建安十五年正月事件
建安十四年十二月、皇帝は天下に対し、霊帝時代の借金全てを無効化する「徳政令」を発令した。
この年、太傅を勤めた袁隗の訃報が届いていた。
皇帝は袁隗を称え、本年中の服喪を命じる。
訃報は十月の事だから、音楽や祭りが禁止されるのは三ヶ月程度であった。
そして自身の即位二十年と、袁隗の葬儀に合わせての恩赦としての徳政令となった。
この式典の為に、朝廷の最高位、丞相曹操は渭水の陣から一時帰還していた。
朝廷の第二位、御史大夫劉亮と久々に揃って朝政に臨む。
「袁尚の乱鎮圧、よくやった」
曹操は劉亮を褒め称えた。
「しかし、袁尚は撃ち漏らしてしまった。
奴は西に逃げたから、馬騰・韓遂に合流するかもしれない。
あんたには迷惑を掛けてしまうな」
劉亮がそう言うと、曹操は悪戯小僧な笑顔になる。
「まあ、こっちに来てもどうにもならんよ。
年が明けて、春になったら奴等は自滅するさ」
曹操のその発言に、劉亮は前世の記憶からある策謀に気がついた。
「何か仕掛けたんですね?」
劉亮が、気づいた策の事には触れず、曹操に尋ねる。
「なあに、馬騰と韓遂は組んだり争ったりを繰り返している。
仲を裂くのは簡単さ。
賈詡があいつらの事を知っているから、上手く離間の計に嵌めている。
成果が出るのが楽しみだよ」
「その賈詡が孫権に仕掛けた事だが、一体何をしたんだ?
呉では孫権が張昭を殺して、大混乱に陥っているぞ」
呉で起きた大事件、それに乗じて合肥から張遼が攻撃を仕掛けた為、周瑜は益州攻撃を中断、帰還命令を受けて後退してしまう。
ただ、益州侵攻自体は止まっておらず、呂蒙を大将、凌統を先鋒、そして諸葛亮を軍師として戦い続けていた。
「孫家の次男坊に、お前が作った酒を大量に贈ったんだよ。
賈詡が何やら薬草を混ぜてはいたがな。
どうやらあの次男坊、大層酒癖が悪いそうだ。
そこにお前の酒精が強い酒、賈詡配合の得体の知れない薬配合を飲ませたら、きっと悪酔いして面白い事が起きるとは思ったが、予想以上だったよ」
爆笑する曹操とは裏腹に、劉亮は
(エゲツない謀略を仕掛けたなあ。
孫権が酒乱って調べ上げて、そういう事したんだろう?
こうなる可能性を十分計算した上で。
賈詡っていうのはそういう軍師だけどさぁ……)
とドン引きしていた。
「埋伏の毒」こと「酒毒の計」は張昭を狙ったものでは無いが、予想以上の効果を出してしまったようだ。
なお、呉では
「劉亮殿の新酒は、気持ち良く酔えるが、理性を失わせる恐ろしいものだ」
として、賈詡ではなく作成者の劉亮の方が警戒されている。
賈詡の謀略にドン引きしている劉亮だが、陰謀は彼の身にも降りかかる。
劉亮はそれに気づいていない。
建安十五年、許都では正月を迎えていた。
曹操は渭水の陣に戻ってしまい、朝廷における最高位は劉亮となる。
劉亮は新年の祝いの宴を催さねばならない。
許都に居る文武百官を招いた酒宴を仕切る。
曹操軍主力不在な為、主に皇帝に忠誠を誓う者たちが参列し、他には孔融派やその他の派閥の者たちが列していた。
彼等は裏では蒸留酒を飲んでいる癖に、「朝廷で飲むには適さない酒」としている為、以前の酒を供さないとならない。
(いや、皇帝への献上品なんだけどね、蒸留酒)
と内心文句を言うが、宴席で喧嘩もしたくない。
劉亮は蒸留酒では全く悪酔いしない癖に、後漢時代の酒では酔って失態を犯す危険性があった。
それ故、御史大夫たる者がだらしない姿を見せないよう、緊張して酒を飲んでいた。
結果、非常に胃が痛くなっている。
「閣下、私は吉丕と申しまして、朝廷の太医令に任じられております。
陛下より、閣下がお疲れだろうという事で、診察するよう申し遣りました」
「これは、ご苦労様に御座います。
後日、小臣も参内してお礼申し上げますが、太医令殿からも陛下には劉亮が礼を申していたとお伝え下さい」
「承りました。
では、お脈を取らせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「はい、お手数をお掛けします」
劉亮は吉丕と二、三会話をする。
劉亮の「三国志」の記憶は、詳しいものもあれば曖昧なものもある。
もしもこの医師が、「吉平」もしくは「吉本」と名乗っていたなら、事件との関係を思い出したであろう。
だが吉丕という名前に覚えが無かった為、全く警戒していなかった。
「閣下は胃の腑を痛めておられる模様。
休暇が必要ですな」
「ではありますが、朝廷に出仕する身では身勝手な休みも取れませんよ」
「御精勤痛み入ります。
ですが、やはりお体が大事です。
陛下の御前より下がられた後、お出かけをなさらない日が必要です」
「分かりました。
働きづめは確かに良くない。
社畜の時の癖が出てしまっていました」
「は? 社畜?」
「いえ、こちらの話です。
近々宴会も無し、御史大夫としての仕事も休む日を作ります」
「出来ればその日をお教え頂きたいのですが。
その日、私が改めて胃に効く薬を持参したいと思います」
「それは有り難い。
では決まり次第お伝えしましょう」
こうして劉亮邸を辞す吉丕。
それを誰かが隠れて眺めていた。
後日、一通り正月行事が終わった日に、午後からはずっと役宅にいるという劉亮からの知らせを受けた吉丕は、すぐに同志たちの元に向かった。
「劉亮めは一月十九日は静養の為、ずっと屋敷に居るそうじゃ」
「そうか、ではその日の来客は無いな」
「うむ、儂が薬を持って訪ねるだけだそうな」
「よし、他の朝臣に危害が及ばぬとあれば、そのまま劉亮を討ち取るぞ」
劉亮は暗殺の標的とされていたのだ。
劉亮も廷臣たちから恨まれたり、恐れられたり、嫌われている自覚はある。
なにせ司隷校尉部まで異民族を侵入させた極悪非道の者、逆賊曹操の親友、これまでの仕来たりを変える変革を行った秩序の破壊者、挙げていけば色々あるのだ。
だが彼等は今まで行動を起こせなかった。
曹操が目を光らせていたからである。
その曹操は今、遥か西方の戦場に居て不在。
実行するなら今しか無い。
その日、吉丕は劉亮の屋敷を訪ねる。
その背後には、曹操軍の装束に身を包んだ武装集団が付き従っていた。
「本日、お約束していた太医令の吉丕で御座います」
兵を隠すと、吉丕は堂々と名乗る。
門に入り、医療行為の後で礼の宴が開かれる筈だ。
胃を痛めた劉亮は飲まないだろうが、恐るべき烏桓兵は酒を飲むだろう。
そうして酔い潰れたのを確認の後、吉丕が帰宅するとして門を開ける。
そこを襲撃し、曹操軍によって劉亮が襲撃された形にするのだ。
まず最初の手順として、堂々と名乗った吉丕は邸宅に招き入れられた。
そこで彼は、門内が異常な事に気づく。
警備の烏桓兵が完全武装で待機していたのだ。
「御史大夫様、これは??」
驚く吉丕に、別の者が答えた。
「其方たちの企てを挫く為だ。
露見していないとでも思っていたのか?」
そう言ったのは司馬懿であった。
時間を遡る。
吉丕が劉亮の屋敷を訪れた時、曹操の意を受けた側近の劉曄が様子を探っていたのだ。
劉曄は亡き劉虞とは同族であり、曹操に仕えていたが劉亮に対しても特に悪意を抱いていない。
無関心が正解であろう。
劉曄は既に、許都の中で何らかの陰謀が企てられている事を、密告にて察知していた。
それで吉丕らを探らせていたのだが、それが御史大夫劉亮の元を訪れる。
朝廷の重臣が陰謀に加担していたなら重大事だ。
劉曄は先に劉亮の軍師を務めた司馬懿に相談し、劉亮の人となりを聞く。
司馬懿は
「御史大夫殿は頭は大層良いが、陰謀に関しては明らかに間が抜けている」
と答えた為、劉曄もどうやら巻き込まれただけと判断した。
実際に会ってみると、世間で噂されている「遊牧民を使って漢を荒した大悪人」とは違う、凄まじい知識と裏腹に、乱世の人間とは思えない抜けた部分がある人物と見受けられた。
そこで思い切って陰謀の話をしてみると、吉丕から休養を取って屋敷に居るよう勧められたという回答を得る。
これで劉曄の中で繋がった。
彼等は劉亮を殺すつもりである。
しかし、劉亮の周囲には烏桓兵が待機している。
油断させて急襲するのが手であろう。
劉亮の隣で劉曄と司馬懿が吉丕を睨む。
吉丕は温厚そうな医師の仮面を外すと、凶暴な顔で
「おのれ劉亮!
この医の冒涜者が!
代々漢が培った医の伝統を穢したお前を許す訳にはいかん!」
と小刀を振りかざして襲って来た。
劉亮が例の董卓から貰った刀で迎撃するより前に、司馬懿が隠し持っていた分銅を投げつけ、吉丕を打ち倒す。
「備えあれば憂いなし、私の好きな言葉です」
司馬懿のその台詞を劉亮は受け流す。
その映画を彼は見ていないのだから……。
直後、門内の不穏な様子を察した、曹操軍の装束の襲撃部隊が劉亮の屋敷に襲い掛かって来た。
「楼煩殿、怪我の中悪いが、烏桓兵の指揮を願う」
司馬懿がそう言うと、楼煩は黙って頷き、迎撃の指揮を執る。
すぐに事態は好転する。
河南尹として曹操軍の留守を預かっていた夏侯惇が、劉曄の依頼を受けて密かに洛陽から許都郊外に来ていたようで、劉亮邸を囲む敵兵に対して攻撃を仕掛けた。
「我々の仕業だと思わせる小賢しい策!
そんな手が通じるものか!
良いか、同士討ちを恐れるな。
同じ装束でも、強いのが本物の曹軍、弱いのは敵軍だ!」
(どういう敵味方判定だよ)
夏侯惇の怒号に劉亮は内心ツッコミを入れる。
だがともかく、本物の曹操軍は強かった。
これにて陰謀勢力は壊滅。
多くの捕縛者を出して、劉亮暗殺計画は失敗した。
「お前は少府の耿紀、それに金禕と韋晃。
丞相から目を掛けられていたにも関わらず、何故このような事をした?」
劉曄が尋問すると、耿紀が笑いながら
「笑止!
我等は漢朝の忠臣。
曹操の専横を挫く事こそ国家の為なのだ!」
と叫ぶ。
「だが、劉御史大夫は丞相の友ではあっても、家臣ではない。
御史大夫殿を討っても、悪いが丞相に対する害にはならん」
そう司馬懿が言うと、耿紀は
「そんな事は百も承知だ、馬鹿にするな!
劉亮とて漢長年の仕来たりを改め、そこに居る蛮族を使って世を乱す悪人に変わりない!」
と怒る。
彼等もまあ、趙雲同様「劉亮が行った事が生んだ反作用」と言えた。
「劉亮滅ぶべし」
金禕も吠える。
それを聞いた劉曄が
「やはり、丞相と左将軍(劉備)の離間が目的か……」
と言うと、三人の首謀者と吉丕はギョッとした。
鈍い劉亮でも、ここまでヒントがあればいい加減に気づく。
確かに劉亮個人も恨まれている。
しかし事はそんな小さいものではない。
十年の和睦の証人として、劉亮は劉備陣営から曹操陣営にレンタル移籍したものだ。
この劉亮が、曹操と劉備を繋ぐ扇の要となっている。
だから曹操軍によって劉亮が殺されたら、兄の劉備は曹操と戦う事になる。
劉備は朝廷の忠臣……と勝手に思われているが、劉亮なら色々あるから死んでも構わない。
そういう事なのだが……
「あとは、この件の背後を探らねばならん。
朝廷の太医令に、丞相閣下から信任された少府を動かすとなると……」
そこまで劉曄が言うと、まず韋晃が大声を挙げながら劉曄の言葉をかき消し、そのまま頭を敷石に強く叩きつけて自害をした。
耿紀、金禕、そして吉丕も司馬懿の制止命令より先に舌を嚙み切って自害。
証言する事なく首謀者は命を絶った。
「無駄な事を。
我等が何も察する事なく行動していたと思っていたのか?」
「ですが、証人を失ったのは私の失態です。
証言を得る為に、轡を噛ませておかなかったのが悔やまれます」
劉曄と司馬懿の事務的な会話を聞きながら、劉亮は
(そうか……。
献帝が俺を排除しようとしたのか。
そう考えざるを得ないな。
まったく、以前劉備が言っていた事がよく分かったよ)
と得心している。
その昔、曹操暗殺計画に巻き込まれ、密勅まで渡された劉備は
「賢い子供が、ずっと陰謀だの政争だの暗殺だのの場に居続けて、そっちの方で才能を伸ばして来た。
上に立つ者が臣下を暗殺とは穏やかじゃない。
堂々と罷免すれば良いんだ。
反撃されるのが怖いから暗殺、それも自分ではなく側近に任せる。
暗殺や政争を繰り返す皇帝や側近は、その次の脅威にも同じ事をするだろう」
と言っていた。
自分が暗殺されそうになり、劉亮も確かにそうだと思う。
皇帝劉協は、徳政令が自身の名で発布され、天下万民から讃えられた時には
「これは全く安楽侯(劉亮)のお陰である。
朕は決して侯の忠義を忘れぬ」
と感謝の言葉を直々に発した。
その同じ顔で、自分を殺そうとしたのか。
確証は無い。
しかし、劉亮の中で潮が引くかの如く、漢朝への思い入れのようなものが後退していった。
如何に漢朝の忠臣だった盧植に何かと託されていても、何かもうどうでも良くなる。
趙雲や諸葛亮を味方に出来なかっただけでなく、皇帝すら隙有らば命を狙って来る。
(これでは漢朝はもたないな。
黙って傀儡に徹していれば、曹操には皇帝の座を奪う意思なんか無いから、そのままで居られるのに。
こういう事を繰り返していれば……)
もしかしたら、漢帝国に幕を下ろす役回りは自分が担うかもしれない。
曹操には簒奪の意思が無いが、その子、共に戦った曹丕は分からない。
この世界では、新しい皇統を立てたい旧袁紹配下は、曹操ではなく劉備の方に流れ込んだ。
劉亮は、朝廷に仕え続けて曹一族の側に居ても、許都を離れて劉備の元に帰っても、帝位を譲らせて今上皇帝を「献帝」にする役を押し付けられる予感がする。
悪名なら既に轟いているし、生命を狙われたとあらば皇帝の弱みを握ってるようなものだ。
(なんか、逃げられそうに無いな。
もう逃げようとは考えないけどさ……)
そう悶々としていた劉亮の肩を、夏侯惇がガシっと掴んだ。
「まあ、そんな難しい顔しなさんな。
あんたの事は、俺たち曹軍が責任を持って護るからさ。
ところで、助けてやった礼を求めて厚かましいのは承知。
酒を飲ませろ!
孟徳が好んでいる酒だが、尚書令殿(荀彧)が五月蝿くて、中々口に出来ん。
こういう機会でないと飲む理由が出来ない。
さあ、飲ませろ!!」
仲間ではあっても、ちょっと緊張してしまう劉曄や司馬懿とは違う、この豪傑の明け透けな態度に劉亮の胃は救われたのであった。
……飲む事で、別な意味での胃痛に襲われる事になるのだが。
おまけ:
夏侯惇「それでな、孟徳の奴も酒を造ったんだが、案外ケチでな。
九回醸したものは天子用だと言って俺には飲ませないんだよ。
あの色味が良いのにな。
俺たち用は七回から八回の奴だ。
まあ、これもこれで美味いのだが……うむ、盃が空いた。
貰うぞ!」
劉亮(なんでウィスキーをストレートで飲んで、ぶっ倒れないんだよ、このオッサンは!)
司馬懿「酒ッ!飲まずにはいられない!」
劉亮「なんか言いましたか?」
司馬懿「いえ、ちょっと酔いに任せて、子供向け芝居の台詞を口にしてしまいました」
劉亮「……それ、本当にこの時代の芝居の話か?」
司馬懿「はて? 何かお疑いでも?」
結局司馬懿は、しらばっくれて何も言おうとしなかった。




