領土交換
劉亮が公孫瓚と戦う前、朝廷の左将軍・劉備は徐州において呂布と戦っていた。
曹操は劉備に豫州牧を兼任させ、小沛に置くという史実通りの事をする。
そして史実通りに劉備が振る舞った結果、史実通りに呂布が罠に嵌まった。
劉亮は報告を聞きながら、
(何も変化を与えるものが無ければ、大体史実通りに進行するものか)
と考えていた。
劉亮という、本来の歴史というか前世の歴史というか、そこにおいては異分子が活動すると、そこから歴史の変化が生まれる。
しかしバタフライ効果というのは、その変化によって予測不可能になる事で、必ずしも微小な影響が大きな変化に繋がる事ではない。
劉亮のイマイチ派手に暴れられない性格のせいか、彼から離れた場所では影響は少なくなっている。
劉亮が北にかまけて省みていない徐州では、曹操の思惑、劉備の立場、袁術の野望、そして呂布の反応が大体「史実」と同じように動いて流れていく。
という史実通りに動いている方面と、劉亮の影響で歴史が変わっている方面と、その相関で微妙に混沌となっている方面の話はさておく。
劉備は徐州を攻める曹操軍の中に在り。
対公孫瓚の戦場には不在であった。
そして、公孫瓚と劉虞の戦いよりも先の年初めに始まった徐州での呂布戦は、夏が終わり半年以上を過ぎて、劉亮の青州帰還後もまだ続いている。
恐らく史実通りなら、曹操が水攻めをする冬まで掛かるだろう。
その後も劉備は許都に戻り、しばらくは青州に帰って来ない。
劉亮は自分の主君とする兄・劉備に色々な事の裁可を貰うべく孫乾を派遣する。
基本的に劉備は、内政に関しては「そうせい侯」である。
平時はポンコツなので、根本的に間違っている政策でも無い限り「そうしてくれ、責任は俺が持つ」と言う、ある意味ではやりやすく、ある意味では無能な上司であった。
そして劉備の元に集った者は、基本的に「民を救いたい」という部分が共通している為、間違った事を提案しない。
今回、劉亮が不安を覚えたのは、劉備の親友・公孫瓚を討った事の報告である。
劉備は宗族や「劉氏」である事を、左程重んじていない節がある。
「史実」で劉虞が公孫瓚に殺されたのは初平四年(193年)で、こっちの世界の建安三年(198年)より五年も前であった。
「史実」において、この年の劉備は曹操に攻められた徐州を救援に行くのだが、この時はまだ公孫瓚配下である。
劉備は公孫瓚を止められたのだが、一切止めていない。
公孫瓚は劉虞を処刑した事で一気に声望を失ったが、同時に劉備の評判も落ちた。
もしかしたら劉備は徐州に行って、評判を回復しなければならない事情が有ったのかもしれない。
その後も劉備は、劉氏である事に拘りを見せてはいない。
劉皇叔と呼ばれるようになるから、全く意識していない事は無いのだが、大々的に主張はしていない。
恐らく「史実」において荊州の劉表の後を継ぎ、蜀の劉璋から国を奪った辺りでは「同じ劉氏だから、特に問題は無い」と利用したのであろう。
そして曹操との対決では、差別化と正当性主張の為に「漢の復興」を言い出した。
しかし、自分が死ぬ直前には、他姓の丞相に「子が頼り無いなら、お前が後を継げ」と言っているように、血筋に拘ってもいない。
彼にとって「劉」という姓にどんな意味があったのか、よく分からないのだ。
よって、血筋よりも大事にしているっぽい公孫瓚との仁義を勝手に破った形になる、しかも劉亮自身も盧植門下で兄弟弟子だったから、劉備は不義理を詰って来るかもしれない。
一方で公孫瓚は叔父の仇でもある。
劉備の反応が読めない。
そんな劉亮の悩みは先送りされる。
孫乾が持ち帰った劉備の返事は
『言いたい事は山ほどあるが、それは帰ってからにする。
とりあえず後で一発殴らせろ』
であった。
劉備は、自分が何を言われても、どう扱われても笑って許す部分があるが、仁義に反した事や、仲間を馬鹿にされる事には怒りを露わにする。
公孫瓚と手切れになった事に、理由の如何を問わず激怒しているかもしれない。
中の人的には推しを怒らせた事に戦々恐々としている。
だが、一発殴らせろ程度で収めているし、事情を諸々考えての言動とも解釈出来る。
まあ、何時帰って来るか分からないから、この件は置いておこう。
他に劉備に送った書状には、幾つか主君の裁可を仰ぐものがある。
こうなった以上、袁紹と正式に和を結ぶが良いか?
曹操から金貨・兌換券政策について内部事情にも関わる問い合わせが来たが、これを説明しても良いか?
呂布に味方していた山賊が、呂布を見限ってこちらに保護を求めて来たが、どうする?
自分で判断は出来るが、上司の承認を求めるのが劉亮の中の人のスタイルである。
後々責任問題となった時の為、より多くを巻き込んでおきたい。
劉備は多くの案件に「そうしろ」とか「俺の責任で良いから、お前が判断しろ」と回答するのだが、一件「反対」というものがあった。
それは領土の交換に関するものである。
劉亮にとって、劉家の居る幽州涿郡と青州の間に、冀州渤海郡が在る事が悩みの種であった。
何度も涿郡に出向いている劉亮は、特に軍を通過させる際は都度、渤海郡を事実上支配している袁紹に許可を得ている。
こういう手間を減らす為にも、涿郡と青州を陸続きにしたい。
そこで渤海郡の割譲を袁紹に言い出したいが、無償でくれるなんて思ってはいない。
そうなると交換する地が必要で、それは平原国が良いだろう。
渤海郡は戸籍に十三万二千戸が登録されている。
平原国は戸籍に十五万五千戸が登録されているから、交換して袁紹の損にはならない。
だが、こういう事は主君同士が決める事で、劉備の家臣である劉亮が勝手に決めても、実行してもいけない。
下交渉を始めて良いかも含め、劉備の許可が必要だ。
後は、事実上の支配者は兎も角、公的には漢帝国の土地であり、その地の太守は朝廷から任命される必要がある。
丁度朝廷で左将軍の地位にある劉備に交渉もして貰いたい。
そういった諸々を書状にして説明したのだが、劉備からの返事は平たく表現して以下の通りであった。
『叔朗、お前は領民の事を何だと考えているんだ?
彼等は酷い政治に苦しめられ、やっと俺たちが助けてやれるようになったんだ。
俺たちが嫌なら、もう逃げて行ってる。
そんな民が住む土地をだ、六博の駒のようにやり取りするとは何事だ?
お前は民の事なんてどうでも良いのか?
青州だけの問題じゃない。
渤海の民だって勝手に交換材料にされて納得するのか?
権力者の都合で、勝手に決めてるんじゃねえ!
そんなんだと、血の通わない上っ面な意見で天下を動かせると勘違いしていた、洛陽の儒学馬鹿と変わらんぞ。
一回面倒見ると決めたんだから、最後までしっかり政治するのが俺たちの義務だろう。
弱くて奪われるのは統治者がだらしないからだが、そうでない形で領民の信頼を損ねるような手放し方とかするな。
俺は断固反対する』
劉亮はちょっとぐうの音も出なかった。
確かに領土交換をした方が都合が良い。
しかし、自分は領民の立場で物を見ていなかった。
地図と戸籍情報だけで考えていた。
顔見知り、ネームドな人間については気を使うが、名も無き民に対しては他人事、数字だけで考えるようになってしまっている。
以前はこうではなかったが、官僚とかになると指標だけで考えてしまう悪癖「権力者病」に、劉亮もいつの間にか罹患していた。
それでは変えようとする対象、これまでの漢の役人たちと同じなのだ。
そう指摘されると、その通りだとしか答えようが無い。
劉亮の中の人は思い出す「史実」がある。
これより後年、劉備と呉の孫権は、荊州を返せ返せないで揉めてしまう。
当時所領を持たなかった劉備は、荊州を借りるという形で拠点を持ったが、その後益州を手に入れたから「貸していた荊州を返せ」と孫権から言われた。
劉備は返そうとはせず、結局呉の呂蒙と魯粛が南部三郡を武力で掌握、そして和睦成立で荊州は半分ずつの分割となった。
劉亮の前世、金刀卯二郎はこの事を本で読んで
「最初から半分返しておけば、揉めなかったんじゃないか?
半分だけでも返して、残りの半分は曹操と戦う為にどうしても必要って言っておけば、まずは半分返したっていう信用があるから、聞いて貰えたんじゃないかな」
と疑問を覚えた。
結果から言えば、劉備は荊州全土を失い、更に関羽まで死なせてしまう。
だったら返さない前提ではなく、返す前提で孫呉と交渉していれば、共同で曹操と戦う事が出来たんじゃないか、と少年だった時にはそう思っていた。
やがて成長し、一旦奪った土地を無償で返すなんて有り得ないな、と理解する。
人間の欲は綺麗事でどうにか出来ない。
劉備だって群雄の一人、孫権に良いように言って荊州を預かり、そのまま返さないくらいで丁度良い。
「演義」のような聖人では、曹操とも孫権とも渡り合えないだろう。
だが、こっちの世で劉亮の中の人は、生きた劉備玄徳と兄弟になる。
その兄から初めて本気で怒られて、劉備の器の一端を知れた。
今回も、前世での荊州に対しても
「一回俺の庇護下に入った民を、理屈が正しかろうが、はいそうですかと他人に任せられるか!」
という思いを持っているのではないか。
だとしたら、地図と数字と記録でしか見ていなかった自分より、余程人間臭い。
かつての曹操の徐州侵攻において、これは好機だと考えた自分に比べ、何が何でも助けてやろうと行動した劉備が正しい。
そして政治家としてはどうかと思うが、人民の君主としてはずっと素晴らしい。
改めて推し武将に感銘を受けた劉亮だったが、それはそれとして「渤海回廊」はどうしても構築したい。
飛び地では統治が困難だし、何より一回公孫瓚にされたように「分断」されてしまう。
(いっそ、劉備が孫権から荊州を借りたのを真似てみようか?)
そうも思ったが、それは袁紹にとってメリットが全く無い。
孫権は、曹操からの攻撃を分散させるという魯粛の案に賛成し、攻撃を受けやすい荊州を劉備に任せたのだ。
更に荊州には、曹操派とも言えない、独立勢力を目指した郡太守たちが割拠した為、孫権が統治する前に汚れ役を誰かにさせたい思惑もあった。
それに比べ現在の袁紹は、公孫瓚をほぼ倒したも同然で、渤海を他人に預ける必要が無い。
貸して欲しいと言っても、それに対する見返りを求めてくるだろう。
当然それは領土となるから、元の悩みに戻る。
「いっそ、海軍でも作ろうかな……」
劉亮は独り言を吐いたが、陳羣ですら
「海軍?
水軍の事ですか?
南方では長江を始め、沼湖湿地水路が入り組んで来るから必要ですが、青州では必要有りますまい。
海辺に居る賊は、陸に上がって来た時に討てば良く、わざわざ彼等の得意な水上に行く必要は無いでしょう。
賊だって陸に上がらねば生活は出来ないのですからな。
第一、水軍を作るだけの人材も資材も存在していません」
と、海上輸送やその護衛任務について理解していない。
劉亮にとって必要な「渤海回廊」もしくは「渤海艦隊」の構築は、どちらも妙案が無いからまずは先送りされ、それでもいずれは必ずすべき宿題として残された。
※六博
後漢時代に双六とか将棋とか、そういうの有ったかなと調べたら出て来ました。
賭博とか博打の「博」はここから来ているみたいで。
呉楚七国の乱の遠因だそうで。
弾棋ってゲームもありましたが、やってる人が曹丕とか王粲とか蔡邕とか大物ばっかり。
なので三国時代に廃れていたのか、引き続き遊ばれていたのか、どっちか分からなかったのですが、六博の方を作中では使いました。
なんとなく劉備、賭博系には詳しそうなので。
冬休み進行終わります。
また明日から1日1話にします。




