徐州戦線
青州の南は徐州である。
ここは陶謙が州牧を勤めていた。
陶謙は袁術派である。
同時に長安の朝廷とも繋がっていて、中々「黒い」人物でもあった。
初平四年(193年)、徐州下邳郡において闕宣という人物が皇帝を自称して兵を挙げる。
なんと陶謙は、この僭称者・闕宣と手を組んだのだ。
州牧は皇帝から親任される職務だが、それは郡太守も同じである。
刺史ではない州牧には強力な権限が与えられたが、太守は州牧と同格である為、中々言う事を聞かない。
そこで州牧が太守を倒して自勢力を拡大したり、逆に太守が州牧を追放して自分の勢力を維持したりという戦いが、実は各地で発生していた。
荊州に入った劉表も、長沙太守の孫堅と戦っていたし、その後も各地の太守や有力者を懐柔したり、鎮圧したり、時には毒殺する等して勢力拡大をしていた。
幽州においても、州牧(この頃は長安の朝廷から大司馬に任じられていたが、引き続き幽州に留まっている)の劉虞と、北平太守の公孫瓚は対立していた。
徐州において、州牧の陶謙は闕宣の勢力と手を組む事により、対立する有力者を次々と屈服させていく。
そして泰山郡に兵を出し、略奪を行った。
この泰山郡は兗州に属していて、兗州は曹操が州牧をしている地である。
既に先年、陶謙は袁術の依頼で発干に出兵し、ここで曹操に敗れている。
そして決定的な事件が起こる。
用が済んだと見た陶謙は、闕宣を殺してその勢力を吸収した。
新たに陶謙配下に入った闕宣の部下が、有力者殺しの一環で曹操の父・曹嵩を殺してその財産を没収したのである。
曹操は犯人引き渡し要求をするが、陶謙はこれを拒否。
ついに曹操は激怒し、大軍を徐州に向けたのだ。
(どう見ても陶謙が悪い!
曹操が激怒して当然だ)
劉亮は事情を聞いてそう思っていた。
だが劉亮は、前世の記憶から次に発生する事件を知っている。
それは徐州大虐殺である。
曹操軍の蛮行に恐れを為した陶謙は、袁術を通じた同盟関係にある公孫瓚に助けを求め、それによって劉備が出陣という流れなのだが……
「叔朗!
俺は青州牧を辞任したぞ!」
と劉備がいきなり言って来た事に、思わず白湯を吹き出してしまった。
「な……何故?」
「徐州が襲われているから」
「だから?」
「いつでも増援に駆け付けられるように、州牧を辞めたんだ」
「いや、話が繋がらない。
まだ援軍の要請は来ていませんよね。
というか、青州はどうするんですか?」
「孔融殿を推挙しておいた。
あの人なら青州をしっかり治めてくれるだろう」
「まあ、確かに孔融殿なら……。
しかし、兄者が援軍に行く理由はまだ聞いていませんよ!」
「徐州が俺を呼んでいるからさ」
「理由になっていません」
「劉亮殿」
「何ですか、関羽殿」
「劉将軍はこのように言っておられるが、実は儂の所に旧知の者から助けて欲しいと申し出があったのだ」
徐州は豊かな地で、難民が多く押し掛けていた。
曹操軍の侵攻で迷惑を受けたのが、この難民である。
劉備も多くの難民を屯田兵として組織化していた為、難民の中には州を跨いだ知り合い同士も居た訳である。
その難民同士のネットワークから、関羽の部下に知らせが入り、それを聞いた関羽が劉備に話をしたところ
「よし、すぐ助けに行こう!」
となった訳である。
「事情は分かりました」
「済まぬ、儂の事でこうなってしまって」
「だが、劉将軍らしい」
「うむ、張飛の言う通り、儂はこれだから劉将軍の下で働こうと思うのだ」
「まあまあ関さんも張さんも、おだてないでくれ。
叔朗、聞いての通りだが、これは私戦に過ぎない。
青州牧としてすべき事ではない。
だから印綬を返還し、州牧を孔融殿に譲ったのだ」
「……諸々理解しました」
理屈は分かる。
しかし、思い立ったが吉日とばかりに即行動するこの癖は直して欲しい。
とりあえず劉備たち約一万が先行し、劉亮は州牧を譲られた孔融に挨拶しに行く。
兄が突発的に行動するので、劉亮や劉徳然は後始末担当であった。
「私は劉備殿から青州を一時預かったと思っている。
思う存分義を果たしたら、戻って来られれば良い」
孔融は一言二言多い面倒臭い人物であるが、劉備との相性は何故かとても良い。
劉備は綺麗事だけの人物は嫌いだし、孔融は儒学を知らない者を軽蔑するのだが、この二人は妙に気が合っていた。
恐らく根っこの部分で「原始儒学的な義侠心」が有って、それが共通しているからだろう。
孔融は以前、宦官に追われていた兄の知人を助け、兄に代わって処罰されようとした逸話がある。
劉備は学問的な部分は兎も角、師への忠や友への義には篤い。
乱世の雄・平時のポンコツな劉備と、平時の能臣・乱世のポンコツな孔融は、お互い補い合える関係でもあった。
「しかし、叔朗も出兵に賛成するとは意外だった。
お前さん、曹操とは仲が良かっただろ?」
またも留守番で一万の兵士を預かる劉徳然が訝しむ。
劉備軍十万と号しているが、幽州に一万、青州に二万、それと劉亮直属の烏桓兵五千が常備戦力であり、残り数万は基本農業をしていて、有事以外は動員されない。
劉徳然は常備軍の半数を預かり、太史慈を武将として使う事になる。
その劉徳然だが、洛陽であの宦官の孫によく絡まれている劉亮を見ていただけに、それと戦いに行く事を疑問に思っていた。
「まあ、曹操は嫌いじゃないし、戦うと言うより戦いを止めに行くんだがね」
「そうか、それなら叔朗らしい」
「あと、兄者を止める者も必要だ」
「全くだ。
今回も勝手に兵を動かしやがって。
孔融殿が人格者だから良かったが、普通なら国を乗っ取られるぞ」
劉徳然の指摘に苦笑いしか出ない。
彼の記憶の中の劉備は、この後の徐州でまさに国を乗っ取られる不始末をやらかすのだから。
「まあ、徐州と豫州に行かないと手に入らない人も居るしね」
「豫州?
戦場は徐州だろ?」
「豫州小沛も争地の内だよ」
「そうか、面倒な事だな」
劉亮が、突発的な行動に面食いつつも、劉備を止めなかったのはそれが理由だ。
劉備が徐州に援軍として駆け付けた事が、この後の飛躍に繋がるのだ。
この世界の劉備は既に青州と幽州に十万と号する軍を抱える軍閥なのだが、前の世界での劉備は根無し草の傭兵隊長であった。
それが徐州への援軍をきっかけに、豫州牧、ついで徐州牧に任じられ、天下に名乗りを挙げる事になる。
そして劉備が、曹操軍の虐殺で朱に染まる徐州に駆け付けたという名声が、後々の人材確保で役立つ。
天下への名乗りは兎も角、現在の人材確保と、将来の人材確保への布石はこっちの世界でも変わらないだろう。
こうして妻の白凰姫、側近の楼煩と共に出陣した劉亮だが、途中で意外な報告を聞く。
劉備軍が曹操軍の一部隊を撃破したという。
その後、曹操の本隊と戦って敗れるも、小沛城に入って籠城をしている内に、兵糧の尽きた曹操が一時後退した。
(あれ?
史実よりも曹操が弱いんじゃないか?)
その原因は劉亮にある。
彼が劉備に、難民を屯田兵として組織化する事を教えたが故に、後に兗州に押し寄せる黄巾軍を、四割程奪っていたのだ。
彼の知っている歴史では、百万の民を抱え三十万の精強な兵「青州兵」を得る事で「魏武の強、これより始まる」なのだが、この時代では五、六十万の民と二十万弱の兵に過ぎなかった。
横取りした分が劉備軍の強化になっている。
劉亮が小沛に到着した頃には、曹操軍は一時兗州に戻っていて、翌年の再侵攻の準備に入っていた。
「おお、叔朗、援軍に来てくれて有難うな。
一旦曹操は帰って行ったけど、また攻めて来ると皆が思っている。
お前さんも来てくれて心強いよ」
劉備はこの地でも難民の組織化を行っていた。
まあ行政能力は低い劉備だけに、思った程上手くはいっていない。
それでも小沛城には出撃した時以上の兵が詰めていた。
劉備はどうやら陶謙に気に入られたようで、陶謙の生まれ故郷・揚州丹陽郡の兵四千人も預けられる。
この丹陽兵はある意味、陶謙の親衛隊であるから、相当な信頼と言えた。
そして劉亮の援軍も合わせて、三万が城を守る事になる。
「そうだ、俺は豫州牧に推挙されたぞ」
(そういえばそうだった)
青州牧の座を投げ出したと思ったら、もう他州の牧になっている。
このダイナミックさも劉備の面白さと言えようか。
「それはそうと、関羽と共に出撃してくれないか」
劉備は劉亮にそう頼む。
「一体どこに行けと?」
「ちょっと広陵を攻めて来てくれないか?」
関羽の部隊も騎馬隊であり、烏桓騎兵の劉亮隊と合わせて機動力が高い。
その機動力をもって、曹操再来までに倒して欲しい相手がいると言うのだ。
下邳国の相・笮融と彭城国の相・薛礼の二人は、かつて屈服させられた陶謙に対して独立行動を取っている。
それだけならまだしも、広陵郡太守の趙昱を殺し、その地で略奪を行っていた。
劉亮の中の人も覚えていない歴史だったが、まあこういう奴を討つ事に不満は無い。
関羽と劉亮軍合わせて一万程が、広陵に向かい笮融と薛礼を撃破。
彼等は劉備軍騎馬隊の機動力を甘く見ていた為、まさかの日数で押し寄せられた結果、完全に奇襲を許してしまって、反撃すら出来ずに敗北する。
笮融と薛礼は揚州刺史の劉繇を頼って逃亡した。
なお劉繇は、揚州を袁術に狙われていた為、敵の敵は味方という理屈で袁紹派となっている。
劉備の命を受けた関羽と劉亮は下邳・広陵・彭城を回収すると陶謙に返還する。
陶謙は喜び、自分の部下の曹豹を下邳国相に任じた。
無欲に占領地を返還した事で、徐州における劉備の名声は更に高まる。
帰途、下邳城に寄った劉亮は思わず呟いていた。
「しかし、下邳城と関羽か……。
思わぬ縁だなあ……」
「劉亮殿、何か言われたか?」
「いや、何でもないです。
ただの独り言です、気にしないで下さい」
自分の名前が出た関羽は、少し不満そうであったが、まあ独り言というのを詮索しても意味はないだろうと、そのまま劉亮の傍を離れた。
劉亮の前世の記憶では、関羽はこの地で曹操と戦い、降伏するのだ。
だがその前に、この下邳には別の男が立て籠り、曹操・劉備連合軍と戦う。
出来れば、そんな面倒臭い戦いは避けたい、劉亮はそう思うのであった。
おまけ:
執筆にあたり徐州を調べたら、かなりグダグダでした。
陶謙は揚州や豫州に手を広げる一方、州内はまとまっていない上に、兗州との境である泰山近辺は無法地帯。




