盧植失脚
冀州において北中郎将・盧植の軍は勝利を積み重ねていた。
万余の黄巾軍兵士が既に戦場で殺されている。
しかし大軍の黄巾軍にしたら、これでもまだ一部であった。
それでも黄巾軍は次第に追い詰められ、ついに広宗に籠城するまでに至る。
盧植は各地に派遣していた部隊を集結させると、工事を命じる。
一つは街道の封鎖。
もう一つは雲梯の製作である。
雲梯とは攻城兵器の一つだ。
城壁を乗り越える為に、台車の上に折り畳み式のはしごを搭載した車両である。
これを伸ばして、兵士を城内に突入させる。
この兵器は春秋戦国時代には既に存在し、墨子との戦いで使用されていた。
広宗に立て籠る黄巾軍は、総大将の張角を始めとし、十万を超えている。
こんな場所に、雲梯を使って僅かな兵を送った所で兵の無駄遣いにしかならない。
盧植は雲梯の他に、櫓も多数作って、高みから広宗城内の敵兵に矢を討ちかけていた。
余り効果は無い。
だが
(嫌がらせとしては良いな)
と劉亮は考えている。
盧植の策は、敵軍の心を折る事。
広宗に一気に攻め込む事はせず、包囲をしながら相手の補給を断ち、時々包囲軍から喊声による脅しを掛けたり、高い場所から矢を射かけたりはしているが、敵城に攻め込む様子は無い。
持久戦になるだろう。
「それで、天公将軍張角は広宗におるが、地公将軍張宝と、人公将軍張梁は?」
盧植の帷幕では、張角の二人の弟の行方も調べている。
黄巾軍は張角・張宝・張梁の三人兄弟が指揮をしているとされる。
その内、地公将軍張宝はまだ周辺で信者を率いて戦っているのが分かるが、人公将軍張梁の行方が分からない。
盧植は
「張角が包囲されていると、各地に広まるようにせよ」
「張宝、張梁が現れたら道を開けよ。
奴等も広宗に入れて、閉じ込めるのだ」
という指示を出していた。
要は、本当に黄巾軍の主力を全部広宗に集めて、そこで勝つつもりである。
盧植の作戦は、現在の所で上手くいっていた。
現在までは……。
戦争とは、戦場から遠くなる程に、強硬論が罷り通る。
首都洛陽において、既に敵の総大将を追い詰めながら、一向に手出しをしない盧植に対して不満の声が挙がり始めた。
「北中郎将は兵を休め、遠巻きに矢を射るだけの消極的な攻撃に終始しております。
一方の豫州では左中郎将皇甫嵩が、荊州では右中郎将朱儁が敵を打ち破りました。
皇甫嵩、朱儁ともに兵力は四万。
それに対し盧植は義兵を含め、もっと多くの兵を率いているのに、城を攻めぬとは疑問ですな」
大将軍の何進が皇帝に戦況を説明していた。
この何進、妹が皇帝の妃になった為に出世した男で、軍事的才能や儒学的素養があってのものではない。
数が多ければ勝つ、兵が強ければ勝つ、包囲したら殲滅する、この程度の兵法しか知らぬ。
よって、周辺での戦いには圧勝し、兵力も官軍の中で最大の盧植が、ここに来て一向に攻めようとしないのが疑問でならない。
それは報告を受ける霊帝も同じである。
劉亮を始め、多くの者が「暗愚」「守銭奴」と陰口を叩いている皇帝・劉宏だが、実はそこまで暗愚ではない。
皇甫嵩が求めた私財放出だって、皇帝は受け容れている。
だが、情報が足りないと偏った思考をせざるを得ない。
皇帝も盧植が怠慢をしているのではないか、自分への反抗をしているのではないかと訝った。
そこで霊帝は、宦官の左豊を事情聴取の為に盧植の陣に派遣する。
「小黄門の左豊です」
左豊は挨拶をするが、盧植は見向きもしない。
儒学を修め、北中郎将として兵を指揮する盧植にしたら、宦官等に礼を取る気分になれないのだ。
この硬骨っぷりは、陣内の武将たちには小気味良いものに映る。
しかしやられた宦官からしたら、腹立たしい事この上ない。
「陛下は、敵を包囲しながら一向に攻めぬ北中郎将に疑念を持ってらっしゃいます」
「ふん、疑念を持つよう仕向けたのは、お主たちであろう」
「違います。
大将軍が……」
「大将軍もお前たちと同じであろう」
何進は後宮に入った妹のお陰で出世した。
宦官は後宮で皇帝の世話をして出世している。
気骨の士から見たら、大して変わらないのだ。
なお、前漢において名将・衛青なんていうのも身分は低かった。
母親は女奴隷である婢の身分、衛青本人も奴隷のように扱われ、父から虐待されながら、羊の放牧の仕事をして暮らしていた。
それが姉の武帝の後宮入りで一変する。
対匈奴戦で名を挙げ、大将軍にまで出世した。
だから低い身分だからと言って馬鹿にすべきものではないと、中の人が日本人の劉亮は思ったりするのだが、後漢においては異なる。
後漢においては衛青ですら軽蔑されるだろう。
何故なら儒学の素養が無く、姉への寵愛で出世したと看做されるからだ。
この辺が曹操の言う「儒一辺倒の悪い面」と言えよう。
まあ衛青なんかと比べるべくもなく、何進の能力は低い。
出世してから兵法を学んだりはしたが、所詮は付け焼き刃。
反乱を鎮めた経験がある盧植には及ばない。
それ故に盧植からしたら
「知らぬ奴は黙っていろ」
と言った態度になる。
後漢の気骨の士というのには、こういう悪い癖がある。
第一次党錮の禁の折も、逮捕されないのを恥とし
「私を捕らえぬとは、一体どういう事だ!」
と出頭するパフォーマンスを見せたりした。
時に相手の立場を失わせる程に面罵もする。
そうすれば波風立たないのに、と思う事を敢えてしない。
例え死のうとも、意地を貫き通す。
劉表が洛陽を逃げ出す羽目に陥ったのも、男を見せる為に追われた者の逃走に手を貸したからだ。
孔子の子孫である孔融も、劉表が助けたのと同じ張倹を匿った件で騒動を起こしている。
張倹が頼って来たのは兄の孔褒であったが留守だった為、事情を知らない孔融が匿う。
その事が露見した後、捕吏に対し
「咎人を受け入れ匿ったのは私なので、罪に問われるのは私です」
と孔融は言い、孔褒は
「家の事は年長の私に責任があるので、どうか私をお咎め下さい」
と言って譲らなかった。
こういう面倒臭さが、盧植の不運となる。
左豊は侮られながらも、なお用件を果たそうとする。
どうして盧植は包囲下にある城を攻めないのかと質問。
盧植は首謀者は倒す、しかし従った民は許す、だから開城するのを待っているのだと、そういう風に答えた。
全軍をここに呼び寄せて、その上で包囲して絞め殺すという策の、詳細までは話さない。
宦官を侮っている盧植は、一々クドクドと説明もしないのだ。
「では、その事を宮中にて話さねばなりません。
それには色々と物入りとなります」
「ハッキリ言え、賄賂が欲しいのであろう」
「ええ、まあ……宮中はそれが無いと話になりませぬ故……」
「だが断る」
「は?」
「賄賂等、この盧植が出すと思うか!
この意地汚い宦官奴が!
ここは軍営だ、お前なんかが居て良い場所ではない。
将への礼を欠いたとして、処罰したって問題無いのだぞ。
儂は節(処罰ができる軍法権)を持っているのだからな!」
「そうだ!
お前のような不浄な者が居て良い場所ではない」
「賄賂にがめつい宦官が、さっさと出て行け!」
「お前らのような兵法も知らぬ者が口を出して良いものではない!
後宮に籠って女官の尻でも追っているが良い」
「おいおい、去勢した者が女を追っても詰まらなかろうよ。
無いモノねだりな話は酷だぞ」
盧植の周囲の武官たちも、そう言って嘲笑する。
劉備・関羽・張飛もその様子を漏れ聞いて
「実に痛快だ。
流石は盧植先生だ!」
と褒めそやしていた。
だが劉亮は違う。
(いや、確かに俺はこの先、盧植がどういう目に遭うか知ってるけどさ。
それにしてもやり方、言い方ってものがあるだろ。
こういう面倒臭い態度、相手を軽蔑しまくった態度が原因じゃないのか?
そうでなければ、現場指揮官を優勢な状態で……)
劉亮が想像した通り、いや、儒学に染まった者以外なら大抵想像が付くように、左豊は侮辱に対して怒り心頭で洛陽に戻った。
そして盧植について、有る事無い事吹聴しまくる。
儒学に頭まで浸かった人間から見たら、宦官とは奴隷の一種であり、物を言う資格すら認めない。
無ければ朝廷が困るし、古くからの慣わしだから認めているだけで、とても士大夫と肩を並べるような存在ではない。
だから、いくら相手をやり込めても構わないという意識である。
だが相手は人間だ。
まして後漢において、宦官は度々皇帝の危機を救って、身分が上がっている。
意外に皇帝に対しても、漢という国家に対しても忠誠心が高い者も居る。
去勢されているだけで、奴隷のような存在ではなくなっている。
そんな相手をあそこまで侮辱すれば、報復が来るに決まっているのだ。
果たして盧植は、霊帝の命によって北中郎将の任を解かれる。
異例中の異例である。
盧植は苦戦していたのではなく、勝っていたのに解任されてしまった。
だけでなく、罪人に落とされ、死一等を免じた上で官職を剥奪されて、収監されてしまった。
収監する為の兵が送られて来た時、公孫瓚や劉備、他にも陣中に居た門下生たちは猛抗議をする。
しかし盧植はそれを止めた。
「諸君、これが朝廷の在り方だ。
正しい事をしていても、賄賂を渡さなかっただけでこのようになってしまう。
だが諸君、それでも変わらずに戦い続けて欲しい。
民の為だ。
そこを見誤らんで欲しい。
それさえ分かってくれれば、この身が獄に繋がれようと、私の大義は諸君たちの中で生き続けよう」
「先生!」
「盧植先生!」
弟子たちは泣いて悔しがり、師を讃えていた。
そんな空気に冷や水ぶっ掛けるのはおかしいので黙っているが、中の人が儒学に染まっていない劉亮は心の中で呟いている。
(いや、それ避けられた人災だから!
ちょっと相手に気を遣っていれば、どうにでもなったから。
賄賂くらい必要経費だと、清濁併せ呑む度量があれば、こうはならなかったから!)
それを口に出せないくらい、この場において劉亮の中の人は孤独であった。
おまけ:
あくまでも創作なので、盧植失脚がこんな理由だったかは分かりません。
ただ、後漢の面倒臭い儒家系士大夫は、これくらいやりそうに思えてまして。
こういったパフォーマンスは「天知る、地知る、我知る」のエピソードとか歴史に残りますしね。




