劉亮と袁紹
歴史書というのはダイジェストである。
余程の者でなければ、記録に名が出ては来ない。
洛陽における、現政界への不満を持つ者たちのグループ。
そこに属していた者たち全ての名簿は分からない。
だから劉亮が、実はこのグループに属していたとしても、中の人の前世の記憶通り、あと数年後に死亡して歴史から消えたのなら、後世に伝わる歴史書には残らないのだ。
劉亮は、兄の劉備が宦官派とされる督郵を棒打して遁走、本人はそれに連座して郎の座を追われた事から、かえって名が知られるようになっていた。
ある意味とばっちりを食った形である。
本人は穏やかに、自分が生き残るくらいに歴史を変える事を考える小心者なのだが、何故か「世を一緒に正すだけの大志を持った人物」として扱われるようになった。
従兄弟の劉徳然は、そういう名士としての扱いが嬉しいようで、積極的に顔を出している。
劉亮と劉徳然が招かれたのは、袁紹の派閥であった。
現政権批判グループも一枚岩ではない。
復権なった清流派人士が集うグループだけでも二つある。
袁紹の派閥と袁術の派閥である。
これは彼等の先祖のお陰と言えよう。
袁紹・袁術の祖先・袁安は、清流派人士の憧れの人物である。
官吏として公明正大であった他、後漢を揺るがす外戚とも対立し、正義を貫いたからである。
皇帝の正妻、もしくは生母の家系「外戚」は、宦官よりも危険な存在と言えた。
実際に前漢は外戚の王莽によって滅亡している。
後漢でも第四代和帝の代の竇氏、第六代安帝の代の鄧氏、第八代順帝の代の閻氏、そして沖帝・質帝・桓帝という三代に渡って梁氏が専横した。
これらの外戚は宦官によって倒されている。
これが士大夫には悔しい。
だから和帝の時に竇氏を激しく弾劾し、自身は名声故に害される事も無く生涯を終えた袁安は、士大夫層の目指すべき姿とされたのだ。
その後、四代に渡って三公を排出した名門・汝南袁氏から、この時代には二人の英傑が出ている。
まずは袁術を語ろう。
彼は袁家嫡流の次男である。
年の離れた兄の袁基は既に朝廷の重臣、袁術はその影響力を背景に、自由気ままな生き方をしていた。
若い時は侠客のような振る舞いし、成長してはそれを改め、孝行で公正な人物という評を受けている。
名門の御曹司だけあり、傲岸不遜な部分も持っているが、一方で仲間になった者へは気前が良かった。
長じた袁術も河南尹、折衝校尉、そして虎賁中郎将と政府の役職を相次いで勤めていた。
もう一方の袁紹は、袁術の従兄にあたる。
庶流にあたるが、父の袁成が宦官と手を組まずに生涯を終えた事で、その評判をも引き継いだ。
父亡き後は、袁術の父・袁逢らによって引き取られて育てられる。
だから袁術と袁紹は幼い頃から顔を突き合わせていたが、袁術は袁紹の出自の低さを馬鹿にしていた。
袁紹は推挙を受けて濮陽の県令に任命された後、母の喪と、生まれてすぐに死亡した父の喪に改めて服すとして、六年間を過ごして儒学的な名声を得る。
そしてその後も朝廷の招集に応じず、不平分子と付き合い、袁一族からは「我々を危機に晒すのか?」と言われるような存在となっていた。
つまり、官職に就いて穏健に政治を変えたい者たちは袁術に、官職に就かずにやや過激な改変を目指す者たちは袁紹に近づいていた。
無論、両方に顔を出す者もいる。
それ程に「袁」一族の影響力が強まっていたのだ。
劉亮と劉徳然は在野の人間である。
それもあって、袁紹たちの派閥から誘いを受けた。
(前回の洛陽生活の際、袁術は会いたいと申し出ても断ったしなあ)
と、劉亮は袁紹たちの招きに応じる事、袁術とは一線を画す事に躊躇は無かった。
中の人の記憶からも、将来推しの劉備が関係するのは袁紹の方で、袁術とは敵対しかしない。
とは言っても
(どんな人物か、袁術もいつか見てみたい)
とは思っていた。
その袁紹のサロンだが、かつて劉備が呆れた「不平不満を言って嘆くだけで、何ら実効性を持った議論が無い」学生たちの会合とは似ているが、若干違っていた。
基本どちらも酒宴をしている。
人数が集まると警戒されるも、それが酒宴ならば咎め立ては出来ないからだ。
その酒席で、情報共有が行われる。
宦官の誰それがとんでもない贅沢をしたというゴシップもあれば、地方反乱の情報や朝廷の人事といった重要なものもある。
袁紹という男は、基本聞くだけの姿勢であった。
腰を低くし、自ら酒を注いで回り、礼を尽くしていた。
料理の手配なんかも自ら引き受けている。
それでいて卑屈な感じもしない。
曹操が「出来る人」のオーラを出しまくりなら、袁紹は「出来た人」という雰囲気だ。
このサロンの雰囲気は、
「諸悪の根源は宦官であり、機を見て殲滅すべき。
ただし、宦官に先手を打たれないよう、警戒は徹底せよ」
「今の皇帝では、宦官殲滅はどうにもならない。
やったら、成功したとしても我々が罰せられる。
だから、口に出してはならないが、皇帝が亡くなるのを待とう」
というものである。
そんな中で袁紹は
「私は宮勤めをする事になった。
大将軍府に掾(属官)として仕える事になった。
私事ながら、伯父から宦官に睨まれている、一族の為にも出仕せよと言われましてな」
と皆に伝える。
溜息が漏れる会場。
それは袁紹に失望したのではなく、可哀想にというものであった。
だが袁紹は笑う。
「物は考えようだ。
私は大将軍をこちら側に引き込もうと思っている。
時間が掛かるが、きっと出来るだろう」
大将軍何進は、元々屠畜業を営んでいた家系の男である。
それが、妹が霊帝の後宮に入ってから抜擢された。
この妹の後宮入りは、同郷の宦官・郭勝の後押しによるものである。
以降も妹の世話をする宦官たちとは二人三脚であり、宦官派と言えた。
更に言えば、太学で儒学を修めてもいないし、名門の出でもない、士大夫とは言い難い人間である。
そんな男を袁紹は、反宦官派に引き込むのだという。
「皆々の中には納得がいかない方もいるだろう。
だが、目的を見失ってはいけない。
宦官の排除こそ我々の目的だ。
その濁流に比べて、大将軍はまだマシな方ではないか。
彼を味方にするのは、我々の目的達成に大いに役立つ。
きっと、この袁本初が成し遂げてみせよう」
こんな袁紹である。
元々偉ぶらない性格ではあるが、それにしても地方豪族の倅である劉亮を大事に扱うのには理由があった。
劉亮のちょっとした名声の元となったのは兄の劉備の行動で、それも多分「発作」「衝動」「やらかし」なのだが、袁紹は劉亮個人を評価している。
(あれは失敗だった……)
劉亮は自分の失言というか、お喋りを悔いていた。
それはある宴席での事。
西方の葡萄酒を振る舞われた劉亮は、珍しく酔ってしまった。
この時代の度数が低く質も悪い濁酒は口に合わない。
飲めない事は無いが、気分よく酔う事もない。
そんな中で飲んだ葡萄酒。
彼の前世に飲んだワインよりも、随分と酸っぱいし渋い。
それでも
(嗚呼、なんか懐かしいなあ)
と深酒をしてしまった。
そんな折、酒席では霊帝の命数について語られていた。
具体的に「いつ死ぬか」なんていう下品な話題にはなっていない。
朝廷の吉凶を占う、変事はいつ起こるか、という話題なのだが、サロンの雰囲気から言って「霊帝が死ぬ時期」を考えていたのだろう。
知識人たちにとって、後漢の皇帝は長生きしていない、幼帝が多い事は常識となっている。
霊帝だってこの先、十数年を生きて四十歳を迎える可能性は低いだろう。
そんな中で、占いなんてものは「都合が良い結果なら信じて気分良くなろう」程度のものとする劉亮の中の人(転生前は日本人)がつい
「生前譲位とか有り得ませんかね」
と口を挟んでしまったのが、余計な事をしたと後悔する行為である。
当然周囲は「不敬」「誰も主上の事等話していない」と文句を言って来るが、酔っていたし、久しくそういう話をしてこなかった鬱憤もあって、つい饒舌になってしまう。
幾らブラック企業でも辞めない、虐げられていても離婚しない、ちょっとマゾヒスティックな所がある劉亮の中の人だが、先日の兄のアレでストレスを溜めていたのも、余計な事を喋っているなと自覚していながら、止まらなくなった一因であろう。
これは漢ではなく、とある国の話です、という体で皆も落ち着かせて話を続ける。
実際ここに来ている知識人や名士は、言質を取られないように「夏の桀王の時は」だの「秦二世皇帝では」と歴史談話にして誤魔化しているのだし。
「吉凶を占い、凶事が見込まれた時は元号を変えて天に働きかけますよね。
それと同じで、その国では生前譲位をし、新しい王の徳をもって慶事を呼び込もうとしました。
譲位後の王を太上陛下として崇め、新しい王と共に天を祭るなら不敬にも当たりますまい。
まあ、それを臣下が決めるのは不敬ですが、もしも王御自身が決めたなら問題は有りますまい。
さて、そういう選択肢って如何でしょう?」
この時代、まだ中国に上皇は存在していない。
漢の高祖の父親が、高祖即位時にまだ存命だった為に「太上皇」の称号を与えられた前例はある。
皇帝が生前に退位する事は、誰も考えていなかったのだ。
「それは所詮、貴方の妄想の国の話。
ただの夢物語を元には語れませんな」
「幼な子の如き夢語りはその辺になされよ」
誰かがそう言うのを袁紹が窘める。
「彼は盧植殿に学んだのだ。
学無き者の戯言では無いのですぞ。
もう少し劉亮殿の話を聞いてみませんか」
と促したのだ。
そして、語り過ぎてしまった。
今上の皇帝と上皇、いずれが権力を持つのか。
上皇が二人、三人となった時に混乱が起こらないか。
上皇になったとして、次の皇帝が幼帝ならばどうするのか。
日本史という「具体的な例」に沿って話す為、架空の国の物語にしては説得力がある。
更には、皇帝を退位させられない場合でも、有能な皇太子が政務を代行する「摂政宮」なんて例を挙げてしまった。
多くの者は、酒席での譬え話としてそれ以上には踏み込まない。
まあ、そういう暗黙のルールでサロンは開かれていた。
酒席での過激発言を真面目に捉えてしまうと、その人だけでなく、参加者全員が危険に晒されるからだ。
ただ袁紹や張邈、許攸といった者たちは、劉亮の知見に一目置くようになり、以降特に何も発言しなくても丁重な扱いをするようになっていた。
(拙い、とんでもない発言をしてしまった。
俺が生き残る為の歴史改編程度なら、もしかしたら大局的な歴史の流れの中で、影響が無い程度に補正されるかもしれない。
劉備の弟が生きていようが、死んでいようが、大きく中国史に影響は出ないだろう。
……そう信じたい。
だが、この時代に概念すら無かった上皇、生前譲位というものを教えてしまったのは失敗だ。
無視されて歴史が進んで欲しい……)
素面に戻った劉亮の中の人は激しく後悔していた。
これでは「三国志演義」の張飛の酒の失敗を笑えないと、激しく落ち込んでいる。
そんな事も露知らず、別の会では劉徳然も、どこかで聞いたような政府批判を迂遠な表現でして、酒席では丁重な扱いをされている。
本人は満足そうだが、
(いや、袁紹やその他本物の名士たちから無下にはされていないが、だからといって重要人物とも扱われていないぞ)
と劉亮は分析している。
……自分が歴史上の重要人物から一目置かれ始めたという事を過小評価しながら……。
おまけ:
袁紹の生年が分からないので、曹操の一歳上にしてます。
袁術は曹操と同年。
袁術は袁家のスタッフ込みの存在なので、多分十代で郎になった後、あっという間に出世した事でしょう。
二十代前半で河南尹とか、スタッフ無しじゃ無理ですから。
袁術は兄が居て、そっちがもう結構な高官ですから、七光りで良い職になれてます。
袁紹が人脈形成の為、色んな人と交わっているのは、袁家のスタッフやら姻戚から家絡みの人脈を全部袁術の方が持って行ってるので、自前で作るしか無いという訳です。
この辺が性格にも現れてそうで。
ところで皆さん、ストレス溜めて酒を飲んでると、自分でも余計な事を言ってると自覚してるのに、止まらなくなる事有りませんか?
作者は有ります。
何か溜まってる物を全部喋り尽くさないと収まらない、周囲が引いてるのが分かるけど、言い終わらないと追いストレスが掛かる。
愚痴とは違うんですが、何か鬱屈した物が形を変えて出て来てしまう。
そういう経験があれば、今回の失言は理解して貰えるんじゃないかな、と思う忘年会シーズンでした。
(皆様、無礼講の罠にはお気をつけて下さい)




