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子宮

作者: 春野わか

 照明を落とすと一瞬だけ静寂に支配されるが、瞼の裏には残光が焼き付いていた。

 画面を下に向けたスマホから漏れる細い光を横目で捉える。

 闇の中で強調されたブルーライトが眼球に突き刺さり、朦朧とする意識を覚醒させた。

 私はスマホの電源をオフにして、完全に光を消し去った。


 視力が役割を失えば、今度は聴力が拡大する。

 

 雨がシャッターを叩く音。

 雨でも風でも構わない。

 忌まわしい音を消してくれるなら。


 キィ


 部屋のドアがゆっくりと開く。

 絨毯に沈む足音。

 身体中が汗ばんで、何度繰り返されても慣れる事が無い。

 悪夢としか言い様のない悪夢には。

 

 ベッドの上で身を固くする私を大きな影が包んだ。

 スプリングが軋む。

 項に迫る荒い息遣い。

 

 パジャマの下に入れられた手が汗の上を滑り、私の乳房を掴んだ。


───


 仏壇の香炉に立てた線香の白煙が、不可思議な模様を描きながら宙に溶け込んでいく。


 苦手という人もいるが線香の匂いが私は嫌いでは無かった。

 人工的なフレグランスよりも脳内に染み、穢れを浄化してくれると感じるからだ。


 会社の同僚として知り合った主人を癌で失くして五年。

 一人息子の勇一は3ヶ月後には高校生になろうという年齢になっていた。


 41歳で老いを止めた夫の遺影に手を合わせる。

 私は夫の年齢を既に越してしまった。


 二年間、開く事の無かったアルバムの表紙には微かに埃が付着していた。

 勇一誕生時から小学校低学年の頃までの写真が充実している。

 遊園地やキャンプ場での家族写真。


 楽しかった過去を追憶出来るのが写真の良さだが、現在悲しみに溺れる者を更なる悲哀に突き落とすアイテムでもある。


 「あの頃は良かった。」


 ページを捲る。

 夫と息子の笑顔を焼き付けた写真に私の心は沈み涙が溢れ、アルバムを濡らした。

 頬に垂れた涙とフィルター上に落ちた雫を指で拭う。


 夫が逝ったのが勇一が手の掛かる幼児期で無かったのは幸いだったのかもしれない。

 ただ、思春期を迎えようとする勇一の成長に夫の死が影響しなかったかと言えばそれはない。


 家計を一人で支えなければならなくなった私と勇一との会話は減り、成長に伴い寡黙になる彼の心情を理解するのは難しくなっていった。

 私の身長を既に追い越し、少年から男の顔つきに変わりつつあるとはいえ、まだまだ子供だ。

 私が今いなくなったら彼はどうなるのだろう。

 そんな不安が兆す時がある。

 陽が傾き闇の比重が増えると私の心も同時に鬱として、悪夢に捕らわれてしまうのだ。

 その闇には勇一の将来も含まれていた。


 息子に対して笑顔を作るのが徐々に辛くなってきた。

 それは勇一が中学三年生になる前から続いていた。


 内緒で心療内科に通い睡眠薬を処方して貰っているが、悪夢が部屋をノックすると緊張感で神経が張り詰めてしまう。


 医者に打ち明けても、睡眠不足による幻覚、ストレス、心に潜む過去のトラウマが要因の可能性ありと診断を下された。


 心身が磨耗していた。


 不安を解消する為の答えを求め、アルバムを開いたのかもしれない。

 勇一誕生時、顔を真っ赤にして泣く我が子を抱く夫の写真をソッと撫でた。


 平日の午後、買い物から帰ると私は夕飯の支度を始めた。

 まな板の上でネギを刻む。


 「勇一、夕飯出来たわよ。」


 二階の部屋の外から呼ぶが返事は無い。

 ゲームなのかYouTubeなのか、中から音が洩れてくるのでいる事はいるのだろう。


 仕方なく夕飯をトレーに載せ、声を掛けてから部屋の外に置く。

 勇一の顔立ちと身長の高さは主人譲りだ。

 暫く碌に顔を合わせていないが。

 

 一人きりで食事を終え、足音を潜めて階段を上がり勇一の部屋の前を窺うと、皿やコップの中身は綺麗に平らげられていた。

 ほっと息を吐く。


 思春期の男子の考えてる事は本当に分かり辛い。

 中学入学を境に人間関係や学習面での複雑な悩みを抱え、瞳から光が消え内に籠るようになった。

 イジメもあったようだ。

 そうした事に向き合う余裕を持てなかった事には後悔しかない。


 脳の中で憂鬱な記憶を閉じ込める為の器が膨れ歪んでいく。

 中に詰め込んだものは腐臭を放ち溢れ、体内の血まで濁らせる。

 頭痛を堪えながら食器を洗い、テレビを付けてソファに身を沈めた。


 子宮。


 子宮はきっと柔らかく、このソファよりも弾力があり、ベッドの中よりも温かいのだろう。

 胎児は子宮の壁に守られ、羊水を揺り篭として夢を見られるのに。

 母たる今、胎児の時の記憶があったなら。

 もう一度子宮に戻れたなら。

 


 何時からだろう。

 入浴中に視線を感じるようになったのは。


 意識が深く堕ち、気付くと二階の躍り場に立っていた。

 湿った匂いにつられて小窓に目を遣ると、隙間から雨が垂れ絨毯に染みを作っていた。

 静かに窓を閉じる。 


 私は毎日、現実と悪夢の間を行き来している。

 既に何方が現実で夢か区別が付かない。


 睡眠薬で夢現にどんよりと鈍る五感が、絨毯を踏む足音を捉える。

 そっと開かれるドア。

 

 途端に捕食者に貪られる小動物のように筋肉が硬直する。

 ベッドに忍ぶ影。

 体臭と耳に吹き込まれる湿った息。


 パジャマの中に潜り私の乳房を毎晩求めてくる大きな手。

 もう片方の手が下着ごとズボンを引き摺り下ろし、指が私の子宮を探り始める。


 「ママ……」


 変声期を迎えて低くなった声に似合わない甘えた囁き。

 だんだん手の動きが激しくなり、背後の影が私を突き上げる。

 嗚咽を堪える私を置いて、ベッドから抜け出た影がドアを開けて去っていく。


 淀んだ夢に溺れ目覚めれば、朝食を用意して息子の名を呼ぶのだ。


 「勇一、おはよう。」


 陽光を反射する真っ白なテーブルクロスと食器が私の迷いを退ける。

 夢なのだ。

 フローリングの床が波打つ。

 何度目覚めても夢見の儘夜を迎え再び悪夢が重ねられていく。

 日々、心が黒く黒く塗り潰されていく。

 

 両手で握り締めた細いロープに視線を落とす。

 指の筋が簡単な作業さえ困難な程に強張ってしまっていた。

 脳内で大量に分泌される幾つかの物質が、私の動きを阻んでいるのだ。

 息を何度も吐き、両手を開くよう努めた。

 

 汗ばんだ両手の平にはロープの跡がくっきりと刻まれ、赤くなっていた。

 片方ずつ開閉して血の流れを促す。


 悪夢を終わらせるのは太陽では無い。

 暗闇から抜け出すには私の手で終わらせるしかないのだ。


 子宮から生まれ出た悪夢を消す為には子宮に戻すしかない。

 生み出したのは私なのだから。


 「勇一。」


 ドアを開けて息子の名を呼ぶ。

 返事は無かった。

 


 

 

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