意外な論功行賞
結局、黄巾の乱は鎮圧された。
劉備の軍は、あの祝宴の後は戦闘を行う事もなく、最後に残った人公将軍・張宝を皇甫嵩が討ち取った報告をもって帰郷となった。
指揮官である劉備の功は中央に報告され、それなりの役職になると鄒靖からは言われている。
「そんな事にはならんさ」
劉備が鼻をほじくりながら呟く。
劉備は兵を挙げる際、関羽を同盟者として誘った。
この関羽は、塩密売人の護衛であった為、追われる身の上であった。
劉備は関羽の罪一切の赦免を、幽州の役所を通じて求めている。
だから恩賞は、関羽たちの無罪放免によってプラマイゼロって所じゃないか。
劉備自身はそう思って、諦めているようだ。
だが親族衆はそうはいかない。
無事に帰って来た劉展や劉徳然から、冀州及び幽州での活躍を聞いているだけに
「どこかの県令になるのは確実だ!」
「もしかしたら、洛陽に呼ばれるかもしれない」
「乱を鎮めたのだから、都尉とか校尉とかになるかもしれない。
そうなると辺境で、誰か将軍の下の幕僚勤めかな」
そう言って盛り上がっていた。
中央では論功行賞が行われている。
そんな中、盧植と董卓の名誉回復が為された。
一番の功労者である皇甫嵩が、張角を包囲した盧植の戦い方は間違っていない、董卓も運が悪かっただけだ、と説いて回る。
これだと、盧植を消極的だと批判し、董卓に強襲を命じた大将軍・何進が間違っていたとなる。
更に言えば、それを認めた霊帝も間違ったという事だ。
にも関わらず、意外にも霊帝が皇甫嵩の言い分を認めた事で盧植・董卓は無罪赦免となる。
何進も責任を問われない。
何進は、洛陽に根を張っていた黄巾党を一掃した功を讃えられ、慎侯に封じられる。
自分が否定されなかった事に何進は安心し、盧植・董卓の件に口を挟む事も無かった。
論功行賞は、洛陽で対黄巾党を行った者に手厚い。
表沙汰になっていないが、何人かの皇族と有力者が「行方不明」になっている。
噂では、黄巾党は彼等を担ごうとしたようだ。
黄巾党が皇帝に代わる事はない。
自分に都合の良い皇帝を立て、その下で宗教的自治領域を作ろうとした模様。
その後の事は分からないが、いきなり自分たちが皇帝というのは、反発が大きいと彼等も考えていたようだ。
だからこそ、霊帝は「政権をひっくり返す可能性があった」相手を倒した者を、真っ先に賞したのである。
張譲、趙忠、蹇碩といった宦官たちが恩賞を与えられているのは、行方不明となった皇族に関係していると言われている。
更に宦官の中にも黄巾党に繋がっていた者も居た為、他の宦官は彼等を粛清した。
処罰された中には、無関係と思われる者も。
要は黄巾の乱に名を借りた政争が起こっており、政敵は排除されたのである。
こうして霊帝の信任篤い宦官は、更に権力を増す事になった。
続いて地方で戦った官軍の論功行賞が行われる。
人事異動という形で、刺史とか太守とか県令とかに任じられる。
これの恩賞たる所以は、任命に際して今まで求められていた礼金が免除されている事だろう。
今までは朝廷が任命したら、莫大な礼金を納めなければならなかった。
それ無しでの任官は、普通に実入りが多くなるから美味しいだけである。
そして盧植が集めた義兵たちへの恩賞となるが、これは官職持ちの者への褒賞が終わってからとなったので、半年程後に回されている。
基本的に税の免除とか、名ばかりの称号授与とか、地方の下級役人への任命とかで、ここまで来ると皇帝も大将軍も関わっていない。
軍務省に相当する太尉府の属僚たちが行っている。
太尉は三公の一つで名誉ある地位だが、将軍ではなく文官が主に就任している。
そして交代は頻繁だ。
だから、外戚が任じられる大将軍の方が、人事異動される事もなく、影響力を持って居座り続けるから、いつしかこちらの方が強くなっていた。
という事で、些事を任された太尉府では、野にいる義兵の将に、有体に言えば
「よく頑張りました」
という花丸を与える仕事をしていた。
そんな中、劉備への褒賞は篤い方と言える。
既に幽州から「味方についた者の罪を赦免して欲しい」という劉備からの嘆願が有った為、それを認める。
関羽たちは晴れて無罪の身となった。
その上で、何度も言うが劉備は豪族の子である。
関羽の赦免で功績とプラマイゼロにする訳にもいかなかった。
末端とは言え「劉」姓である。
そこで朝廷に奏上された結果、中山国安熹県の尉に任じる事が決められた。
その報を聞いた涿郡劉氏は、かなり残念がる。
県尉というのは、劉亮の前世の情報で例えるなら、県警のトップとその地の部隊の指揮官であった。
行政単位は大きい方から州・郡・県・里。
その県の役人は偉い方から県令・県丞・県尉。
そして行政や財政ではなく、警察と軍事の担当者。
悪くは無いが、大活躍を聞いていただけに親族衆は
「もっと上になると思っていた」
と落胆している。
せめて県令、良ければ郡や州の中級役人くらいを見込んでいたようだ。
(いや、これって結構な評価だ)
事情を知っている劉亮は驚きを隠せない。
関羽の赦免という減算項目があってこれだ。
洛陽のあの腐敗っぷりを知っているから、ちゃんとした褒賞がされた事にも驚きである。
更に「任命したから礼金」とも言って来ない。
劉備は十分に報われたと思う。
(まあ本人がどう思っているかは分からんが)
そうして劉備が安熹県に赴任すべく支度をし、劉亮も同行しようとしていた所に、劉亮すら予想出来なかった報がもたらされる。
洛陽から
「劉亮を郎に任じ、朝廷への出仕を命ず」
という使者が来たのだ。
「は?」
自分を無名だと思っていた劉亮は、何が何だか分からない。
なんでも推挙が有ったそうだ。
それも二人から。
(一人は董卓かな?
俺の仕事を見ていた中で、一番地位が高いのはあの人だ。
だけど、もう一人いるって?
誰だ?)
そんな事、涿郡涿県で考えても分かる筈がない。
親族衆は
「玄徳だけでなく、叔朗も役に就くとは実に素晴らしい」
「兄弟で恩賞を分け合ったのなら、玄徳のあの地位も理解出来るな」
と浮かれているが、
(いや、俺の方が劉備よりも高い評価だぞ)
と劉亮の中の人はパニックになっている。
「叔朗、良かったじゃないか。
旅支度もしていた事だし、このまま洛陽に行けよ」
劉備が嬉しそうに言って来る。
「いやいや、待って下さいよ兄者。
私は何の活躍もしていませんよ。
それなのに任官って、何かおかしくないですか?」
「何もしてないって思ってるの、お前だけじゃないのか?」
劉亮の中の人は、前世での報われなさから自己評価が低い。
所詮下準備を頑張っても、最後には上役に全部持っていかれる。
ちょっとのボーナスが渡されただけで、すぐに別な国に飛ばされる。
役職は次長付補佐とか、交渉担当顧問とか、よく分からないし手当も付かないものばかりだった。
それでも仕事自体に価値は見い出していたが、決して表には出ないものと諦めていたのである。
「それにしても、兄者より高い地位ですよ。
そして、兄者は余り好いていないようですが、それでも都勤めですぞ。
おかしくないですか?」
「俺は関さんたちの無罪放免を申し出ていたからなあ。
その約束を果たした上での任官だから、上々じゃないか」
「それでも、私の方が上とか、兄者は悔しくないんですか?」
「悔しくは無いが、羨ましいと思うぞ、正直なところ。
その役が羨ましいんじゃなく、お前を推挙した人が居た事が羨ましい。
見ている人はちゃんと見ているって事だよ。
俺は、自分で言うのもなんだが、ちゃんと活躍したからなあ。
活躍に対する評価だし、まああんなものだろう。
お前のは、多分才能に対する評価だぞ。
俺としたら、凄い羨ましい」
「いやいやいやいや……。
私に大した才能はありませんから」
これも歴史マニアの癖に、未来の教育を受けた自分の有り得なさに気づいていない劉亮の中の人の過小評価であった。
四則演算を普通にするし、暗算も速い。
自分では下手くそ、日常会話とか旅行時の買い物が出来る程度と卑下しているが、世界各国の言葉を大体知っていて、片言ならどんな場所でも挨拶は出来る語学力。
字も絵も下手くそだが、地図をプロット出来る能力。
見る人が見たら、劇凄能力持ちなのである。
ただ、字が汚いのが彼を評価する上でマイナスになっていた。
まともな人格は、その字に現れると見られる。
字を読み書き出来るだけマシだが、字が汚な過ぎて
「一端の知識人ぽく見えるが、この字の汚さから判断するに、ただの野人だな」
と低く見られてしまうのだ。
そして儒学に関する無知。
正しくは、中の人が日本人なので、漢文とかで習った以上の儒学に興味を持っていない事。
後漢においてこれは致命的なマイナス事項である。
まあ劉亮も、盧植の塾とかで「この時代の儒学」を学んではいたが、莫大な書物を諳んじるには、彼の頭には別な事が入っていて、容量オーバーであった。
書物の文言を一言一句間違わないよう暗記するより、地形とか建築構造とか、この時代の人間を観察して覚えるとか、そっちに意識が行っているから、出来ないというよりやる気が無い。
字が汚く儒に暗い、だから一般的な人物評では
「下級官吏として、上から命じられた仕事をこなすなら最上の人材。
志が無いから、中級より上の役職では不幸になるだろう。
まして忠節や正義の心が有るか怪しい」
といったものであった。
まあそういうのは、董卓ともう一人にとっては取るに足らない事であろう。
劉備にも、そんな後漢時代の評は意味が無いものだった。
だから劉備は笑いながら
「俺は儒学の一言一句覚えるのは嫌いだが、それでも『信に応える』って事くらい分かる。
お前の能力を評価している人が居るのだから、その期待には応えてやれ。
お互い頑張ろう」
と言ってくれた。
(こういう劉備だから、人もついて来るんだよなあ)
劉備に背中を押され、劉亮も踏ん切りが着いた。
そして劉亮は、義叔父に頼み込んで劉徳然にも同行して貰う事にした。
劉徳然は、劉家の二十代の者の中で、一番この時代における学がある人間だ。
劉備は学問としてはやる気無し、劉亮は未来の知識が邪魔をして覚えられない、劉展は触れてやるのが可哀想な頭のレベル。
劉徳然の方が洛陽では生きやすいと思うし、出来れば彼を任官させて洛陽に残した上で、自分はさっさと劉備の元に向かいたい。
運命を変える為に。
劉亮の洛陽生活がこれより始まる。
おまけ:
地方上級公務員もしくは中央官庁の官僚への道が開けた劉亮に比べ、地方公務員一般職の劉備はかなり格落ちです。
しかし、地方豪族は役所の仕事を何年も勤め上げると、その功績を認めて登用される道があったそうです。
特に賊が多い地域は功績大。
これは裏口みたいなものですが、孝廉で推挙されるより出世しやすかったようです。
だから劉備がこのまま、何年も役人を続けていれば良いのですが……。




