嵐の前の鍛錬
シリシャス教国は宗教を巧みに使って生き残ってきた。
しかし、それはシリシャス教国の思惑だけでもない。上手くかき分けて泳いでいるようで、実際には生簀に入れられている感があった。
そうしているのは勿論、四方の国々。すなわち北のサフィー騎士団領国。南に位置し唯一海に接する地点があるコラン商業連合。東のブルゾイ王国。西のマンイン国である。
教国という土地をどこかが独占するのを避けたい思惑を利用して、シリシャスが存続しているように、周辺4国は4国で教国を折衝地域として上手く活用してきたのだ。
シリシャスの権威は一定以上は上がらない。教国の首都に宗教的な援助を積極的に行う反面、首都タイトが本拠地である宗教ばかりでもない。何より、他の国からすればシリシャスは首都以外にはさしたる価値が無い。
多くの点を省いても、教国と4カ国の国境は目まぐるしく変化している。最終的に落ち着くところに落ち着くだけで、過程には紐が絡み合うのだ。
加えて、農地などには使えるため、シリシャス教国は度々の攻撃にさらされることになる。これを300年続けてきた歪みはいつ破局するか分からない火種と化していた。
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神儀省の新人調停官、ロイコは今日も爽やかな満足感と共に目覚めた。
新しい居室を選ぶ時には驚いた。広い部屋と落ち着いた家具。それらが全て清潔に保たれていたのだ。ロイコは暮らしてみて分かったが、アゲイト教会で働くのはコライト一人で、彼は律儀に教会の清掃を欠かさなかったのだ。
それを話題に出したところ、コライト曰く『掃除とか、単純作業は好きなんですよ。まぁ仕事でもありますしね』とのこと。ついでに日頃からの鍛錬も兼ねているようだった。
ロイコは公私はしっかりとわけようと心がけてはいるが、コライトは中々の好漢であると感じた。資料で確認した時折起こす問題行動も、日頃の彼の姿を見ていると、そうした行為を行う人物には見えないのだ。
ただ……好ましく思う反面、時折怖いと感じることがあるのも事実だ。説法から家事まで、出来不出来はともかく全てこなそうとしている。何気ない行為のようでいて、一瞬鬼気迫るような時がある。
単純に見ても普通の感性を持っていないのも理解できた。コライトは眷属神まで到達しながら、楽をしようという発想が無い。
楽をするのは何も悪いことではない。効率化に繋がる要素でも有るのだ。大体にして二人しか住んでいない教会を完璧に保つのは、労力の無駄だろう。
つまりコライトは熱意と義務感が有りすぎて気色が悪いのだ。人間味を見せながら、ネジが外れたカラクリのように延々と回り続ける。不断の努力と言えば聞こえは良いが、文字通りの意味でそんな真似ができる者はほとんどいない。
まぁアゲイト教らしいと言えばそれらしい。そう締めくくって着替え始めたロイコの耳に、何かが打ち合う音が響く。半寝間着のまま、窓に近づくとコライトが誰かと戦っているようだった。
慌てて、適当に制服へと着替えてロイコは走って裏庭へと向かった。
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裏庭へと降り立ったロイコが見たのは壮絶な打ち合いだった。最初は注意をして、止めさせようと思っていたが幾つもの驚きで頭からその考えは弾き飛ばされた。
「うそ……あれって……」
コライトを相手に二刀で立ち向かう漢を知らない者こそ少数派だろう。少なくともこのタイトの街において、絶大な知名度と人気を誇る存在であることに疑いは無い。
異郷の聖職者に見える禿頭と、攻防一対の二刀流。その眼差しは岸壁に挑む登攀者のソレだ。
「闘技場絶対王者、フォス!?」
あまり世間との繋がりをもたないロイコですら知っている名と風貌。それとマイナー宗教の神士が戦っているのは、どうしたことなのか。ロイコも僧兵としての最低限の訓練を受けた身。この人の極限を見ていたいという魅力に勝つことはできなかった。
ロイコの目からは分からないが、フォスの使う刀は刃引きしてある。コライトも戦闘用の槌ではなく、ただの杖だ。仮に二人の動きを目で追えるものがいれば、これが練習試合だと分かっただろう。
それでも、観客が大枚はたくことになろうと見てみたいことは間違いない。ロイコがどこから見落としていたのかは分からないが、既に始まってそれなりに続いた後らしい。
フォスは禿頭から汗を流していた。いかなる強豪相手でも巧みにさばく剣士にして、時に崖から飛び降りるような大胆ささえ見せる男。だからこそ、観客が引退を望まなかった闘技者。その姿が今では闘技場では見ることができない必死さに満ちていた。
驚異的な足のバネを利用して、一瞬で間合いを詰め、そこから繰り出されるは最早同時に発生しているとしか思えない6連撃。それをコライトは杖を回転させての回避を行い、わずかに覗いた隙から縦に棍を跳ね上げる。
それをフォスは大袈裟とさえ言える動きで躱す。飛び退いては下がり、時に曲芸師じみたバク宙さえ披露する。
そしてロイコも気付く。フォスは何としても距離を詰めて、一瞬で勝負を決めなければならないのだ。目を疑うような連続の閃光撃さえ、攻撃ではなく防御であった。
「これが達人、これが神士……」
フォスの技量は人界において卓越している。それこそ神ですら称賛するような域にまで、青年と中年の間程度の年月で到達しているのは間違いなく快挙だ。世界中を回っても、フォスと技量で同等の闘技者など指で数えられるだろう。
一方のコライトも異常さにおいては負けてはいない。惨憺たる鍛錬で限界を幾度も超えた肉体は、天空の域に足をかけている。ただの村人であったコライトにはフォスほどの剣才は無い。
かつて、コライトは迷わずにその壁を突破する方法を描いた。要は別の分野で超えればいいのだ。筋肉が骨格という限界に縛られるという事実を無視して、ひたすらに運動能力を向上させた。
結果として誕生したのはただひたすらに強い肉体。ただの人間など触れただけで砕くまでに至った極みは、どんな天才だろうと超えられられぬ。
現にフォスの連撃は、全てがコライトの攻撃の軌道を限定させるための牽制だ。金属と木材の違いなど、何の役にも立ちはしない。杖の攻撃を受け止めようものなら、得物は儚く砕け散るだろう。そして、それほどの威力が体に触れれば、それだけで重症や死を招く。
フォスが再び前に出る。その構えから、最後の攻撃に全てを賭けるつもりだろう。これまで通りの杖への牽制撃。
「ぬっ!?」
その攻撃で双剣をわずかに棍へと差し込み、両の手を足へと変えて絶対王者は飛翔した。まさに賭けだ。高所からの攻撃は威力を凄まじく引き上げる反面、見切られてしまえば死へと直結する。
その結果は……
「無念。未だ届かず……」
「流石に冷や汗がでますね」
最後の一瞬、コライトは持っていた棍をあっさりと手放して、拳を空中へ繰り出していた。その拳は軽くフォスの額に触れただけだったが、実戦ならそれで頭は粉々になっていただろう。コライトの勝利だ。
なんとなくロイコはその戦いに拍手した。それだけのものを見せてもらった礼が不器用に漏れ出した。フォスがつるりとした頭を撫でる。フォスは汗まみれだが、コライトは特に汚れも無い。
「いやはや、観客のいる前で負けるとは……手前の立つ瀬はありませんな」
「お二人は、ご友人なのですか?」
「うーん。戦友というべきか。同じアゲイトの信徒にして、共に己の最高点を見極めんとする同士でもあります」
フォスがアゲイト教徒と聞いて、ロイコは驚きつつも納得した。こんな猛者で無ければ、奇特なアゲイト教徒になどならないだろう。しかし、鍛錬相手になるとはコライトも良いところがあるではないか。
そのコライトは少しだけ壁に背を預けて、空を見上げる。日が随分と長くなったのを思い返しつつ、晴れた天気から何かを感じ取ろうとしている。
「そういえば……そろそろあの時期だな」
フォスとロイコが挨拶をし合う中、思い出したようにコライトは呟いた。
剣呑のようでいながら、儚げに。彼らしくない態度だった。
前回はもう6年前だ。ならば嵐が来るだろう。季節は春を過ぎようとしているのだから。
その予感のする時期に、調停官が派遣された。
いかにもな状況にコライトは頭をかいた。自分としては好きでも嫌いでもないが、飛躍の一助になるだろうかと、それだけを楽しみに待つことにした。