80 幽世(かくりよ)
「魔の者……ですか?」
私は巨大な水球の中で身じろぎもしない老人に聞いた。
ウンディーネ二人は部屋を出ていったので、いまこの部屋にいるのは私とシェリーさんだけだ。
シェリーさんの連れてきた騎士は部屋の外で見張りに立ってる。
――『幽界』あるいは『幽世』、という言葉を聞いたことはないか?
「いえ、ありません」
シェリーさんを見てみるが、彼女も小さく首を振る。
――だが、エーテルはわかるだろう……
「それはまぁ」
――みな、魔法なる不可思議な現象を当然のことのように思いこんでおるが、考えてみればこれほど理に合わぬ現象もない……
「そりゃそうだけど」
まさか、この世界の住人からつっこみが入るとは思わなかった。
――魔法と、その発動に必要なエーテル……これらは幽世に充満した精神の澱が、現世に溢れ出したものだ……
「澱っていうのは、濁った液体の沈殿物のことだね」
そういう小難しい語彙はゲームばかりやってたからよく知ってる。
「ええと、つまり、こういうことかな。現世で生きてる人間の精神が幽世に溜まっていく。精神がもともと幽世に存在するのかもしれないし、強い感情が残留思念になって幽世に焼きつけられるのかもしれないし、死んだら精神だけ幽世に行くのかもしれないけど」
――ほう……いずれの推測も正解だ……
老人から感心したような思念が伝わってくる。
「あはは、ただの盗賊士だよ」
――韜晦せずともよい……肉体から半ば解脱したわしにはわかる……おぬしの鍛え上げられたエーテルがな……
いや、鍛え上げた記憶はないんだけども。
――だが、そこまでわかっておるのなら話は早い……魔の者とは、幽世を住処とする精神のみの存在だ……怨霊と化した人間もおれば、もとからそのような存在として生まれついた者もおる……肉体から解脱した魔術師や聖者もおるようだ……だが、数としては下級の悪鬼――魑魅魍魎のたぐいがもっとも多い……
「ノームやウンディーネみたいな精霊はちがうのかな?」
――違う……精霊が属するのは精霊界だ……世界の運行を司る、幽世とはまた次元の異なる世界だな……精神が物質に勝るという点では似ておるが、精霊界では精神が物質を生産する……さもなくば、時とともに物質が蒸発して精神となり、幽世へと消えていくために、世界を構成する物質の総量が足りなくなろう……もっとも、それは何千年という時をかけた緩やかな変化ゆえ、限られた寿命しか持たぬ人間には観測することすら難しい……
「ノームもウンディーネも、なにかとくべつな仕事をしてるようには見えないんだけど」
――精霊は存在するだけでその機能を果たしておる……精霊に意識があるのは、幽世から吸い上げた精神をその身に通す過程で、夢のような形でうたかたの意識が浮かび上がるにすぎぬ……もっとも、精霊は平気で数百年を生きるゆえ、人間の意識こそ水泡のごときものというべきやもしれぬがな……
「じゃあ、神は?」
――ほう……おまえは、神にまみえたことでもあるのか?
「あはは、それはノーコメントかな」
――興味深いが……まぁよい……神は、現世、幽世、精霊界の三つの世界を照覧する立場にあると言われておる……三界のいずれでもないどこかに居ますとされておる……むろん、憶測にすぎぬのじゃが……
「ふぅん……?」
つまり、こういうことだろうか。
現世から幽世に流れこんだ精神は、精霊の働きによって精神から物質に戻されて現世に現れる。
リサイクルマークの三つの頂点に現世、幽世、精霊界があるような感じかな。
そんな仕組みで精神と物質の循環が行われ、世界のバランスが保たれてる。
でも、そのリサイクルサイクルは千年単位の気の長いもので、局所的な例外はいろいろある。
そのいちばんわかりやすいのは魔法だ。現世の人間が幽世からエーテルを引っ張ってきて物理的な現象に変えてしまうのだから、この世界のリサイクルサイクルからは外れてる。
そういう意味ではガバガバな仕組みだけど、まぁ、大局的に見ればだいたい回ってるからいいじゃん、という、あのちゃらんぽらんな神さまらしい大雑把なシステムだ。
(って、話が逸れちゃった)
私は話の流れを元に戻す。
「えっと、魔の者の話だったね。あなたを脅迫して夢見の力を利用してたっていう魔の者について聞かせてほしいんだけど。
ええと、イムソダ……だっけ」
――そうだったな……といっても、多くはわからぬ……幽世で強大な力を持つ存在であることはたしかだが、なぜそのような存在が現世に興味を示すのか……
「幽世だけじゃなく、現世も支配したいとか?」
――支配したところでどうなるというのだ……
「うーん……あ、現世の人間の精神が幽世に行くって言うなら、現世を混乱させれば、強い感情が焼きつくことも増えるし、非業の死を遂げる人も増えるよね。その精神を吸い上げれば、イムソダって人?の幽世での力も増えるとか……」
私のおもいつきのセリフに、夢法師が沈黙した。
「あはは……ちがったかな?」
沈黙に耐えかねて言った私に、
――いや……ううむ……考えもしなかったが、そのようなこともありうるのか……
夢法師は考えこみながらそううなった。




