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転生したら劉備の弟だった  作者: ほうこうおんち
第六章:新勢力台頭
56/112

幽州の乱

 劉虞は公孫瓚の悪事を鳴らし、異民族をも集めた十万の軍勢をもって挙兵する。

 この軍勢の中には、劉備・劉亮の叔父である劉敬も加わっていた。

 だがこの挙兵は、劉虞の従事であると共に公孫瓚と同族でもある公孫紀によって、全てが公孫瓚に筒抜けになっていたのだ。

 また、劉虞陣営の中にも非戦論者が居た。

 従事の程緒は

「公孫瓚の悪事過失は明白ですが、処罰の名目が立っておらず、また勝算の見通しも立っていません。

 ここは兵を留めて攻撃しない方が得策です。

 朝廷に奏上し、改めて処罰の大義を得ましょう。

 朝廷の命令に加え、この武威を示せば戦わずして公孫瓚は降伏するでしょう」

 そのように進言するも、劉虞は聞き入れない。

「私は公孫瓚を滅亡させたいのだ。

 降伏等何の意味も持たない。

 降伏したって、どうせ形だけで、いずれまた牙を剥く。

 それと公孫瓚は、朝廷の事など何とも思ってはおるまい。

 あ奴は僭帝・袁術の仲間ぞ」

 そう言って拒絶する劉虞。

 これには、散々公孫瓚から攻撃を受けて来た北方民族たちも頷く。

 なおも戦いを止めようとする程緒を、ついに劉虞は処刑した。


 こうして討伐に乗り出した劉虞ではあるが、彼は特に軍事的に優れてはいない。

 寧ろド素人である事を露呈する。

 公孫瓚は劉虞の「徳のある」性格を利用する戦法を取った。

 それは籠城の際に、周辺住民を全て城内に収納し、その様子を劉虞に見せつけた。

 劉虞は

「余人を傷つけないように、斬るのは公孫瓚ただ一人のみ」

 という余計な指示を出した為、士気が下がって攻城戦は停滞する。

 そこに公孫瓚は奇襲を掛け、劉虞の陣へ火攻めを行って散々に討ち破る。

 軍事的には無能な劉虞は、奇襲に対する警戒も、奇襲を避ける為に城から距離を置いた布陣もしていなかった。

 こうして敗走した劉虞を公孫瓚は追撃し、ついに捕縛する。

 そして

「河北王になれるほどの人物なら、天から雨を降らせることが出来るだろう。

 徳の有る者は天に声を届けられる。

 お前が本物なら、民の為に雨を降らせてみよ!

 ほら、早く!」

 と真夏に無茶な要求をし、出来なかった為に

「この者は紛い者である」

 として、助命嘆願する多くの民の前で処刑をした。




「そうか……。

 劉敬は討死したか……」

 体が動かない劉敬は、公孫瓚の奇襲の際に敵兵の手に掛かった。

 死の前に

「我は幽州涿郡の生まれにて、東郡范県令劉雄の次子、劉敬なり」

 と大声で叫んだが、敵にとってはただの一兵士、そのまま殺される。

 この劉敬の存在を、公孫瓚が気づいていたなら何かの手を打っただろうか。

 公孫瓚は劉虞を倒す事に専念し、全く気付いていない。

 ただ、劉敬という男が居た事を証言する者は残った。


「それと、王養年殿討死だと?

 あの方が何故??」

 王養年とは張飛に兵学を教えた師である。

 もう老人になっていた彼が、どうして劉敬と共に劉虞の陣に参加したのか?

 その理由はついに分からなかったが、兎に角公孫瓚は劉備の血縁だけでなく、張飛の師匠をも殺してしまい、本人はそれに気づいていない。


「急ぎ青州の叔朗に使者を送れ。

 田豫殿、涿郡の兵の指揮をお願いし申す」

 田豫は劉備が野放図に取り込み、処理し切れなくなった流民たちを、涿郡において屯田兵として組織化していた。

 涿郡には既に先住の農民が居る為、開墾に当たっては利害調整する等していた。

 更に劉亮が行った所謂「徳政令」も、涿郡における実行役でもある。

 劉亮でも悲鳴を上げていた財政の仕事を、規模こそ小さいが彼も必死にしていた。

 故に涿郡の屯田兵たちは、田豫やその後ろ盾の劉元起を随分と尊敬している。

 田豫が一声掛けたら、屯田兵だけでなく、涿郡の農民も立ち上がり、立ち所に五万の兵士が集結した。


 涿郡が挙兵したという報に、公孫瓚は

(やはりそうか。

 劉玄徳を許都に送り、邪魔する者が居なくなった劉叔朗が俺を攻める気だな。

 劉叔朗は烏桓の婿、劉虞を担ぐ者、袁紹の友。

 どっち着かずの態度であったが、やはり戦う運命にあったのだ)

 と納得し、そのまま兵を向ける。

 涿郡を落とせば、幽州の中原側に属する郡は全て彼の物になるのだ。


 だが、そこに劉虞の残党である鮮于輔が、烏桓・鮮卑の兵と共に反攻を仕掛けて来る。

 更に公孫瓚軍から裏切りも発生した。

 王門という男が一万もの兵を連れて、田豫に降った。

 公孫瓚は思わぬ事態に動揺し、鮮于輔軍の攻撃を受けると一旦本拠地の北平城に撤退する。


「鮮于輔殿と私は知り合いです。

 共闘を呼び掛けてみます」

 田豫がそう言い、

「烏桓の単于・蹋頓は叔朗の義兄弟だ。

 私が言ってどれ程の事があるか分からんが、援軍要請をしてみよう」

 と言って劉元起も動き出す。


「後は、早く叔朗がここに来てくれないとな。

 玄徳不在の今、あいつが頼りだ」

 幽州劉氏たちは頷き合った。




 青州において、劉亮を大将として軍勢が編成される。

 事実上の指揮官は太史慈。

 その副官として孫乾、副将として傅士仁という陣容である。


 ただの「叔父が殺された」から仇討ちをするのなら、曹操の徐州攻めと同じ私戦であろう。

 儒学社会において、十分な開戦理由ではあるが、私戦な事に変わりは無い。

 だが、朝廷から認められた趙王劉虞を殺したという事で、朝廷(曹操)からも公孫瓚討伐の詔勅が出されていた。

 これを伝えに、現在は徐州で戦っている劉備の元から離れてやって来た劉展は

「叔朗兄、頼む、俺を討伐軍に加えてくれ!

 親の仇を取らずして生きていられようか!」

 と懇願して来た。

 無論、将の数は多い方が良い。


 劉徳然と陳羣は留守を預かる。

「左将軍(劉備)は徐州攻めに駆り出されている。

 だから徐州(呂布)からの侵攻は無いと思うが、油断されませんよう」

 留守番の者たちに言い残し、青州軍三万が北上した。


 公孫瓚討伐の勅命は、袁紹にも出されていた。

 袁紹は曹操が出させた命令に従うのも癪ではあったが、大義名分を得た事には変わりなく、三男の袁尚に五万の兵を預けて幽州に向かわせる。

 こうして劉亮・田豫・王門・鮮于輔・袁尚が集まって十五万もの大軍になった。

 大軍は一路、公孫瓚の本拠地・北平を目指す。


(大軍は補給に失敗すれば脆い。

 そして甘い俺が居れば、そこが弱点になりかねない)

 劉亮は劉虞の敗因を知らされた。

 劉虞の言う「余人を傷つけないように、斬るのは公孫瓚ただ一人のみ」を自分も言いかねないと思い、ゾッとする。

 中の人が平和ボケの日本人のせいで、残酷になり切れないのだ。

 どうせ青州軍は太史慈が指揮をする。

 劉展も従軍しているし、部将も複数居る。

 劉亮は全軍の補給担当を引き受けて涿郡に入った。


(俺は甘い。

 この甘さを捨てないと、俺だけでなく皆の迷惑になる)

 劉亮はいつかは非情さを身に着けねばと思う。

 だから、本来なら説得の文を書くところ、今回は思い切って弾劾の書状を公孫瓚に送りつけた。

 幸い、近くには劉元起が居るから、読めない字になる事もない。


 そして送られて来た弾劾状の中に

『私事乍、貴公是叔父劉子敬之仇哉』

 という文言を見た公孫瓚は、どういう事か周囲に尋ねる。

 彼は劉敬子敬という人物を知らず、何故その仇に自分が名指しされているのか分からなかった。

 なんか、そう名乗っていた兵士が居たとかどうとか、よく分からない。

 とりあえず、自分が劉亮の血縁者の仇になってしまっていて、それでは劉備に取りなしを頼む事も出来ないと公孫瓚は悟った。




「潰せ!!」

 家柄や直属兵力の多さから、袁尚がこの場の最高司令官になる。

 これも全軍合流後に劉亮が

「戦場では指揮系統の統一が重要。

 名目上は、上司の仇討ちを行う鮮于輔殿への援軍という形だが、最高司令官としては袁尚殿を推したいがどうだろう?」

 と提案し、満場一致で決めていた。

 命令系統の序列も、戦場での役割も決めた上で

「後はその場その場の臨機応変でお願いします」

 とした為、袁尚は気兼ねなく指揮をする事が出来た。

 更に「劉亮(おとうと)が来ているなら」と言って蹋頓が烏桓兵十万を率いて来援。

 北平は悲惨な事になった。


 計二十五万もの大軍に攻められ、北平は落城、民の多くも犠牲となる。

 だが、肝心の公孫瓚が見つからない。

 一体どこに行ったのか?


「親の仇を探し出さねば、死んでも死に切れん」

 息巻く劉展を、苦笑いしながら見つめる袁尚。

 もう彼にとっては、公孫瓚の首等は輝かしい勝利のおまけのようなものだ。

 幽州を電撃的に侵攻し、中立である公孫度の領地に接するまでの地域を獲得出来たのだ。

 まあ涿郡は劉氏のものだし、旧劉虞の拠点であった広陽郡は鮮于輔に任せる事になるだろうが、実質的に袁家が幽州の主となる事は出来た。

 そう思っていた袁尚の元に、父の袁紹からの使者が急報を知らせる。


「公孫瓚、冀州の易県に出現。

 かねてから造っていた易京という城に籠城した模様」


 公孫瓚は幽州に大軍が集まると知った時点で、漁陽郡の海沿いを通って、まだ自分の勢力圏として維持している冀州北部に逃れたのだ。

 北平には影武者を置き、自分が居ると見せかけた上でやはり民を城に容れ、如何にも前回同様の籠城戦をするように見せかけた。

 かつては民を楯にして劉虞を破り、今度は民を囮に軍勢だけを持って逃走。


「公孫瓚を取り逃がすとは、何という失態!

 お前は何をしておった!?」

 父からの叱責の声が聞こえたような気がして、袁尚の顔が強張る。

 袁尚は一旦、州庁の在る薊城に戻り、後方担当の劉亮も呼び出すと軍議を開き

「幽州の事は後で決める。

 父と劉亮殿、鮮于輔殿との間で話し合いが持たれるだろう。

 俺はこのまま軍を率いて公孫瓚を倒しに行く」

 と告げた。

 王門はそれに同意し、袁紹の配下に入りたいと申し出る。

 蹋頓は劉亮から礼の品々、食糧や酒、布等を受け取ると

「また困った事が有ったら呼べ」

 と言い残して北に帰っていく。


(あの男、高潔な人柄だったのに変わったのか?)

 北平の戦いの詳報を聞いた劉亮は不快に感じていた。

 以前の公孫瓚は、確かに立派な人間であった。

 涿県の県令をしていた時も、宦官時代にあって随分と清潔な県政をしていた。

 だから、今の変貌ぶりが信じられなくもあり、

(こういう人物なら、俺としても許す事は出来ないな)

 と、前世の日本人の価値観からして、不快に思う人間に成り下がったとも思った。


「叔朗兄、俺はこのまま袁尚殿に従って易京を攻める。

 玄徳兄にその旨伝えておいてくれないか。

 勝手な事をして済まない。

 だけど、どうしてもこのままにはして置けない」

 劉展がまたも頼み込んで来るが、劉亮としても許せない事であった為、これを容認する。

 とりあえず、劉亮の北での仕事は終わった。

 後は袁紹との交渉と……


「兄者にどう伝えたら良いものか……。

 不在だから勝手に兵を動かしたのもそうだが、公孫瓚と完全に敵対したとか、きっと色々言って来るだろうなあ」


 勅命を受けたとか、涿郡が脅かされたとか、叔父の仇討ちとか、一族の要望とか、色々有っても劉備は劉備の価値観で動く人間だ。

 若い時にちょっと会ったくらいの劉虞より、盧植塾以来の親友・公孫瓚を大事にして行動する。

 今回徐州に居て即応出来なかったから良かったが、青州なり涿郡なりに居たら、一族無視してでも公孫瓚軍に参加して劉虞殺しの片棒担いでいた可能性もある。

 左将軍ともあろう者がそんな軽挙をする訳が無いと思いたいが、そんな肩書きより友情を優先させるのが劉備の魅力でもあるから、中々予想がつかない。

 そんな劉備へ、どう報告したら良いか悩む劉亮であった。

おまけ:

幽州での公孫瓚対劉虞戦、調べればどちらも何と言うか……な行動してます。

その前までは割と両方まともっぽいんですが。

特に宗室殺しの公孫瓚、これ以降更に描写が悪くなっていくのは、史書のバイアスなのか、それとも人間が変わったのか……。



※誤字脱字報告で指摘がありましたから補足します。

劉敬、字は子敬 としています。

劉子敬が劉備に注意した叔父で、その名を調べても分からず。

劉展の父は劉敬で、劉敬も叔父の一人。

どこかで同一人物って見たのと、劉敬と劉子敬という二人の叔父が居たら紛らわしいので、劉敬子敬にしました。


まあ、唐の郭子儀、字は子儀で姓名+字だと郭子儀子儀よりは分かりやすい名前だと思ってます。

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― 新着の感想 ―
[一言] 公孫瓚対劉虞戦 公孫瓚は劉備が居たし良いやつ、みたいな読み方してたのに 途中から行動がしっちゃかめっちゃかで 何がなんやらさっぱり分からなくなったんですよね 子供だったし公孫度は公孫瓚と親…
[一言] この物語の趙雲は劉備狂信者にならずに主人公派になってほしいなあ。
[一言] 最後の方の公孫瓚はなんだこのゴミクズとしか思えなくなりますからねぇ… いくら劉備でも流石にこの状況で敵の肩持ったら廃嫡モノという
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