コライト
深夜……誰も訪ねて来ない時間帯だ。大宗教ならそうした不意の来客もあるかもしれないが、ことアゲイト教ではあり得ない。
そんな時刻にコライトは教壇の更に一段上にある女神アゲイトの石像の前に跪いていた。
一見すれば敬虔な者の祈りであり、神に直接仕える神士の鑑だと言えるだろう。しかし、実態は違っていた。コライトは己を鍛えて、神域へと足を踏み入れた。格の低い眷属神であろうと、その域にいるのは間違いないのだ。
『今回の救済……やり過ぎたわね、コライト』
「は……」
『あの少女は例え下働きに落ちようとも、決して離れない。そうした“選択”をした後だった。そこで再び選択を迫り、捻じ曲げた。あの子に与えるべきは練磨の機会であり、上手くいく選択ではないわ』
傍から見れば石像だが、コライトにはその姿がはっきりと見えている。年若い女性の姿で、自然体でゆったりと座っている。その神は瑪瑙に相応しく、気まぐれに変化する。今の髪は赤色であり、怒りの表明であろうか?
『あなたも末席とは言え、現人神。少しは自覚を持ったと思っていたのだけれど、違ったようね。我々が自由な存在と言っても、一定のルールを設けなければ秩序が壊れてしまう』
「我らも戦場に出ることもありますが……」
『それはそれ。これはこれよ。選択肢を提示するのは良いけれど、特定の選択肢がお得になると誘導するのは、ワタシとあなたに許されていない。その年齢で人を理解しているのは素晴らしいけれど、結末が分かるのが困りものね』
アゲイトが教えるのは、どのような事も当価値であるということだ。あのまま少女が心無い親族に痛めつけられるというのは確かに痛ましく救いたくなるが、あの少女は心を痛めながらも耐えていた。そのまま成長すれば、意外な変化を見せることもあり得た。
しかし、コライトはそれを望まなかった。似たような事例から過程と結末を予想して、誘導してしまったのだ。例えそれがより良いものであっても、純粋な選択とは言えない。
『よって罰を与えましょう。もちろん抵抗して構わない』
「応じます」
アゲイトの周囲を虹が回る。あらゆる色に染まる瑪瑙と同じ、千変万化の力。女神にとっては遊びのようなものだが、それにコライトは対抗しようと全力を振り絞る。
コライトの力は1色のみ。その名の由来となった宝石の持つ力……帯電を用いるしか無い。強い力は反発させ、弱い力のみを引き寄せる。神としての力を、若いコライトは十分に扱えない。
出力が違う。年季による技が違う。結果として、全身を痛めつけられたコライトが地を這うことになる。
「ぐむぅ……!」
『まぁ久方ぶりに生きた信者が増えたのだから、このぐらいにしておきましょう』
言いながら、アゲイトは罰を受けたコライトを面白く思う。いつもそうなのだ。この男は天地の差がある相手に、本気で勝とうとする。先程の帯電防御も抵抗というより、アゲイト相手に勝とうと雌伏の状態だった。
自己の才能、現在の実力、そして力量差。それを分かっていながら、勝利を得ようとあがく。この男にとっては万分の一は掴める確率なのだ。
『あの時のガキが、よくもまぁここまで育ったこと。運命を捻じ曲げる……ワタシも人のことを言えないようね。精進が足りないというやつかしら……寿命が無いというのも困りものね』
一瞬、コライトは跳ね上がって反撃に転じようとしたが、再び拝礼のように倒れて動かなくなった。アゲイトが郷愁に耽ろうとした隙を感知して、叩き潰すつもりだったらしい。
自分を超え、さらに上へ上へと螺子が外れた男の姿に笑みで祝福し、アゲイトは消え去った。もとよりコライト以外には見えていなかったのだが、ともかく場を去った。
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隙あらば、己の神にすら悪意なく弓引く求道者。最も才能がある武威を昇華し続け、とうとう眷属神にさえなった神士。他者に覚悟を説き、それでいて人間性が色濃く残る男。
そんな傑物であるコライトにも、当然過去はある。……コライトの前身は信じ難いことに、やや臆病な普通の少年であった。
生まれた村はどこにでもある場所であり、両親もごく普通の人間だ。
彼の転機は村を山賊だか、盗賊だかに襲われた時にある。
世の中には魔なる者や、信じられない凶獣だかもいるらしいが、人間を相手に被害を出すのは大抵は同じ人間だ。欲しい者が一致している以上、当然のことだ。
襲われたというが村が壊滅する勢いがあったわけでもなし。見せしめに数人殺された後は、滞りなく物資が差し出された。
コライトが許せないと思ったのは、それが初めてだった。
反撃を恐れながら、生活の糧を要求する賊達。算盤勘定で物資を渡す村人達。なんなのだ。なんでそうなるのか。その儀式めいた行為は一体何なんだ。
予定調和でことが済むなら、見せしめなど必要ないだろう。恐怖を知らしめるというのなら賊達が強くなればいいのだ。そもそも違法行為で生活をする理由が全く理解不能だ。他者を踏みつけて楽をしたいのだろうが、結局のところは討伐を恐れる。それどころか、村人の抵抗さえ恐れる。逃げ回る努力は普通の生活よりも厳しいはずだ。
村人は村人で、防備を固めることもせずに言われるがままだ。その方が効率的で、自分が犠牲になる可能性が減る? ああ、だったら見せしめとやらになった連中はなんなのか。嫌われている者達や問題の種を、素知らぬ顔で前面に出していたのが子供にさえ分かるほど透けて見えるぞ。
寒々しい。このやり取りの予定調和には、どこまでも計算が付きまとう。損得で命の値段を測って、結果は最初から見えている。賊達ですら自分が死ぬ可能性から目を逸しているから、恒例行事のように流れていく。
自分だけ助かろう、というのは別に悪くない。だが仕方なかったと諦めて、“選択”を放棄するのが許せない。
気がつけば全く無関係のコライト少年は、賊の一人を殴り殺していた。噴出する怒りは、自己防衛のために放棄された責任に向かっていた。これほど自身の中に強い感情があったのかと驚くほどに、コライト少年は許せない。
理屈、損得、結構だとも。
だが、お前たちは俺に選択の自由を与えなかった。いや、他ならぬ自分が選択しようという発想さえ無かった。感情が自分に向かった瞬間、恥と悔恨に導かれて怒りは正義へと変わった。
「殺してやる」
ぞっとするほど静かな声が自分のものだと、わからないままコライト少年は行動した。薪棒でおもむろに賊を殴りつけ、何度も打ち付けて歪ませた。
予定外の反応に賊も村人も停止した。その静止した時間を感じた時、コライト少年は初めて思った。ざまをみろ、俺は自分で選んだ。例えこれから死ぬとしても、お前たちの思惑を無視してやった。
しばらくして虚勢を取り戻した賊たちに結局はなぶり殺しにされようと、己は後悔なぞ無い。
詫びのため村人達から首に縄をかけられて縛り殺される瞬間に、鎖が付いた石材が飛んできて賊と村人を一人ずつ首を引きちぎる。酸欠のまま、しばらく悲鳴と轟音を遠くに聞いた。
首の圧迫が突然なくなった。
「見事だ。少年。アゲイトの名の下に君の行動が正しいと私は知る」
「かほっ! 見ていただけなのなら、アンタもあいつらと変わらない……」
「然り、後から助けても意味はない。自分より高潔な者を見出してようやく私も行動した。女神の加護ぞあれ。私を含めて、君だけがあの場で“選択”したのだ。どれほど愚かであろうとも」
救い主は先代のアゲイト教神士。
ただの少年ではなく得体の知れない怪物と見なされたコライト少年は、村を追放された。アゲイト教に帰依した少年は、こうして練磨の道を選び、自身に突き抜けた才能があったことを知るのだった。