運命を変える切り札
----【田野の戦い】----
187年に、かつての中山郡太守張純が、後漢の太尉・車騎将軍の張温の対応に不満を持って、同郷の張挙と共に烏桓の大人(単于)の丘力居を後ろ盾に反乱を起こした。
これを鎮圧するために青州刺史の龔景は自ら張純討伐に向かった。
その途中で平原郡の土豪の劉平が龔景に目通りして、かつての黄巾の乱で活躍した劉備を部将として推薦した。
龔景は劉備を呼び出し、その資質を認め部下とした。
こうして再び、劉備は関羽・張飛らを率いて出陣、劉亮ら親族も従軍した。
だが劉備は青州田野県で張挙配下の程遠志と鄧茂の軍勢に遭遇して惨敗、負傷した為死んだふりをしながら、命からがら脱出する。
しかし、この戦いで劉亮・劉展・劉徳然ら一族衆は戦死した。
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劉亮の中の人は、今まで大きな変化無く、この運命に向かって自分が導かれているように感じていた。
劉備が洛陽留学していようが、自分が董卓・袁紹・曹操に認められていようが、霊帝が実は暗君ではなかろうが、それは大局的な歴史の流れの中では些事である。
自分の運命においても、どこぞの青狸型ロボットと未来から来た少年が語ったように
「途中経路は違っても、同じ場所に辿り着く」
ような感じである。
(だが、俺はもう死ぬのは真っ平だ)
劉亮はその為の布石をして来たつもりだ。
それをこれから回収しよう。
「兄者、少し話がある」
劉亮は劉備に自分の策を提案した。
「この乱は、張純の同盟軍に烏桓族が居るから強気になれている。
だから烏桓族を離反させれば、相手は一気に弱体化する。
私は烏桓族大人の丘力居と……」
「よし、叔朗の思ったようにしろ」
話を全部聞かない内に劉備は、劉亮に一任すると言い出した。
「最後まで話を聞かなくて……」
「いいんだよ。
お前さんがやりたいようにやりな。
もし上が何か言って来たら、その時は俺がどうにかするから」
(この辺、器がデカいというか、鷹揚と言うか……)
ともあれ劉備の許可を得て劉亮は、護衛に劉展を付けて貰い幽州に入る。
(頼むから、俺が戻るまで「田野の戦い」はしないでくれよ)
そう願いながら北上していたが、肝心の烏桓族の居場所が分からない。
はっきり言って、神出鬼没な騎馬民族なので、襲撃されたという情報から日が経ってしまえば所在が読めないのだ。
襲われた場所と、その時系列が分かれば、大体の予想は出来るのだが。
(ここは幽州の司令部を訪ねるのがベストだ)
だが幽州の総司令官・孟益の帷幕を訪ねた劉亮は、思わぬ事態に直面する。
「烏桓との交渉等無意味だ!
奴等は武力をもって叩き潰すまでだ!」
公孫瓚が猛反発をして来たのである。
公孫瓚は、黄巾の乱以前から鮮卑族や烏桓族と戦っていた。
張純の乱とは無関係に、丘力居は漢朝を見限って、度々国境を超えて郡県を荒し回っていたのだ。
公孫瓚が遼東国長史だった時、長城の外を数十騎で警戒行動していた際に、烏桓兵数百騎と遭遇があった。
公孫瓚は監視塔である亭に登り、弓で烏桓兵の最初の突撃を食い止めた後、逆に突撃を掛けて押し返した後に、反転脱出して戦いをした。
この戦いで公孫瓚は生き残ったものの、兵の半数を失う苦い思いをしている。
こういう経緯もあって公孫瓚は、北方民族の事を嫌っていた。
そして劉亮が烏桓に接触する事を訝しむと共に妨害して来る。
(これは丘力居の前に公孫瓚をどうにかしないと先に進めないな)
劉亮の中の人は、案外こういう事には慣れていた。
あちらを立てればこちらが立たず。
時には相手よりも、身内の上司の方が面倒臭かったりした。
(公孫瓚の上司である孟益を動かすのは最終手段にしよう)
上司の上司に話を通して黙らせるのは楽な方法である。
しかしこれをやられると、相手はずっと根に持ってしまう。
チクチク嫌がらせをして来たりで厄介だ。
男のメンツを潰すと、後々まで響くのだ。
であるなら、公孫瓚が納得し、協力する事で利を得るようにするのが良策であろう。
「都督行事殿は烏桓を戦いで打ち破る事をお望みですな」
「無論だ」
「都督行事殿は騎馬の者を歩兵や戦車で打ち破ると仰いますな」
「出来ぬ事はあるまい。
代々我々はそのように戦って来たのだ。
まあ、我等は騎乗しての戦いが出来るから、それで奴等を打ち破る」
「都督行事殿は憎き烏桓の戦いを真似ながら、烏桓を打ち破ると仰るのですな」
「……劉叔朗」
「何でしょうか、都督行事殿」
「ムカつく厭味な言い方を止めろ。
何が言いたい?
同じ盧植先生門下であろう。
話を聞いてやるから、ちゃんと話せ」
わざとらしい言い方にイラつきながら、公孫瓚がそう言った。
「分かりました」
議論を端から拒否している者に「話を聞く」と言わせる事が出来た。
最初のハードルは超えられたようだ。
劉亮は話に半分嘘を混ぜ込む。
こういう時、全部が嘘だと見破られるだろう。
だから真実を多めにして、さらっと嘘を加えるのがペテン師のテクニックである。
「我々は烏桓から馬を買おうとしています」
「それで?」
「買った馬を戦力に加えます」
「お前の知り合いに、青州の馬商人が居た筈だ。
そこから貰うのでは足りぬのか?」
「馬の数で話すなら十分足ります。
しかしそれでは敵の弱体化が出来ません」
「ほお?」
公孫瓚が食い気味になって来た。
「敵から馬を購入すれば、その分だけ敵の戦力が低下します。
孫子でしたか、『知将は敵に食む』というもの。
相手の武器である馬を、こちらの力に換え、同時に相手を弱体化させるのです」
公孫瓚はしばし考え込んだ。
そして
「今、戦っている相手がそんな事をする筈がない。
どういう勝算があって、そのような事を言っている?」
そう反論して来た。
劉亮は、劉虞が幽州刺史だった時に烏桓族の大人・丘力居と会っていた。
まずその事を前提として話し、下交渉の際に見聞きした事として話を始めた。
「彼等はそこに利があるから動くのです。
大義の為に行動はしていません。
略奪をすれば生活が潤うからやって来るのです。
それは一見、首領の元で纏まっているように見えても、個々で勝手に動いているのです。
統一された集団ではなく、個々の集落がたまたま同じ事をしているだけに過ぎないのです。
まあ、大体の抑えは効いていますし、それでなければ単于は勤まらないでしょう。
しかし目が届かなければ、首領が停止命令を出していても略奪をしますし、利があると思えば敵とも取引をします。
単于や大人が取引に応じなくとも、利を見せれば必ず取引をする集団が出ます」
「うむ」
公孫瓚は半分は自分が求めていた、「下等な」相手の所業を聞いて頷いている。
「先程は個々の集団が理念無く、場当たり的に動くと話しました。
これは単于や大人とて同じです。
その時点で有利と見れば、簡単に敵と通じ、味方を裏切ります。
味方に付けられずとも、張純たちと烏桓を離間させるのは容易いのです。
一時的なものなら特にです。
何故なら、遊牧民とは都合によって離反しても、都合が変わればまた簡単に手を組みます。
それを一々恨みには思わないし、恥じる事も無い。
それが草原の掟、草原での生き方。
我々漢人で言う信義は無く、同盟なんてその程度のものなのです」
これは嘘ではない。
遊牧民の巨大な集団は、大体の命令は聞くが細かい統制までは取れていない。
某集団が鮮卑族から離れて匈奴に入った後、烏桓に鞍替えする等頻繁な事だ。
単于や大人といった首領たちも、一々そんな事を気にしていない。
草原の掟で、勢力が強い方に靡くのは当たり前の事なのだ。
それは集団としては大きなものである「〇〇族」自体にも当てはまる。
その時勢力が強い匈奴だったり鮮卑だったりに、部族ごと従うのは恥ではないし、勢力が弱まったら離脱・攻撃だってあり得る。
そんなだから、張純如きの為に信義を守って敵とは一切交渉しないなんて事はほぼ無いと言える。
常に利のある方に動くのだから。
「なるほど、実に浅ましい連中よ。
だがそれだからこそ、馬を買い物を与えるという利を見せ、張純と組む事の不利を語り、両者を離反させようと言うのだな」
公孫瓚の、思った通りの反応に劉亮は内心でほくそ笑みながら
「流石は伯珪兄、ご明察です。
ただ、私も張純との離間が上手くいくとは考えていません。
馬をとにかく買って、馬の補充をさせに北に追い返し、結果として両者を裂こうと考えています。
それが一時的なものでも、その間に勝てば良いのですから」
「……なるほど、君の言う事は理解した。
だが、すぐに承知とも言えぬ。
しばし待っていてくれぬか」
(この反応だと、ほぼ許可が出たも同然だ)
そう読みながら、
「ご指示に従います」
と礼を以て答えた。
表向き劉亮叔朗は礼法を学び、温厚で真面目な人物なのだ。
そして中の人は前世の経験から交渉「だけ」は得意である。
相手を急かして不機嫌にさせたりはしない。
「貴殿が下密県丞劉備の弟か」
公孫瓚の上司である中郎将の孟益がやって来て誰何した。
まあ質問ではなく、確認作業である。
「はっ」
正しくは下密県「元」丞なのだが、一々訂正はしない。
「劉亮と言ったな。
これが烏桓どもが荒した城市を纏めたものだ。
この記録があれば良いか?」
「はっ。
ありがとうございます」
「礼には及ばん。
張純と烏桓の離間、そう上手くはいかぬだろうが、馬の調達は我等も望むところ。
馬を得る事を最大の使命と心得よ」
「はっ」
「得た馬は、我等の陣に置いていけ」
「は?」
「それが烏桓と接触を許す条件じゃ。
なあに、貴殿たちが戦う青州まで連れていくのも面倒であろう。
ここで有効利用する。
それで良いな」
(計算通り!)
劉亮の中の人は、心の中でガッツポーズをしまくっていた。
公孫瓚が言ったように、劉備の後ろ盾は馬商人である。
馬に困ってはいない。
だから、幽州に馬を置いていったって、軍事的には大した影響は無いのだ。
もしも彼等が言い出さなかったら、こちらから進言しただろう。
(公孫瓚といえば、この数年後「白馬義従」という騎馬隊を作るだろう。
騎馬民族と戦う上でも馬は必要だろう。
だから、馬があれば公孫瓚はこちらに協力すると計算した。
自分の物を得られない出費は痛いが、俺の本来の目的は馬ではないからな)
この後の自分の生命に比べれば、買って来た馬を全て奪われたって安い買い物である。
こうして劉亮は、幽州の官軍の公認の元、漢土を荒しまくる敵・烏桓族の元に旅立つのであった。
おまけ:
公孫瓚、かなり対烏桓や対鮮卑でキャリア重ねてます。
そして味方が続いて来ないから敵地で孤立したりしてます。
涿県県令になる前から戦って来たので、対北方民族強硬派になるのは仕方ないです。
……丘力居もかなり暴虐でしたし。
(あんだけ酷いのに、特定の人には懐くのが不思議)
おまけの2:
田野の戦いについて、某サイトから引用したのですが、そのリンクを貼って良いか分かりませんでした。
出典を書けというコメントがあったのですが、書籍ではなかったので、書いて良かったものか……。
とりあえずそっくりそのままの箇所は改変して、引用ではなくしました。




