変わる運命
劉亮の中の人は、前世に読んだ「劉亮叔朗」の数少ない記録から、死ぬ時期と原因を覚えていた。
これまでどうにかして、その運命を変えようと必死にもがいて来た。
死ぬ場面である田野の戦い、その背景である張純の乱。
張純の乱において、張純の支援者となっていた烏桓族の大人・丘力居を味方どころか舅にしてしまい、自分は青州の戦場に戻らなくても良くなった。
この時点で劉亮の運命は変わったと言える。
だが、歴史が変わったとは言い切れない。
やはり田野の戦いで劉備が敗れ、劉亮以外の幽州劉氏が全滅してしまえば、劉備は史実通りの一族の支援が無い一介の傭兵隊長としてこの先の歴史に躍り出る事になる。
これは一族の助けがあった曹操や孫権に比べて、著しい不利とも言える。
また劉亮自身も、北で死んだりしたら、結局同じ事である。
彼は注意深く、この張純の乱の推移を見守る。
幽州の陣に戻った劉展は、彼なりに頭を使ったのだろう
「叔朗兄は人質として連れて行かれた。
でも取引そのものは成功し、これだけの馬と、馬に乗った兵士を味方につけられた」
と説明する。
これは中郎将の孟益と都督行事の公孫瓚には嬉しい戦力増強であった。
劉展も一人で数百頭の馬を連れては来られない。
劉亮が交渉し、これまで烏桓族に拉致された漢人の中から、健康な壮丁を解放して馬上兵として連れ帰ったのである。
領民奪還は大手柄と言えよう。
「劉亮殿の活躍見事である。
自らと引き換えに民を救うとは実に立派だ。
いずれ彼の解放交渉もせねばなるまい」
「叔朗、済まぬ。
同郷の者たちを解放する引き換えに、お前が人質となったのだな」
孟益と公孫瓚がそれぞれに劉亮への思いを吐露する中、
(言えないよなあ。
烏桓の首領に気に入られて、娘婿になってしまったとかさぁ)
劉展は複雑な思いを胸にしまっていた。
やがて青州の劉備の陣に帰還。
劉備は劉展が帰還するまで、無駄な戦闘を避けていたのだった。
「徳公(劉展)よく戻って来た。
叔朗はどうした?
まさか、死んではいないだろうな?」
身内に囲まれ、ここでやっと劉展は胸にしまっていた思いをぶちまける。
「意味分かんねえ!
叔朗兄は勝手に嫁を決めて、烏桓の中に残ってしまった。
婚儀は大事じゃね?
なにあの人、玄徳兄にも言わずに勝手に決めてんの?
一族だって文句言うに決まってんじゃん!
烏桓族だよ、烏桓!
馬に乗って動き回り、農業もせず奪うだけの生活の野蛮人だよ。
その娘の中から、美人じゃなくて関羽さん並にデカい女を選んだんだよ。
目は細いし、腕だって男並に太い。
背丈は一丈(180cm)以上あるんじゃないか?
そんな化け物女を嫁に選ぶか?
隣には小柄で痩せて腰回りが綺麗な美女が居たのにさ!
本当に、あの人意味分かんねえ」
劉備も最初、何が何だか分からなかった。
だが劉展の愚痴を聞いている内に、何となく理解したようだ。
「大体分かった。
叔朗の好きにさせよう。
一族への説明は俺がするわ」
「は?
なんで?
玄徳兄はそれで良いの?」
不満そうな劉展に、劉備が説明をする。
「烏桓族は漢人を信じてないんだろ。
お前、烏桓の大人がそう言ってるって、叔朗から聞いたんだよね。
だから叔朗は、烏桓の家族になって信用させたって訳だ。
だからお前は馬と人質を連れ帰れたし、一旦烏桓は北に戻ったんだろ。
家族だから言う事を聞いてくれた。
あいつは立派だよ」
その言を補足するように知識人の張飛が
「漢の主上たちも、かつては匈奴に女性を嫁がせて融和をしていましたな。
呼韓邪単于に嫁いだ昭君とかが居ますな」
後の時代に王昭君と呼ばれる、古代中国四大美人の一人を引き合いに出す。
だがすかさず関羽が
「中行説のようにならねば良いですな」
と、匈奴に嫁ぐ皇女の随行だった宦官の名を挙げた。
中行説は漢の朝廷に激しい恨みを抱き、
「必ずや、私は漢にとって災いを為す者になるであろう」
と言い残して老上単于に仕え、度々漢への侵略を進言したと言う。
その後、関羽と張飛がああだ、こうだと議論を始めた為、頭が悪い劉展は毒気を抜かれてしまった。
「で、叔朗から何か預かってないか?」
場を辞そうとした劉展に劉備が尋ねる。
「あ、そうだ。
これを預かっていたんだ」
「だろう?
叔朗が俺に何の伝言も残さないとは思えんかったからな」
「伝言で思い出した。
『戦闘において烏桓族を含む敵に苦戦した時は、これを掲げよ。
それで我々劉一族の運命が変わる』
だそうですが、何の事やら」
「フフフ……、叔朗の奴、その為に行ったようだな。
何がどうなって俺たち劉氏の運命が変わるかは分からないが、きっとあいつにしか見えない何かが有ったんだろう。
確かに預かった。
この旗の中にある書状……?……も含めてな」
劉備が言葉を言い淀んだのは、それは手「紙」では無かったからだ。
羊の皮をなめしたものに、消し炭でゴリゴリ書いた文字が記されていた。
劉亮の字は読むに耐えない。
だがそれは、多分に毛筆と竹簡にも原因がある。
硬筆で字を書けば、まだ読めるのだ。
格調高い字とは言い難いが。
劉備は羊皮紙のようなものに書かれた黒炭から、その旗の意味と使い方を知る。
そして運命の日。
劉備の軍勢千五百は、張純配下の程遠志・鄧茂の軍勢と相対する。
敵勢は約五千。
まずもって勝ち目が無い。
誰もが撤退を考える。
しかし敵勢には多数の烏桓兵が見えた。
騎乗に秀でた烏桓の前に、中華の騎兵は余りに弱体である。
歩兵もそうだ。
勝つには、かつての趙の名将・李牧がしたように伏兵を使うとか、前漢の名将・霍去病がやったように自らも騎兵となり、かつ相手よりも大軍となる、或いは同じく前漢の李陵のように戦車を並べて防御壁を築き、そこから弩で防戦する、とかになろう。
劉備軍にはそれらの全てが欠けている。
その上、敵の本隊は烏桓兵ではなく、れっきとした漢人であった。
勝てる要素は無い。
劉備の選択は関係無く、程遠志・鄧茂の方から襲い掛かって来た。
張飛が防戦を指揮し、関羽が騎馬隊を出撃させて側面攻撃に移る。
しかしこの軍は、今まで劉備が戦って来た軍よりずっと強い。
黄巾軍の場合、士気が高くても装備が貧弱だったり、まともな指揮官に率いられてなかったりした。
だがこの軍は違っていて、元太守級が支給したきちんとした軍装、将も二人居るし、何より騎兵が充実している。
関羽の側面攻撃に対し、彼等も烏桓騎兵を出して迎撃して来た。
関羽たち塩密売人の護衛上がりは、それなりに騎馬戦を出来る。
しかし本職というか生活の一部が騎乗の遊牧民族には到底かなわない。
関羽は奮戦するも打ち破られて、突破した敵兵が迫って来た。
正面で迎撃を指揮する張飛も、数の差に苦戦を強いられている。
経験を積んで、戦場での指揮能力が上がっていた劉備ではあるが、今回は相手の方が上であった。
劉備は基本的に座学での勉強は嫌いである。
兵法は習ったには習ったが、今までは実戦で指揮能力を高めて来た。
曹操のように勝つべき戦術を知っていて、状況に応じて知識を引っ張り出すタイプではない。
経験によって引き出しの数を増やして来た、叩き上げの人物である。
だから、相手の方が上手ならば手も足も出ない。
格上の相手と戦う方法を知らない。
一度経験すれば、格上相手でも粘る戦い方が出来るのだろうが、今回は初めてであった。
(使うのはここしか無いよなあ)
張飛の防戦が間も無く破綻、関羽を撃破した烏桓兵が矢を射掛け始めた時、劉備は弟から預かった旗を簡雍に言って掲げて見せた。
不利な状況、恐慌状態に陥っても仕方ない場面で、劉備はまだ冷静であった。
振られる鳥の意匠が施された軍旗。
すると、これまで劉備軍の周囲を回りながら矢を放っていた烏桓兵たちが、指揮官の声に反応して攻撃を止めて集まり始める。
もう張飛の前線がもたない。
その時、烏桓兵たちが程遠志・鄧茂軍の方に攻撃を加え始めた。
「おのれ、裏切ったか!」
「これだから胡どもは信用ならない」
敵陣からそういう罵声が聞こえる。
だがそれ以上に、突然の寝返りに恐慌状態に陥る兵の方が多かった。
勝利を確信した瞬間の、突然の裏切りと奇襲攻撃。
混乱しない方がおかしい。
その旗は、烏桓大人丘力居の将旗であった。
更に旗につけられていた幟のようなものは
『攻めろ』
という命令を示すもの。
烏桓兵たちは首領の旗を確認すると、どうするか考えた挙句、旗の無い方を攻める事にしたのだ。
丘力居から各地に派遣された部隊に、劉備を助けろという指示が出ていた訳ではない。
旗だって見落としたり、無視される可能性もあった。
だが劉亮はこれに賭けた。
その賭けに勝利したようだ。
この戦場を、どこか他人事のように冷静に見ていた男・劉備が状況を呑み込めない張飛に命じる。
「さあ、立て直してこっちから押し出すぞ。
張さん、腕の見せ所だぞ」
「お、おお!」
冷静さを取り戻した張飛は、副将である傅士仁と共に戦列を整えると、防戦から一転して攻勢に出た。
遠くでは、散り散りになった騎馬隊を関羽が立て直して、再攻撃に移ろうとしている。
「関さん、騎馬隊はこっちの味方になったからね。
彼等を攻撃したらダメだぞ!」
大声で呼び掛ける劉備に
(それくらいは理解している)
と内心悪態をつく関羽であったが、
(一体どうやって烏桓兵を寝返らせたのか?)
と劉備の底の見えなさに若干の恐怖も感じていた。
負け戦を一手でひっくり返したのだから。
「徳然、大丈夫か?」
寝返る直前まで、烏桓兵が降らせていた矢に当たった劉徳然が倒れている。
「大丈夫だな。
これなら死なない」
「……簡単に言ってくれる……」
「いやいや、お前さん従兄弟なんだし、死んで欲しくないから気に掛けてるんだぜ。
矢傷は深いけど、死ななそうだから安心してるんだよ。
徳公!
徳然を安全な場所に連れていって、傷の手当をしてくれ」
「分かった、玄徳兄!」
かくして田野の戦いは劉備の逆転勝利で終わる。
青州の張純軍は、青州刺史の龔景とぶつかって一進一退の攻防を繰り返すも、程遠志・鄧茂が敗れた事を知ると士気が失われ、敗走する事になる。
劉備はこの戦いの功により、高唐県の尉に任じられた。
今度は「ちゃんと勤め上げたら、県令に昇格させる」という約束付きで。
かくして幽州劉氏の運命は変わった。
北方に居る劉亮だけでなく、劉展・劉徳然という従兄弟たちが生き残り、以降も劉備を支える事になる。
これがどういう風に歴史を変えるか、今はまだ分からない。
当時、鐙が無かったので、騎乗している者は騎射とか投槍での攻撃が主でした。
大刀とか槍を使って、当てた時の衝撃で落馬する危険性があり、騎馬突撃とか無理でした。
あの呂布も、得意なのは騎射ですしね。
しかし、匈奴とか鮮卑とか烏桓とかは乗馬技術が高いので、裸馬を足で締めながら、刀とか槍を普通に使います。
こいつらはこいつらで、鐙が必要無かった訳で。
だから、漢人の騎兵と北方民族の騎兵が戦ったら、漢人はまず勝てません。
まあ、個人レベルでは騎乗しての一騎打ち可能な人も居たと思います。
と、書いておいていきなり話を覆しますが、鐙は無かった訳ではありません。
鞍の片側に着いていて、乗り降りする際のステップとして使っていました。
これが両側に着いて、馬上で踏ん張る事に使うようになるのは南北朝時代からのようです。
だから三国志の兵法は、春秋時代以来の戦車戦がまだ残っていて、唐の兵法はしっかりした騎兵戦術が有りました。
唐の李靖(騎兵使って騎馬民族叩きのめした名将)が曹操の「兵書節要」を読んで
「古臭いから今の時代に合わない」
って言ったのはそのせい。
(まあ「兵書節要」も唐初期まで兵法の初歩テキストとして使われるくらい出来が良い教科書でしたが)
19時にもう1話アップします。
明日に持ち越す話ではないので。
 




