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転生したら劉備の弟だった  作者: ほうこうおんち
第六章:新勢力台頭
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袁術陣営の攻勢

 袁術という男は、基本的には自分では戦わない。

 裏で暗躍し、陶謙や呂布、孫堅、更には公孫瓚といった群雄を動かして戦っていた。

 そんな彼だが、一度自分から兵を動かした事がある。

 陶謙による曹操への攻撃と、父の死に端を発した曹操の徐州侵攻の間の時期に、袁術は兗州の陳留に侵攻して曹操を攻めた。

 曹操の元には直ちに袁紹からの援軍が到着。

 曹操・袁紹連合軍に敗れた上に、荊州牧の劉表が袁紹に呼応して北上、袁術の本拠地南陽郡を攻めた。

 袁術は荊州南陽を捨てて逃亡。

 そして揚州刺史張温が死んだという報を受けると、そこに乗り込んで揚州寿春を乗っ取る。

 寿春に本拠地を移した袁術は、更に自ら戦わなくなり、曹操の留守中に呂布をけしかけるような戦い方で天下を騒がせるようになった。


 揚州寿春に拠点を移した袁術は、自領が揚州九江郡、揚州廬江郡、そして隣接する豫州汝南郡だけである事を不満に思う。

 そこで孫堅の子の孫策を派遣して、南の揚州諸郡を攻略させる。

 自らは、やはり長江の北側に勢力圏が欲しい。

 そんな中、劉備の弟が劉虞・袁紹陣営に付いたという情報が入った。


 劉備は袁術と敵対する意思は無い。

 過去に豫州牧を辞任する際、袁術にそれを譲っている。

 劉備が公孫瓚を通じて自分の派閥に居るなら、豫州に続いて徐州も寄越せなんて言いにくい。

 しかし、劉備の弟が敵派閥に付いたとなれば話は違う。

 劉備(あに)の意思はどうであれ、徐州侵攻の名目は出来たようなものだ。


 袁術は、袁紹のように天下取りの大義名分を考えていない。

 ある意味、一番「乱世の梟雄」というのに相応しい存在なのだ。

 故有れば誰とでも手を組む。

 故有れば裏切る。

 故有れば奪い取る。

 宦官誅殺の際は、あれ程不仲であった従兄弟の袁紹と組んで宮中に乗り込んで行った。

 その後、董卓にあれ程信頼されながらも、反董卓の方が時流に沿っていると見て裏切った。

 袁術はある意味では董卓に感謝もしている。

 兄の袁遺を殺してくれたから、袁家の本流を非難される事無く継承出来たからだ。

 そして董卓と直接戦う事無く、矢面に立たせた孫堅の功を自分のものとし、董卓死後は董卓に引き立てられた公孫瓚や陶謙を味方に取り込んだ。

 袁紹が担ぐ劉虞が朝廷に対する異心無しと知ると、上手く恐喝して兵を一部取り上げる。

 こういう男だけに、長安を脱出した皇帝が消息不明となった事で、更に野心を肥大化させたようだ。


 はっきり言って、ある意味清々しい。

 理屈を捏ねず

「自分が天下を動かすだけの実力者」

 と思って動いているからだ。

 それだけに、皇帝が行方不明な興平二年(195年)には、自らが帝位に就くという意思まで持ち始める。

 だからこそ、揚州二郡、豫州一郡だけの勢力ではなく、揚州・徐州・そして豫州という三州を領有して天下取りの足掛かりにしようじゃないか。

 こうして徐州には袁術自身が、揚州には孫策が出動する。


 劉亮は袁術に会った事が無い。

 だから袁術を過小評価していただろう。

 今まで正面切って戦わなかった男が、馬鹿正直に兵を進めて来る筈が無い、と。

 まず公孫瓚が動く。

 公孫瓚は幽州涿郡に兵を進めた。

 ここは幽州劉氏の拠点である。

 涿郡に入ると、何をするでも無くただ滞陣を続ける。

 そして目的を尋ねても、曖昧な返答を繰り返すのみ。

 涿郡における劉氏の長者・劉元起と政務担当の田豫から劉亮に使者が送られた。

 公孫瓚と話し合って欲しい、何が目的か聞き出して欲しい。

 青州牧という立場であれば、公孫瓚も無視はしないだろう。

 劉亮は劉徳然と太史慈に留守を任せ、護衛五百人の兵を率いて急行する。

(公孫瓚がわざわざ劉備を敵に回す事は無い。

 だが、俺に対しては不信感を持っていておかしくない。

 勝手に袁紹や劉虞と組んだ俺の責任だ。

 後始末はちゃんとしないとなあ)


 劉亮は袁紹に頼み、渤海郡を通過させて貰った。

 公孫瓚が涿郡に兵を進めた事を知った袁紹も、幽州との国境方面に兵を集める。

 しかしこれが罠であった。

 公孫瓚は劉備を敵に回す気は無いが、一方で劉亮に活動の自由を許す気も無い。

 劉亮の涿郡到着を知ると、急ぎ迂回をして代郡から冀州に南下をした。

 そして騎兵を回り込ませて渤海郡に送り、青州と涿郡との連絡を遮断。

 それだけでなく、幽州薊城の劉虞、冀州の袁紹との連絡線も「戦場だから危険」という事で封鎖してしまう。

 こうして丸腰の劉亮を涿郡に封じ込め、袁紹との戦いに挑む。


 袁術の布石はこれに留まらない。

 徐州琅邪国で独立勢力となっていた臧覇を動かし、北上して青州を攻めさせた。

 劉徳然は太史慈を派遣してこれに対応する。

 青州は幽州に劉亮を迎えにも行けず、徐州の劉備の増援も出来ぬ、手一杯の状態となってしまった。


 こうして青州・幽州の劉氏を動けないようにした上で徐州に侵攻。

 劉備は自ら兵を率いて出陣する。

 劉亮は「史実」から、予め

「もしも袁術と戦う時は、張飛を連れて行くように。

 留守は関羽が守った方が良い。

 関羽は既に青州で一戦しているから、その兵を休めるべきだ」

 と伝えている。

 関羽は下邳に駐屯し、徐州全土に睨みを効かせていた。

 だが更に徐州琅邪国の独立勢力・蕭建が挙兵する。

 劉備が徐州の独立勢力を一個ずつ潰していかなかったツケがここで回って来た。

 関羽は直ちに北上して蕭建を討ちに行く。

 ここでも劉亮の計算ミスが出た。

 確かに「史実」では張飛と曹豹が仲違いし、曹豹が呂布を迎え入れたとされる。

 だったら関羽なら大丈夫か?

 関羽は関羽で問題がある。

 酒を飲んで不覚を取るような事はしないが、この人基本的に独断専行型である。

 劉備は関羽が留守を守っていると思っていたのだが、その関羽は相談も無しに琅邪の莒城に攻めて行った。

 そしてついに、袁術の調略を受けていた曹豹が呂布を迎え入れた。


 曹豹が劉備を裏切った理由は、「正史」ではよく分からない。

 張飛と仲違いしたとされるが、正史では酒乱とはどこにも書いていない張飛とどう争ったのか?

 また「三国志」の先主伝では曹豹は死んでいないが、呂布伝では張飛に殺された事になっている。

 劉亮の前世ではどうだったか分からないが、こっちの世界では袁術によって切り崩されたのだ。


 曹豹は曹操の徐州侵攻に際し、劉備と並んで抗戦した武将だ。

 劉備は陶謙から気に入られ、陶謙の出身地である揚州・丹陽兵を与えられている。

 この陶謙親衛隊とも言える部隊は、その後は曹豹に預けられた。

 袁術はこの丹陽兵から切り崩す。

 既に寿春に拠点を移した袁術は、丹陽にも影響を及ぼしていた。

 そして丹陽兵を故郷を介して誘う。

 丹陽兵たちがすっかり袁術を選んだ為、曹豹も袁術に寄り出す。

 武将である曹豹にしても、民の為の政治は良いが、全く防衛設備の強化とか国内の独立勢力排除に動かない劉備に不満を持っていた部分もある。

 こうして袁術が後援する呂布を徐州に招き入れる算段が付いた。


 曹豹の手引きで小沛から徐州に侵攻した呂布は、莒城を攻める関羽を背後から襲った。

 これには関羽も一たまりも無い。

 関羽だろうが張飛だろうが、仮に太史慈だろうが、まず城攻めの最中に背後から攻められたら負けるだろう。

 関羽は青州に敗走した。

 そして馬首を返すと、袁術と抗戦中の劉備をやはり背後から襲う。

 ただこの時は、関羽が敗れた事を急使で知らされていた為、劉備は戦わずに逃げ出した。

 こういう時に逡巡は危険である。

 逃走を選択した劉備は流石と言える。


 ここで袁術にとっての計算違いが発生。

 なんと呂布は、突如劉備攻撃を中断し、和睦の使者を送ったのである。

 袁術は何が何だか分からない。

 劉備にも何が何だか分からない。

 関羽は何が何だか分からないが、とりあえず呂布は許せない。


 劉亮も何が何だか分からないが、分かろうと必死で頭を捻った。

 彼にしても、すれ違いばかりで呂布とは会った事が無い為、情報が無さ過ぎる。

 一回会っておくべきだったか。

 憶測でしか無いが、呂布は別に袁術の部下になるつもりは無かったと想像。

 呂布は自分の拠点が欲しいのであり、袁術と手を組んだのはその為だけの行為。

 徐州を占領した今、袁術の下に入るつもりは無い。

 そして、かつて兗州を乗っ取った際は、帰って来た曹操と二年に渡る死闘を繰り広げた。

 それを防ぐ為にも、劉備とは和解したかったのかもしれない。


 何にしても想像でしかないが、この和解を劉備は受けてしまう。

 史実通りとは言え、劉亮は思わず

「なんでだぁぁぁ!!??」

 と頭を抱えてしまった。

 この辺り、劉備の行動も読めない。

 呂布と劉備の常人の予測を大きく外す行動により、劉備は徐州から撤退した。


 今回の呂布による徐州乗っ取りが、劉亮の知る「史実」と異なるのは、根無し草の劉備ではなく、青州という帰る場所がある劉備だった為、呂布の下に付かずに青州に戻って来た事だ。

 徐州で集めた兵は逃散してしまったが、青州には子飼いの兵士たちが居る。

 報復侵攻を叫ぶ関羽と張飛に対し、劉備は

「まあ、止めておこう」

 と悠然としていた。


「それよりも心配なのは、伯珪兄によって通路を遮断され、帰って来られない叔朗の方だな。

 自分が行って説得するつもりだったんだろうが、見事に嵌められたなあ」

 青州牧の劉亮が居なくても、別駕の陳羣と、劉家を取り纏める劉徳然が居るから青州の統治は揺るがない。

 臧覇も太史慈が撃退したし、劉備本軍が帰還した以上守りは十分だ。

 何とか渤海沖の海路を使って、涿郡と使者の往復は出来ているのが救いだ。


 生まれ故郷で劉亮は地団駄を踏んでいる。

 公孫瓚と袁紹の戦いは激しくなっていて、帰るに帰れない。

「焦らずとも良い。

 玄徳に任せておけば良い。

 あいつはそう何度も失敗はしない男だ」

 徳然の父である劉元起が励ます。

「そうだ、徳公の父、お前の叔父を見舞ってやれ」

 そう言われ、劉亮は叔父の劉敬の元を訪れる。

 劉敬、字は子敬、劉展の父である。

 子供の頃の劉備が、天子専用車に乗ると言った事を咎めた人物だ。

 落馬して体を痛めて引退、以降は息子の劉展がこの家の長となっている。

 その劉敬に会い、最初は劉展の事を報告したりしていたが、やがて話題は劉備の事になる。

「俺は以前、玄徳に『天子様の車に乗りたい等と、迂闊な事を言うな』と咎め立てをした。

 その時の事を、最近夢でよく見る。

 あの小さい玄徳が、本当に桑の車に乗って

『どうです、乗れたでしょう』

 と笑っていたのだ。

 玄徳はもしかしたら、真に皇帝になるのではないだろうか?」

「それは夢だけの話でしょう」

 劉亮の前世の記憶では、実際に皇帝になっているから、否定っぽく言っているが否定はしていない。

 劉敬は

「夢とは天が啓示をするものだ。

 俺にはあれは予兆のように思えてならん」

 そう言って譲らない。

「叔朗、お前は天子の車の御者となるのだ。

 玄徳は天子の車で暴走しかねない。

 うちの馬鹿息子だと、暴走を良しとして一緒に突っ走ってしまうだろう。

 弟のお前が玄徳を制御するのだ!」


 叔父の言葉は真面目なのだが、劉亮の脳裏にはつい、天子用の車をドリフトさせながら峠を攻める劉備と曹操の姿が思い浮かんでしまい、以降の話は頭に入って来なかったのである。

おまけ:

曹操「中原最速の俺に勝てるか?」

劉備「涿県筵店の奥義・溝落としを見せてやろう!」

献帝「朕も皇帝(エンペラー)の実力を示そうぞ!」

董承「では財貨投擲重量軽減チューニングしませんと」


某走り屋漫画ネタでした。

(車でなければ最速は呂布でしょうが、あれは「并州爆走族」というか「特攻ぶっこみの奉先」というか「ヘルライド」というか……)

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― 新着の感想 ―
[良い点] 劉亮の塩梅 [一言] 劉亮の惑やそれに伴う不安定さは酷く人間らしい、交渉ごとに一家言あり気弱なうだつの上がらない日本人男性の中年のオッサン、その等身大を書いている、素晴らしい。 正直日本人…
[良い点] あとがきwwwwww
[一言] やっぱり劉亮は後手後手だ 誰よりも有利なのに覚悟が足りないので、状況に流されて、なんでだあとか嘆き喚くばかり しかも長寿の趙雲は家臣に加わらない状況(陶謙の援軍に趙雲が派遣されていれば劉備を…
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