反董卓連合軍
劉亮は投獄された。
董卓暗殺を企てた曹操の共犯者と疑われての事。
獄吏による、尋問という名の拷問を加えられたりもするが、劉亮は関与を認めない。
劉亮の前世は日本人である。
逆行転生なのか、一巡した似て非なる世界に来たのかは分からないが、日本人から劉備の弟に生まれ変わったものだ。
彼が生まれ育った時代の日本では、拷問による自供は証拠として認められない。
逮捕されても肉体的苦痛を与える拷問は禁止されている。
大体小市民は逮捕なんかまずされない。
だから、拷問なんかされたら簡単に屈すると思われる。
しかし劉亮の前世で、彼は普通の日本人とは違う体験をしていた。
海外に飛ばされっぱなしだった彼は、反政府ゲリラに村ごと制圧された上に監禁され、粗末な食事だけを与えられる人質生活を送った事もある。
とある国の警察になんらかの事情で逮捕され、拷問を受けた事もある。
それでも油断して、押し入り強盗に殺された事から、どこか抜けた所があるし、楽観的な部分があった。
だから劉亮として拷問されていても、耐え切る根性と、乗り切れると思う楽観的な気分を持っていたのである。
だが、そんな劉亮には不安な事があった。
董卓暗殺に失敗した曹操は、董卓を嫌って洛陽を脱出した袁紹を盟主に、反董卓連合軍を結成するのである。
自分が獄に送られたのは、曹操との共謀を疑われてのもの。
曹操が挙兵したなら、自分は殺されるのでなないか?
(冗談じゃない!
折角張純の乱を生き延び、運命を変えたんだ。
こんな所で死んでたまるか!)
流石に一回死んだ事から、劉亮は生への執着心だけは凄まじい。
曹操が董卓と戦う前に、どうにかして脱出しようと考える。
だが、事態は劉亮の予想外な方に転がった。
劉亮は急に牢から出され、官職復帰とはならないまでも、無罪放免で待命状態とされる。
待命という理由で、洛陽からの外出は許されず、監視はされてはいるが。
急に解放された理由、それは兄の劉備が青州牧になったからだった。
劉亮が洛陽に来る前、大軍の張純の乱の残党というか、黄巾軍残党というかの襲撃を受けた劉備は、劉亮の前世の記憶とは違って十分な兵力を有していた事もあり、これを撃破した。
そして劉亮の献策で、彼等に土地を与え、壮丁は屯田兵として自軍に組み込んだ。
この事が噂として拡がると、多くの難民が劉備が県令を勤める高徳県に押し寄せたのである。
劉備の器は、この民の海を飲み込む。
劉備は全てを受け入れた。
しかし、平時のポンコツ劉備に、これだけの人数を処理する能力は無い。
劉徳然も頑張ったが、彼の手にも余った。
それを救ったのは、これも劉亮が去り際に「礼を尽くして迎えろ」と伝えた田預であった。
田預は、老母の世話の為に幽州から出たがらず、青州の劉備の元には来なかったが、流石に事態を知ったからには座視もしなかった。
彼は劉備に献策し「手に負えない人数は、幽州で同じように屯田させれば良い」とした。
幽州ならば田預は、老母の傍を離れずに劉備を助けられる。
劉備はこれを容れ、大半を幽州に送った。
また、劉元起が劉亮の頼みを聞き、かつて劉備の祖父や父の時に一緒に仕事をした者たちを集める。
もう中年や老人であったが、それだけに経験豊富な者たちが劉備や田豫の元に駆けつけ、補佐してくれる。
こうして処理力が足りれば、劉備は難民たちに安定した生活をさせつつ、十万と号する大兵力を抱える一大軍閥に成長したのだ。
これに董卓が目をつける。
一介の県令では荷が重いと見た董卓は、劉備を一足跳びに青州牧に任じたのだ。
仮にも劉氏であった事が、名士・皇族重視の董卓にも受け入れられたのである。
劉備が青州牧に就任したとなれば、その弟たる劉亮への待遇も変わる。
元より曹操による董卓暗殺未遂については、拷問をされても関与を否定していた。
ならば董卓は、劉備を敵に回さない為にも、もし敵になるならば人質とする為にも、手元に置くのが得策だ。
曹操に加担していないなら、烏桓族との強い関わりを持った劉亮は大事にしたい男。
董卓から見て、儒学とは違う才能を持つ有能な人材。
こうして劉亮は牢屋生活から解放されたのだった。
代わりに投獄されたのが袁隗や袁基を始めとする袁氏である。
これは、ついに反董卓連合軍を立ち上げた袁紹のせい……ではない。
後将軍・袁術が董卓を裏切った為だ。
名門重視の董卓政権において袁術は特に不満の無い待遇を受けていた筈である。
なのに彼は厚遇した董卓を裏切る。
反董卓連合軍の結成の経緯を語る。
決起の檄文を作ったのは曹操でなく東郡太守の橋瑁である。
橋瑁は董卓・丁原と同じく、かつて袁紹が何進を通じて呼び寄せた群雄の一人である。
橋瑁は董卓入洛時に遠方に居た為、董卓によって帰還を命じられ、政変に巻き込まれずに済んだ。
この後に橋瑁は董卓に反発し、挙兵を呼び掛ける。
この檄文に応じたのが袁紹であった。
袁紹は彼のサロンの仲間である張邈とその弟・張超、従兄弟の袁遺、自身と同じ何進の幕僚であった鮑信らを誘って反董卓連合軍を結成する。
曹操は彼等と違って官職についていない為、私財を投じて兵を集めて参加せざるを得なかった。
こうして出来た反董卓連合軍に、発起人である橋瑁は一部将として参加する事になる。
派閥の力で袁紹に盟主の座を乗っ取られた形だ。
この反董卓の勢力拡大に袁術が危機感を覚えた。
繰り返しになるが、名門重視の董卓政権において袁術は不満なんか持っていない。
袁家のはねっ返りである袁紹が勝手にやった事、袁隗や兄の袁基はそんな意識であった。
しかし袁術は違う。
どうやら董卓政権は長続きしないだろうと考えた袁術は、官位そのままで洛陽を脱し荊州南陽に移動する。
この南陽で、長沙太守の孫堅が太守の張咨殺害をやらかしていた。
孫堅は長沙郡だけでなく、零陵や桂陽といった荊州南部の二郡にも影響力を及ぼし、州を超えた揚州廬江郡の陸康が賊に襲われた際はこれを助ける等して軍閥化として歩む。
これを咎め、軽輩の孫堅に侮辱的な態度をとった荊州刺史の王叡を殺害。
その勢いのまま張咨をも殺してしまった為、孫堅は朝廷に対する反乱者になろうとしていた。
そこに現れた袁術は、後将軍という中央の官職の威光を使い
「孫堅は反董卓連合に加わろうとしていた。
これを邪魔した王叡と張咨を殺したが、それは大義の為である」
と正当化したのである。
更に孫堅に破虜将軍代行、豫州刺史の称号を与える。
孫堅はどうやら義理堅い人物だったようで、終生この恩を感じて行動する。
こうして河北の袁紹を盟主とする連合軍の他に、南方では袁術・孫堅連合軍が活動するようになった。
董卓は殺された王叡に代わって劉表を荊州牧に任命する。
ここでも董卓の皇族重視人事が発動された。
だがこの劉表も、即座に反董卓連合に加わってしまう。
更に益州(蜀)の劉焉も董卓から離反し、招集に応じなくなった。
こうした反乱の連鎖に、今までは寛容だった董卓がついにブチ切れる。
袁紹のみならず、袁術まで反乱に加担した事で、袁隗・袁基ら洛陽に残る汝南袁氏を全て捕縛し投獄した。
特に袁術の兄である袁基への恨みは凄まじく、彼は獄中で凄まじい拷問を受ける事になる。
なにせ情報を聞き出そうとしてまだ手加減されていた劉亮の場合と違い、最初から処刑前提なので「間違って死んだらそれも良し」という酷さであった。
こうして連合軍が各地で蜂起した初平元年(190年)正月、董卓は突然
「都を長安に移す!
これは賊徒どもとは無関係に、既に考えていた事だ」
と言い出した。
朝廷は上を下への大騒動となる。
(自分の知る歴史と同じような展開で動いている。
だが、その実情は俺が読んだ歴史書の解釈とは少し違うかもしれない)
釈放され、獄中で萎えた手足を養生している劉亮は、私邸で董卓の行動原理について考えている。
また、劉亮には兄の事も気に掛かっていた。
董卓が名士・皇族重視政策で任命した兗州刺史の劉岱、荊州牧の劉表はあっさりと反董卓に身を投じた。
同じように、名士とは言い難く宗族としては末端だが、青州牧に任じられた劉備が、即反董卓連合に加わる可能性がある。
そうなると、袁氏のように自分の身も危うくなろう。
どうにか自分も洛陽を脱しないと……。
そう思っている所に、董卓から呼び出しを受ける。
時代は自分が何かを考えて行動するより早く動いているようだ。
中の人が平和ボケの国出身で、修羅場はそれなりに経験しつつも、基本的には平時の人である劉亮は、己の色んな意味での自分の「遅さ」に嫌気が差していた。
だが呼び出した董卓からは、意外な事を告げられた。
「お前はマシな兄を持ったようだ。
青州牧に任命された事への謝礼と、青州でまた反乱が起こったからお前を返してくれ、という書状が届いた。
お前を取り返す策かと思ったが、北海国相の孔融からも反乱が起こったという報告が入った。
お前を洛陽から出す訳にはいかんが、お前の兄が逆らわず、朝廷の為に反乱を鎮めているならお前の身は安泰だ」
(そこは「三国志演義」の英雄として、反董卓連合に参加するんじゃないのかい!!)
自分の身の安全の事を忘れ、劉亮の中の人は思わずツッコミを入れる。
実際、演義ではなく史実の劉備が、反董卓連合に参加したという確かな証拠は無い。
ついでに劉備と関係が良く、「演義」では善玉に描かれた公孫瓚、孔融、陶謙の三人も反董卓連合には加わっていない……。
ともあれ、当分身の安全が保障された劉亮は、長安遷都についての感想を聞かれる。
迂闊な事を話せば、また牢獄に逆戻りか、悪い場合は首が胴とおさらばするだろう。
だが劉亮は、疑問に感じていた事を聞いてみた。
「董相国は、もしかしたらこの漢を、高祖や文景の治の頃に戻したいのですか?
それならば、一連の政治は全て一本の線に繋がります。
長安遷都も、古き良き漢に戻す為のものなら、賊徒を恐れているなんて事はない、本当に仰っている前々から決めていた事だというのが理解出来ます」
董卓はしかめっ面になり
「お前の理解等求めてはおらん。
だが、お前のその読みは間違っていない。
小人たちが蠢く今の漢を、豪傑が国を束ねた古の漢に戻すのだ」
と告げた。
なるほど、前漢の蕭何が最初で、以降誰もその称号を使っていない宰相「相国」を名乗ったのも、強力な権限を持つ州牧に劉家の者を多く据えたのも、前漢回帰と見れば納得出来る。
(これが董卓の政治の芯の部分)
劉亮は合点がいった。
となると、長安遷都は覆しようが無い。
まあ、洛陽脱出を考えている劉亮は、ここで董卓に下手な事を言って睨まれたくもない。
おべっかにならないように、ならば長安遷都は好きにされれば良い、反対はしないと返す。
董卓は満足そうに頷く。
そしてまた、劉亮を悩ます事を言って来た。
「冤罪が晴れたばかりだが、その方に命じる。
小癪な賊徒どもを、烏桓兵を率いて蹴散らして来い!」
劉亮は
(戦闘なんてろくに出来ない俺に何を言ってるんだ?)
と内心頭を抱えてしまった。
※高祖の代と文景の治:
初代劉邦の時代は建国の功臣が残っていた。
粛清されつつも、後の呂氏の簒奪を許さないくらいの者が残った。
呂后時代も、司馬遷は対等の帝王扱いだったが、儒学が盛んになると女性が国を牛耳ったのを問題視して黒歴史扱いに。
呂后時代が終わり、呂氏を排して即位させられた五代皇帝文帝の頃は、気骨ある直言居士が頑張ったりした。
その次の景帝の頃から、官僚や側近が力を持ち始めるが、文帝とセットで文景の治とされる。
この頃は、「史記」に別項目が立てられるくらい、侠客の力も強かった。
要は上も下も「豪傑」が居て、佞臣とか小悪党は武力で叩き潰しちゃいましょう、って時代。
なお、劉氏の反乱である呉楚七国の乱は、景帝の小賢しい側近・鼂錯が余計な事をしたせい、という解釈も無きにしも非ず。
呉楚七国の乱も、豪傑の子である周亜父と、劉氏の王である梁王劉武が活躍して鎮圧したから、朝廷がしっかりしてれば劉氏王と豪傑が国を治めている方が良いと考える人が居ても(以下略)。




