えているが、それでも亭とか市レベルでは後を絶たない。
「鶏鳴狗盗」とか「盗嫂受金」とか、有能であれば良い、使い方次第だとは言うけれど、世の中には有能でもないし特筆すべき技能も無いのに一丁前に腐敗している人間が多々存在しているのだ。
そういう意味で、能力よりも人格、人格の基準はどれだけ儒に忠実かで判断して人材登用する後漢は、間違ってはいなかった。
しかし今は乱世であり、時に枠を踏み越えても事を為す有能な人材が欲しい。
「州の事とはいえ、上から下まで名士の推挙で登用するのも手が回りません。
必要な能力を持っているか、きちんと仕事をしてくれるかの判定者がもっと多く必要でしょう。
その判定者が認めた人間を登用し、試用期間を経て昇進させる仕組みに改革しましょうかね」
陳羣の提案に、劉亮は頷く。
世界史で習う新しい人材登用について、史実に先んじて提案して来たようだ。
その方式について詳細を詰めるよう依頼をする。
陳羣の後に、太史慈からも相談を受ける。
太史慈が言うには、現状では兵の強化に限度があるという事だった。
青州では劉亮の献策以降、流民を土着させて屯田兵とし、そこから動員をかける方式を取っている。
劉家の部曲として持っている常備兵力と合わせ、有事には十万を超える兵力になる。
しかし、今まで戦って来たのは統制の取れていない黄巾軍、泰山方面から侵攻する盗賊、反乱を起こした異民族くらいなもので、しかも帰順させて民に戻す政策のせいで戦闘経験が足りない。
正規軍と戦ったのは公孫瓚戦くらいだが、その時は袁紹軍や劉虞の残存兵力とも合わせ十五万もの大軍の中に含まれており、真の意味で強敵と戦って来なかった。
今までは何とかなったが、今後は数にも驚かない敵に当たった時、きっと脆く崩れるであろうという事である。
これに対する劉亮の回答は無い。
中の人は軍事の素人であり、だから専門家に任せていたのだが、その専門家がどうしたら良いのかと聞いて来て答えようが無かった。
とりあえず回答保留とし、兄・劉備の帰還後に改めて対応を協議する事にした。
現状、劉家で最も実戦経験豊富で、勇猛な将に指揮された精鋭部隊は、徐州で呂布と戦っているのだから。
青州は実務を劉亮が担当しているものの、何だかんだで劉備は必要不可欠であると思われる。
そして劉亮は、当分先だと思っていた劉備と思わぬ時期に再会する事になった。
徐州に来るよう、勅命が下ったのである。
ちなみに、劉亮も中の人の日本人も、内政万能なんかじゃないです。
後世知識を使ってはいても、それは当時では不可能だったりしますので。
上手くいってる場合は、大概陳羣たちが実情に合わせたからです。
あと、今後も後漢の煮詰まった登用システムについては書いていくつもりです。




