霊帝崩御
後に諡号されて「霊帝」と呼ばれる皇帝・劉宏。
彼は後の歴史において暗君とされる。
宦官に全てを任せ、本人は売官政治で得た銭金を後宮で遊びに使い、国家を疲弊させたダメ皇帝。
それは事実だから否定は出来ない。
しかし二十歳にもならない時期の話であり、特に黄巾の乱が起きた辺りからは、物事をしっかり考えられるようになる。
霊帝の政治で、まず刺史よりも強い権限を持つ州牧を置いた事が業績の一つであろう。
これは劉焉という宗族の勧めによる。
度重なる地方の反乱で、刺史は太守に協力を依頼はしても、命令までは出来ない。
だったら単なる監察官ではなく、指揮権を持った在地の責任者を置いた方が良い。
一々中郎将を中央から派遣し、その下に在地の武将を集めて軍を編成するよりも、最初から現地軍を抱える指揮官を置いた方が良い。
刺史と仕事が重なるのなら、刺史の代わりに州牧がその任に当たる。
まあ州牧を必要としない安定した地域もあった為、全ての州で牧が任命される訳ではない。
州牧はある意味公認軍閥の道を切り拓くものである。
それに対して霊帝は、皇帝直轄軍の強化という施策で対応する。
それが西園軍であり、その指揮官たちを「西園八校尉」と呼んだ。
西園八校尉には虎賁中郎将の袁紹、議郎の曹操という名が見える。
この西園軍が、地方軍閥になりそうな州牧に対して睨みを利かせるのだ。
さらに霊帝は、郡太守は州牧と同格の存在とした。
どちらも皇帝により親任される。
州牧が朝廷の意向に沿って行動する場合、郡太守はその指揮下に入る。
しかし州牧が朝廷に逆らった場合、郡太守は対抗勢力となるのだ。
完全に州牧・郡太守もしくは国相・県令の序列で、人事も上位者に任せると、完全に独立勢力を作ってしまう。
この辺り、霊帝にはバランス感覚があった。
そしてこの軍事改革に、霊帝は自分が貯め込んだ資金を吐き出している。
それでもこれは「対症療法の名人」と言うレベルのもので、決して「名医」ではない。
地方から税として大金を巻き上げず、没落した農民が豪族の下に入ったり、そうでなければ盗賊になったりするような政治を改めれば軍事改革自体必要無かったのだ。
更に相変わらず張譲・趙忠を重用し、西園八校尉の指揮官である上軍校尉には蹇碩と、宦官を信用していた。
近衛の兵団長に任命されていた袁紹はじめ、士大夫たちからの評価は相変わらず低いままである。
こんな霊帝だが、軍事改革から僅か一年後に崩御したのである。
後漢の皇帝は総じて短命だが、それでも急な事であった。
死因は病気。
後継者を定めないままの突然死である。
病気の内容までは分からない。
長い間床に臥せっていたなら後継者を決める時間はあっただろう。
一方で心臓麻痺のような突然死なら、史書のどこかに毒殺を疑うような記述が残る。
もしかしたら脳卒中のようなもので、倒れてしばらく生きてはいたものの、喋れるような状態ではなく、一言も無いまま死んだのではないだろうか。
こうして霊帝崩御に伴い、後継者争いが、後継者たちの外部で始まる。
弁皇子を立てる生母・何皇后と兄で大将軍・何進。
協皇子を立てる祖母・董太后と甥で驃騎将軍・董重。
これに十常侍も絡み、再び外戚の争いと宦官の政争が始まった。
結末は何進・何皇后陣営の勝利。
董重は何進の軍勢に包囲され捕縛、その後は自殺。
董太后は何皇后に宮廷を追放され、その後に急死。
董氏に加担していた西園上軍校尉の蹇碩も、何進によって殺されてしまう。
袁紹により反宦官派に取り込まれていた何進だったが、その権力の根源たる妹の何皇后改め何太后は、自分の子を皇帝に出来たのならそれで十分、自分の世話係である宦官まで排除する気は無かった。
こうして妹の制止により、何進とそれを実質的に操る袁紹は、後継者争いにかこつけての宦官殺戮には失敗する。
袁紹の同志には、一族内でのライバル関係であった袁術、劉備・劉亮の師である盧植、そして曹操も加わっている。
蹇碩は同じ宦官からも見捨てられていた。
蹇碩による何進暗殺計画は身内から密告されたりしていた。
そんな訳で張譲たち宦官は、有力外戚である何進を説得して共存しようとした。
そして元々は宦官と共存していた何進は、争いに及び腰になる。
この何進の態度に、袁紹は各地の武将を呼び寄せて、軍事的優勢を作った上で改めて何進に宦官排斥を迫ろうとする。
袁紹は「大将軍」の命でこれら武将を集めた。
そして宦官たちは、何進が自分たちの説得を聞かずに攻撃を仕掛けて来るものと見て、宮中において何進を暗殺する。
何進暗殺を見た袁紹は、呼び寄せた地方の武将の一人・元并州刺史の丁原らと共に宦官殺戮を実行する。
袁術は何太后の身柄を確保し、袁紹と盧植は趙忠を斬った。
しかし張譲は皇帝と、皇弟である陳留王劉協を連れて洛陽を脱出。
盧植はこれを追撃し、張譲と同じく宦官の段珪らは逃げ切れぬとして入水自殺。
皇族二人は城外で迷子となってしまう。
それを洛陽郊外に駐屯していた、呼び寄せられた武将の一人・董卓が見つけ、皇族二人は董卓に保護されながら洛陽に帰還となった。
董卓の軍勢はこの時、わずか三千しかいなかった。
無理もない。
董卓は并州牧に任命されたり、その前には少府として洛陽で官僚勤めをするように命じられたりしたが、これを断って涼州に駐屯し続けていた。
その為、彼は公的に軍勢を動かす権限を持っておらず、動かせたのは私兵だけだった。
そこで上洛後の董卓は数々の詐術を使う。
三千の内、二千の兵を夜間密かに城外に出し、翌朝堂々と入城させる。
これを繰り返して「董卓の兵力はどれだけいるんだ?」と周囲を驚かせた。
これにより、主を失った何進の兵士たちは董卓軍に加わっていく。
何進には弟の何苗がいた。
何苗は何進と違って宦官との共存派であった。
この何苗が何氏の兵力の残り半分を握っている。
そこで董卓は、何進の部下の呉匡らを使い
「何進将軍を殺害したのは何苗である。
その復讐をするものはおらぬか」
と言って何苗を殺した。
何苗殺害は袁紹によるものと史書には記されているが、実行犯の中に董卓の弟の董旻の名がある事からも、董卓の関与は疑われる。
実際この事件で一番の利益を受けたのは董卓で、董旻が呉匡らを追放する事で何苗の兵力も吸収する事に成功する。
そして董卓の軍事的対抗勢力である、「地方から呼び寄せられた武将」。
東郡太守の橋瑁は洛陽から遠かったので、そのまま任地に帰還させた。
残るは既に洛陽入りしている元并州刺史で執金吾の丁原。
董卓の軍の強みは、涼州で鍛えた騎馬軍団である。
それと同じものを并州刺史だった丁原も持っていた。
そして執金吾とは宮中の警備役。
この男が居ては董卓は目的を達成出来ない。
暗殺を試みると、一人の文官によって阻止される。
その男、主簿(会計係)を勤める呂布は恐ろしく強く、丁原の護衛も勤めていた。
失敗から呂布の存在を知った董卓は、呂布にこう語りかける。
「お前、主簿なんて柄じゃないだろ。
お前こそ騎都尉を勤めるべきだ。
丁原は執金吾なんて役に就いているから、軍はお前が握っているんだろ?
だったら丁原を殺して、その軍ごと儂の配下になれば、お前が丁原が以前就いていた騎都尉になれるぞ」
この呼びかけに応じた呂布が丁原を切り、全軍で董卓の配下となった。
これで董卓は、洛陽に居た何進・何苗・丁原の軍全てを我が物として、首都における唯一の軍事力行使者となる。
袁紹たちは宦官を殺戮するに必要な兵以外を持っていなかったので、主導権を董卓に渡さざるを得なかった。
こうして董卓が朝政を牛耳る時代がやって来た。
こうした中央の政変を詳しく知らせる仲間からの手紙よりも先に、劉亮には朝廷からの使者がやって来た。
「劉亮、その方を騎都尉、烏桓突騎に任命する。
ただちに洛陽に出仕せよ」
劉亮は事態が呑み込めていない。
幽州・冀州・青州は張純の乱の後始末でてんてこ舞いであった。
幽州牧の劉虞が烏桓族や鮮卑族との関係を修復し、侵攻を無くした事によって、この一帯は復旧フェーズに入っていた。
劉亮は個人的に多忙であり、中央の事を気にしていられない。
勝手に結婚したのである。
それも相手は異民族。
その上、劉亮よりも巨大な娘。
それを母親はじめ、一族の者に報告して最終的な許可を得なければならない。
劉備は県尉となった高唐県での仕事で忙しく、手紙を書いただけ。
最初は
「俺が出張って説得する」
と言っていたが、県令への昇進込みでの任命である為、劉亮含む全員から
「今は仕事に専念してくれ!」
と言われ、渋々引き下がった「平時のポンコツ」である。
そして劉備が直接説得に来なかった事で、劉亮は一族から総攻撃を食らっていた。
劉亮の中の人は、こういう交渉事には慣れている。
(まあ、前世で一回経験しているからな。
娘さんを僕に下さい!ってやつ。
上司からの紹介とはいえ、あの時は緊張したなぁ。
まあその時に比べたら、この世界では緊張しない。
第一、最大の難関である舅を既にクリアしているんだ。
一族はまだ話が通じるし)
劉亮は涼しい顔で対応する。
まず一族で一番力を持つ劉元起をどうにかこうにか説得した。
劉家の為になるという事、今更無効にすれば激怒した烏桓族が涿郡に押し寄せるだろう事、自分は既に一度烏桓の虜囚となったから死んだものと思えば結婚相手なんか気にしなくて良い事。
「宮城にも匈奴や羌族から貢がれた女が収められておりましょう?
その娘を下賜されたなら、異族だと言って断れますか?」
色々と説明し、烏桓の大人の婿である事の益を説く。
まず劉元起が承認してくれた。
その後は劉元起からもフォローして貰いながら、一族を説得していく。
最後まで反対したのは母親であったが
「我が家を継ぐのは玄徳兄でしょ。
弟の私はそれを支える役回り。
ならば、烏桓の大人の娘を娶る事は、兄にとって有利な筈です。
劉家と他家との縁は玄徳兄で十分です。
私はおまけです」
と言って、渋々了承させた。
了承というか、「勝手にしろ、その娘を私は劉家の嫁と認めないが、お前が傍に置く分には何も言わない」といった感じだが。
それが終わって高唐県に戻ると、またひと事件が発生する。
再び黄巾軍が現れ、劉備を襲撃して来たのである。
東方は実にバタバタしていたのであった。
おまけ:
劉家の親族会議が開かれた。
劉元起「簡家の方に年頃の娘は居らんか?
叔朗が仕出かした事を思うと、早く倅には嫁を取らさんと」
劉子敬(劉展の父)「うちの所もそうだ。
どうにかしないと。
義姉上、どうですか?」
劉備母「一人居たけど、既に玄徳の元に行ってしまって……。
あとはもう少し待たないと」
歴史が変わったから良いものの、劉氏独身が多過ぎ。
歴史通りの展開では、劉備以外は系統全滅していたので、早くどうにかしないと今でも危険。
曹操なんか十六歳の頃には子を産ませていたのに……。




