再び盧植の下へ
「いやあ玄徳、黄巾党千人を撃破とは、中々やるなあ」
公孫瓚は初戦を終えた劉備軍を迎え入れると、活躍を讃えた。
初日の惨敗の後、劉備が事実上指揮を執った翌日の戦いで、前日の負けを帳消しにして余りある大勝利を収めたのである。
「伯珪殿に評価されて嬉しいよ。
でも俺の軍も損害が大きい。
なにせ八百しか居ないのに、もう二百人も死なせちまった。
叔父の劉元起が追加で兵を送ってくれると思うが、それまでの間はここに世話になるよ」
劉備が砕けた口調ながらも、公孫瓚に頼み込んで合流を承知させる。
劉家の軍は、完全に劉備の部隊となる。
劉徳然は部曲の指揮のみに専念すると言って、全軍の指揮官を劉備に譲った。
関羽と張飛は、これまでの「玄徳殿」呼びを改め、敬意を込めて「劉将軍」と呼ぶようになる、公式の場では。
兵たちも「劉将軍」と敬服していた。
(こういう後の態度が凄いよなあ)
劉亮は兄のアフターフォローを見て思った。
劉徳然に対しては
「初戦のあんたの陣形選択は間違ってないと思った。
張さんのとどっちが正しいか、俺には判断出来なかった。
ただあんた、初戦は頭に血が上っていて、周りが見えていなかったんだよ。
今はもう冷静だろ?
あんたが大将でも全然問題無いんだぞ」
そう言って労う。
劉徳然はもう器の違いを理解したから、慰められても、もう意地を張るつもりは無かった。
他方、張飛と関羽に対しては
「皆の前では将軍とか言ってくれるようで有難う。
でも、こうして周りに誰も居ない時は、引き続き『玄徳』と呼んでくれていいんだぜ。
俺だって県令の公孫瓚殿の事を、皆の前以外では『伯珪殿』って言ってるしなあ」
と伝えていた。
兵法に則って部隊を指揮する張飛と、遊軍となって上手く相手を攻撃する関羽、この二人が劉備軍に居る事は大きい。
劉亮は前世を知るだけにそう思うが、一方で史書には「どうやって関羽と張飛が劉備の配下になったのか」という経緯は記されていなく、こうしてその光景を見て感心する。
というか、中の人は物凄く興奮しているのだ。
「桃園の誓い」なんてのは「三国志演義」の創作だ。
気位が高い関羽に、後世に武廟六十四将の一人に加えられる名将張飛、この二人が劉備の下に収まるには、劉備の実力を以てする以外無いだろう。
その後、数度の小競り合いに勝利しながら、公孫瓚と劉備の涿県の部隊は師・盧植の元に到着した。
盧植は遠征軍の指揮官である北中郎将に任じられていた。
彼の方針は、あくまでも太平道の者を叩き、天下に不満を持つだけの民は殺さない事。
故にこれ以上の日和見黄巾党を増やさない為、各地に義兵を呼び掛けていた。
漢に不満を持つ、或いは野盗・山賊に身を堕とした者は、大した思想的共感も無いまま黄巾党に加わる可能性があった。
それだったら「官軍に加わり、手柄を立てて大手を振って故郷に戻らないか」としたのだ。
この「日和見黄巾党を増やさない」という考えは、中央でも持っている。
だから党錮の禁が解除されたのだ。
士人・名士を締め出した状態だと、彼等が黄巾党に加わるのではないか、という不安が頭を過る。
そこで党錮の禁解除を進言したのが、今は左中郎将として黄巾党と戦っている皇甫嵩であった。
皇甫嵩は次いで、霊帝が抱えている私財の放出をも進言したという。
霊帝はそれを認めたそうだ。
(え? あの霊帝が?)
劉亮は話を聞いて驚く。
劉亮の前世の記憶では、どこぞの常春の国の小太り少年国王並に、銭にがめつい暗君という評価しか無かった。
こっちの世界に来てからも、会う人会う人全て、皇帝という存在には敬意を払いつつも、玉座に座っている人間に対してはどこか軽蔑したものを持っていた。
唯一違う意見を持っていたのは、洛陽北門で会った曹操くらいである。
(そう言えば、曹操も今は騎都尉として黄巾賊と戦っているんだったな)
苛烈な戦いで名を残す事になる曹操と、この乱の最中に会う事は無いだろう。
だが武勲を挙げて洛陽に戻った曹操とは、また話をしてみたいと思う。
……また相当に精神的に疲れるだろうけど。
盧植の陣には、ちょっとした劉亮の顔馴染みも居て驚く。
「なんでここに?」
それは烏桓族の里長の一人であった。
「ああ、劉亮さんお久しぶり。
立派になったねえ」
里長も懐かしそうに話し掛けて来た。
盧植軍の副将は護烏桓中郎将の宗員。
宗員は、関係する烏桓族からも兵を派遣させたのだ。
なお、鮮卑族からもという意見があったが
「鮮卑は先年まで北部三州を寇掠していた。
彼等を招いても黄巾賊以上に国を荒しかねない。
まだ大人しい烏桓族の方が良い」
となったそうである。
「そう言えば、丘力居大人はお元気ですか?」
「大人は元気みたいですよー。
病気や怪我はしていませんねー」
劉亮の中の人の社畜魂が動く。
営業を掛けた人間に、用事が済んだからと言って放置するのは三流の営業マンだ。
季節な挨拶くらいは欠かさないのが、まともな社会人というものである。
劉亮も、北方との市の度に連絡を取ってはいたが、なにせ劉亮は字が汚い。
手紙を書いても、漢人どころか自分ですら読めない時がある。
まして異民族の鮮卑が読めるわけがない。
だから言伝と、僅かな贈り物だけのものとなり、交流が細くなっていたのを気にしていた。
「故郷に帰る時は一声掛けて下さいね。
大人に今までの没交渉を詫びたいし、贈り物も託したいので」
そう伝えると
「劉亮さんは本当におかしい漢人だね。
普通、役人でも無い人で、こんなに我々に気を遣う人なんていないよー。
詫びたいとか言ってたけど、大丈夫だねえ。
我々だって、あちこち移動しているから大人に会える事なんて滅多にないのよ。
だから交渉が無くたって、気にしないものだよー。
大人も怒ったりしてないね。
でも、貰えるものは貰うし、何時渡せるか分からないけど預かるね」
そう言って笑われた。
劉備の陣に戻ると、またも関羽が不貞腐れていた。
盧植の指揮下に入った涿県の軍勢に、とある黄巾党の拠点攻撃の命令が下った。
戦う為に来たのだから、それ自体に問題は無い。
しかし「公孫瓚を大将とする」というのが関羽の不満の種だった。
人数的に最大で、しかも県令である公孫瓚が大将なのはまだ理解出来る。
しかし劉備は副将ですらない。
副将には公孫瓚の部下がなり、更にもう一人の副将は盧植の帷幕から派遣されていた。
そうなると関羽は、上に何人も居る状態で、どこぞの誰かから命令を受ける事になる。
正直関羽は、まだ劉備の同盟者のつもりである。
命令であれば劉備からのものでも反発する。
劉備はそこを弁えていて、常に
「関さん、これを頼むけど良いかい?」
という言い方をしていた。
だから関羽が従うなら劉備以外は無い。
そして関羽が不貞腐れた理由の二つ目が、張飛に有った。
張飛は暴れ者ながら、元将軍に兵法や歴史を教わった。
そのせいか、どこか士大夫というものに憧れるようになっていた。
故に盧植の下で働く士人たちに、関羽から見れば媚びへつらっているように見えるのだ。
(あいつには期待をしていたのに、とんだ小人だ)
関羽の不満はそこにもある。
まあ張飛に言わせれば
「ろくでもない朝廷の佞臣には頭なんか下げん。
劉備殿の師の盧植と言えば、幽州でも名の知れた名士だ。
その弟子たちも、劉備殿や公孫瓚殿のように私欲無く民を思う者ばかり。
だからこそ、盧植先生の他の弟子や部下たちとも付き合いたいのだ」
と、ちゃんと人を見ているのだが。
なお、前者の理由は劉備によって解消されている。
劉備が
「関さんは誰の命令にも従わなくて良いよ。
俺が責任を取るから。
まあ、動きたい時は俺に言ってくれ。
俺から上に話を通すし、通らなくても機を逃さないよう好きに動いて良いから」
と言ったそうだ。
関羽に酒を進めて、思う存分愚痴を吐き出させて劉亮は以上の事情を知る。
劉亮の中の人は、前世と今の世界合算ならとっくに五十歳を超えている。
いくら関羽とはいえ、二十代の若造の不満を吐き出させて、スッキリとして貰う術は心得ていた。
関羽の感情的なしこりは、愚痴を吐き出した事でそう長くは続かないだろう。
口に出して誰かにぶつければ、気も晴れるというものだ。
だが、関羽の自由行動については問題だ。
劉備が許したって、劉備の取りなしがあったからって、命令を無視されたり、独断で行動されたら腹を立てる者は必ず出る。
(劉備はその辺、交渉はしない人だからなあ)
中の人は推し武将のそういう面を理解して、自分が尻ぬぐいせねばと思うようになっている。
劉亮は劉備にその事を伝えた上で、公孫瓚や盧植に話を通す事にした。
どちらも戦争中で忙しいのだが、それでも
「豪族の部曲は命令に従わせやすい。
だが完全な義兵、しかも頼み込んで来て貰った者に偉そうに命令をしたら臍を曲げる。
彼等の行動をなるべく縛らないで欲しい。
好機とみて動かすべき時は、面倒でも劉備を一回通して欲しい。
たった一手間挟むだけだが、それで全然違って来る」
「関羽の軍勢は全員騎馬だ。
使いどころ次第で大きな戦果を挙げる。
だからこそ、扱いに気を遣って欲しい」
「全部兄・劉備が関羽と約束した事だから、責任は兄が取る。
それを伝えに来た自分も一蓮托生だ。
だから納得いかないと思うけど、どうか許して欲しい」
このように言われた彼等は、面倒臭そうに
「分かった。
後で玄徳には何らかの落とし前をつけて貰う。
関羽とやらの件は玄徳に任せたと言っておけ」
と答えた。
関羽の騎兵は、緒戦で人数を減らして百数十騎。
戦力としてはそこそこだが、全軍に与える影響は小さい。
これが千騎以上だったなら
「ふざけるな!
そんな兵力をどこぞの馬の骨の自由にさせるか!」
と言われただろうが、数の少なさもあって黙認する事にされた。
無論劉亮は、その事を文書にして貰う事を忘れない。
こうして劉備軍は公孫瓚の指揮下で働くものの、関羽の騎馬隊だけは独自の判断で動いて良いという立場を勝ち取ったのである。
劉備たちの黄巾賊との戦いがこれより始まる。
おまけ:
曹操は騎都尉として黄巾の乱で活躍してます。
「蒼天航路」とか横山三国志であった焼き討ちは、あれは皇甫嵩の作戦で、曹操軍は焼き討ちされて逃げ出した黄巾軍に遭遇し、これを撃破したようです。
具体的な内容は分からないものの、後の西園八校尉への抜擢とかを見るに、かなりの戦果を挙げたんじゃないでしょうか。




