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転生したら劉備の弟だった  作者: ほうこうおんち
第三章:運命を改変せよ
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洛陽に出仕

 郎とは皇帝の近侍の事である。

 が、後宮に居る時間が長く、そこでは宦官に囲まれている皇帝と、実際に郎が親しくする事は無い。

 郎は近衛兵を意味するが、後漢においては推挙を受けて役人になった者が最初に就く「見習い」的な役職であって、大量に在籍しているから特に珍しいものではなかった。

 郎を経て、その後に実務に就くから、いわば研修生という立場であった。


 推挙は三公や州刺史、郡太守・国相等が行う。

 儒学的に高ポイントの孝廉と、学問の秀才、光武帝劉秀のいみなを避けて茂才は年に一回だけの推挙である。

 以前劉備が盧植に従って洛陽に来たのも、孝廉での推挙狙いであった。

「銅臭時代」以外なら、太学や有名な儒学者の学生として数年から十数年下積みをしつつ有力者に顔を売る。

 腐敗官吏弾劾なんかのパフォーマンスが有効だ。

 親が死んだら、数年に渡る服喪なんかも良い。

 そうした評判を聞いた太守なり刺史なりが推挙を行う。

 劉備の場合は過去に県令を出した豪族の子弟なので、地方官も安心して推挙出来る。

 その際、孝廉での推挙ならば本当に儒学の素養が有るかを試験される。

 だから盧植の儒学塾とかは、無学な劉備にも重要だった。

 これをクリアし、郎に任じられてキャリア生活が始まる筈であった。

 しかし時は宦官跋扈の「銅臭時代」、推挙よりも金持ちに礼金要求で任官させる光景に、劉備は一気にやる気を失ってしまったのだが。

 そんな劉備が成れなかった郎に、劉亮が成ってしまった。

(こんなの歴史に有ったか?)

 中の人はいまだに戸惑っている。

 郎に誰が成ったとか、記録はあるかもしれないが、彼は見た事が無い。

 万が一、億が一、兆が一の確率で、実は「劉備の弟は、黄巾の乱終了後に郎として仕えていた時期がある」のかもしれない。

 だとしても、誰が推挙したのか?


 推挙したと思われる董卓は、既に故郷に帰ってしまった。

 挨拶に行った盧植は、劉亮の事は劉備の弟としてしか認識していなかった。

 推挙されたかと聞いても

「自分は罪は免れたが、無位の身であって、そのような権限は無い」

 という回答。

 求めた答えは得られなかった。

 一方で劉亮は劉徳然を紹介する。

 劉徳然も幽州で盧植の塾に通っていたが、なにせ多数の豪族の子弟が通っていたから、徳然の事も盧植はよく覚えていなかった。

 それでも幽州時代の教え子である事と、折角洛陽に来たのだから再び書生をさせて欲しいと頼むと、それには快諾が得られた。

 これで何事もなければ、学問の素養を認められて徳然にも出世の目が出来るだろう。

(むしろそっちの方が良い)

 平時ならきちんと官僚として生きていける従兄弟についてそう思う。

 劉徳然は

「叔朗、お前は良い奴だよ」

 と嬉しそうにしているし、これで良かったのだ。


 繰り返しになるが、郎とは皇帝の近侍である。

 郎となった劉亮は、数こそ少ないが皇帝の近くに控える事もあった。

 多数の郎は朝議に参列はするが、皇帝に近侍して大臣とのやり取りを見られる位置になるのはローテーションで決まった。

 有力者の子弟の郎は近侍機会も多くされるが、劉亮程度でも数回は声が届く位置に控えられる。

 そこで彼は、不遜ではあるが、じっと霊帝を観察していた。


 霊帝というのは、今その名で呼ばれている訳ではない。

 劉亮の中の人の記憶で「霊帝」と諡号されたから、そう認識している。

 もしも現皇帝に対し、「霊帝」と口にしたら二重の意味で問題となろう。

 生きている人に死後の名を使った事と、「霊」には余り良い意味が無い事である。

 第三者には「天子様」「主上」と呼び、面と向かっては「陛下」以外には呼んではならない。


 更に不敬に言えば、この皇帝の本名は劉宏。

 黄巾の乱鎮圧後の現在は二十八歳である。

 口には出さないが、色んな人の態度を見れば「暗愚」な人物とされる。

 が、劉亮が見た感じ、そうでもないように思われた。


 劉亮が皇帝の近くに、官吏見習いとして仕えたのは二回のみ。

 一回目は人事関係の裁可をしていた。

 司徒や太尉からの報告を受け、この時は

「卿たちの申すようにせよ」

 としか言わず、賢愚は分からなかった。

 ただ、熱心に聞いていて、遊びたいが為に聞き流すような様子はない。


 二回目で劉亮は認識を改める。

 涼州で辺章、韓遂らが反乱を起こしたという報を受けていた。

「此度も皇甫嵩で良いか?」

 と下問。

 何進が「御意」と答えると、霊帝は更に

「皇甫嵩を左車騎将軍に任ず。

 続いて、彼等の下で部隊を指揮する者について話そう。

 この夏の賊(黄巾の乱)討伐の折りは、豪族や在野の者の協力を得た。

 此度は誰か適任がおるか?」

 その問いに、何進がゴニョニョとし出して答えられない。

 皇帝の背後にいた宦官が耳打ちする。

「董卓は朕が罪を免じたのであったな。

 今、彼の者は何処に居るか?」

「さて……郷里に戻ったようでございますが」

「では、董卓を中郎将に復すゆえ、使者を遣わすよう。

 そして参内の必要無し、そのまま皇甫嵩の元に参じるよう伝えよ」

「御意」

「左車騎将軍(皇甫嵩)、それで良いか?」

「御意にございます」

「では、涼州の乱については卿たちに任せる」

「ははっ」

 何進と皇甫嵩が下がった後、霊帝は背後を振り返る。

「黄門侍郎」

「はい」

 呼ばれたのは蹇碩である。

「朕直属の官軍の件は、どうなっておるか?」

「はい。

 恐れながら、小臣(わたくし)たち宦官だけでは足りませぬ。

 外朝の者の助力を得ませんと……」

「信の置ける者のみを探すように」

「はっ」

「陛下、恐れながら世は陛下のお陰を持ちまして平穏になりまする。

 常に兵を身近に置くのは凶事を招くようなもの。

 既に存在している北軍五校士だけでよろしゅう御座います」

 廷臣の一人がそう言って反対する。

 霊帝は

「凶事なら既に起きておる。

 この夏の兵乱で、多くの者を召して戦わせた。

 その者たちが次に力を持って、朕に歯向かったなら如何する?」

「それは……陛下に忠義を誓う別な者を召して……」

「それでは際限が無かろう」

 霊帝は声を出さずに笑う。

 声に出して笑えば、その意見を言った者を馬鹿にした事になり、名誉を傷つけられた者は自害する面倒臭さがあった。

「最後に頼りになるのは親しき者ぞ。

 のう、我が父、我が母よ」

 言われて宦官が二人頭を下げる。

(あれが張譲と趙忠か。

 どっちがどっちかは知らんが)

「まあ卿の言う事も分かる。

 平穏な世というなら、そのようにして見よ」

「御意」

 そのようなやり取りの後、

「陛下、そろそろ朝議は終わりの刻限にございますれば……」

 そう言ったのは、張譲か趙忠のどっちかであった。

「よろしい、皆の者、大儀であった。

 下がって良い」

 これにて散会となる。


 一連のやり取りを見た劉亮は

(確かに宦官に操られているようにも見える。

 しかし何も分からない愚鈍な人物ではない。

 むしろ何進よりも諸事を理解しているようにも見えた)

 という感想を持っていた。


 劉亮はかつて、この洛陽で曹操に言われた事を思い出す。

『君は、天子を見た事があるか?』

『実際に天子を見てから物を言った方が良いぞ』

 実際に見た霊帝は、以前思っていた、或いは付き合いのある名士が臭わせている「暗君」のようではない。

 名君かと言えば違うかもしれない。

 不敬な言い方だが、馬鹿ではない。


(そう言えば曹操は今、どこに居るんだ?)

 確か黄巾の乱の功績で、どこかの太守になったような。


 正しくは済南国の相である。

 前漢において、皇族の者は巨大な領土を任された。

 それが「国」である。

 その国の中で、呉国や楚国の皇族が反乱を起こしたのが「呉楚七国の乱」である。

 後漢においても皇族領「国」は存在するが、その規模は「郡」と同じ程度に縮小された。

 そしてその地は、国から派遣された官僚が代理統治する。

 国家直属の「郡」は太守が治め、皇族領「国」は相が治める。

 曹操は太守級の職に就いていた為、現地に赴任し、洛陽には居なかった。


 ある意味勉強にはなる、ある意味特に何もする事がない、そんな洛陽での官僚生活は、突然終わりを告げる。

 劉亮の官舎に捕吏がやって来て、

「お前の兄の劉備が反乱を起こした。

 連座として劉亮、劉義(徳然)を捕縛する。

 抵抗すれば兄と同罪とする」

 と告げたのだ。


(ああ、もしかして督郵(監察官)を木に吊るして棒打した事件が、こっちでも起きたのか)

 劉亮は前世の記憶から、劉備のやらかしを思い出した。

「三国志演義」では張飛がそれをやり、劉備は自分の印綬を督郵の首に掛けて逃走したとされる。

 劉亮が見た、こっちの張飛は礼義作法はしっかりしているし、キレやすくもない。

 むしろ上に対する敵愾心は関羽の方がヤバい。

 あと、劉展も中々直情径行で問題児だ。

 劉備に対しては忠犬の如く従順だが、劉備を馬鹿にする者に対しては狂犬となってしまう。

 そんな事を獄中で考えていた。


 そして一応獄には入れられたものの、彼等に非が無い事は分かっていた為、拷問もされずにただ郎の任を解かれる事が告げられる。

 劉備の反乱と言っても、やはり思った通り、督郵に暴行を加えた件であった。


 真相は、劉備自身が暴行を行ったという事だが。


 督郵は賄賂を要求したりはしていない。

 ただ、劉備が面会を求めた際、断ったそうだ。

 すると宿舎に劉備が乱入。

 督郵のお供を持っていた棒で殴り倒し、督郵の者には縄を掛けて馬で引き摺り回す。

 その後、木に縛り付けると、棒で殴打を繰り返す。

 そして

「フー……。

 スーッとしたぜ。

 俺はチと荒っぽい性格でなぁ」

 と言い残すと、印綬を督郵の顔面に投げつけ、更に唾を吐き捨てて逃亡したのであった。


(なんつー事をしでかしとんじゃ!?)

 劉亮は頭が痛くなった。

 何となく理由は分かる。

 常々

「俺は地方の小役人の器じゃない」

 という事と

「小役人がするような細々した仕事は性に合わない。

 頭が痛くなる」

 という事と

「一度、偉ぶってる奴を叩きのめして、名士たちが口だけでやれない事をやってやりたい」

 という事を口にはしていた。

 恐らくその全部の合わせ技だろう。

 きっかけは何でも良かったんだと思う。


「玄徳のせいで、俺までこんな目に遭った。

 あいつは何考えてるんだ!」

 劉徳然は激怒している。

 釈放後、縄目の恥辱を受けた事を盧植に謝りに行くと、そこでは意外な事を言われる。


「劉備殿はきっと、立場を生かして賄賂を求めた役人を叩きのめしたに違いない」

「胸がすく思いだ。

 あの手の役人は、偉ぶって民を甚振るような連中だからな」

「我々清流派の思いを代行してくれたのだ」

 盧植の弟子たちはそう言って、大いに賞賛していた。


(絶対誤解だ!

 平時はポンコツな劉備の事、

「やってやった!

 後悔はちょっとしている」

 てなノリじゃないか)


 劉亮が劉備の無茶に引っ掻きまわされるのは、これが初めてではないが、これから先もっと酷くなっていく事に、彼は気づいていない。

おまけ:

劉備の暴行事件の裏事情。

黄巾の乱の功績で有象無象を地方官僚にし過ぎたから

「やっぱり有能なのや、名士、有力者の後ろ盾がある人以外はリストラしよう」

となった模様。

平時はポンコツ、田舎豪族の倅、中央に盧植以外のコネ無しの劉備はリストラ対象だったとか。

しかも、実はこの督郵と劉備は知り合いで、劉備が挨拶に行った時に、リストラ対象だから気が引けて会わなかったのを、恥をかかされたと劉備が激怒したとか(出典「魏略」)。

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― 新着の感想 ―
[一言] なにこの熱を操る流法を使いそうな劉備w
[気になる点] こんな一方的に迷惑かけられてもまだ劉備に仕えたいのか……?
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