166 灰に覆われた街
◇???視点
「なん……だよ、これ」
盗賊士の少女は、呆然としてつぶやいた。
ろくでもない父親のもとから、この街の盗賊士ギルドのマスターであるドモトリウスに拾われ、数ヶ月が経った。
初めは戸惑うことも多かったが、養父の援助のおかげもあって、冒険者としての暮らしにも慣れ始めたところだ。
異常が起こったのは、そんな矢先のことだった。
薬草採取と簡単なモンスター退治の依頼を片付け、少女はロフトの街に戻るところだった。
少女は、東の空に、不気味な灰色の雲が広がっていることに気がついた。
いや、最初こそ雲と思ったが、よく見てみるとそれは、霧か霞のようなものだった。
言い知れない不安を覚え、少女はロフトへの道を急いで戻る。
灰色の霧は、風よりも早くロフトの街に到着した。
霧は、少女の目の前でロフトの街を包み込んでいく。
外からは、街が灰をかぶっただけのようにも見えた。
が、街に近づけばおのずと気づく。
――ロフトの街は、石化していた。
少女は、石化した人々の並ぶ通りを駆け抜け、盗賊士ギルドに駆け込んだ。
ギルドの木戸は灰色に染まっていて、少女が触れると風化したように崩れ去る。
少女は中に入って大声で呼ぶ。
「ドモさん!」
まだ、父親と呼ぶことはできていない。
なんの関係もない自分を引き取り、実父からの干渉をはねのけてくれたドモトリウスには、言葉では言い表せないほど感謝している。
だが、それだけに照れくさい。
少女にとって「父親」というのは、まだあの酒飲みの冒険者崩れの男を意味している。
もう今後会うことはないとしても、子どもの心にはどうしたって親の姿が刻まれている。
その姿が、ドモトリウスの好々爺然とした顔に変わる日は来るのだろうか。
そうなってほしいと、少女は思う。
そんな、微妙で難しい関係の相手だが、街の惨状を見てきただけに、少女は胸が裂けるほどに不安だった。
少女は、ギルドのカウンターを乗り越え、ギルドマスターの執務室に向かう。
「ドモさん!」
執務室の扉を押しひらくと、
「おお、無事じゃったか」
ドモトリウスは、何かを腕に押し当てた姿でそう言った。
その「何か」は、少女には見覚えのありすぎるものだった。
「コカトリスの嘴……そっか。それがあったんだ」
少女は胸をなでおろす。
「うむ。シャリオンも無事で何よりじゃ。ミナトからもらった指輪が役に立ったようじゃの」
「あ、そうだった。石化封じの指輪のおかげか」
少女――シャリオンは、左手にはめた、飾り気のない石製の指輪を見る。
コカトリスがごくごくまれに高難易度で落とすスーパーレアドロップアイテム。
もし市場に出せば、屋敷が何軒も買えるだろう。
そんなとんでもない代物を、あの人はなんでもないようにシャリオンにくれた。
(お姉ちゃんは、いまでも私を守ってくれてるのか)
そっけない石の指輪に、シャリオンはここにはいない人物の温もりを感じた。
「こうなっては、おまえが頼りじゃ」
ドモトリウスが真剣な表情になって言った。
「え……」
「わしは、いまのところは、これのおかげで助かっておる。じゃが……これを見よ」
ドモトリウスが、嘴のついてないほうの腕を見せる。
シャリオンは息を呑んだ。
その肌は灰色に染まり、硬化しはじめていたのだ。
「嘘! 嘴を使ってるのに……」
「それだけ強力な石化毒なのじゃろう。さきほど不意に流れてきおった、灰とも霧ともつかぬものが原因じゃな」
ドモトリウスが冷静に言う。
「そんな……どうしてそんなものが?」
「うむ。ついさっき、気になる情報が入ってきての。いや、気になるどころの騒ぎではないのじゃが」
「それはいったい?」
「国都ザルバックが落ちたそうじゃ」
「えっ……お、落ちたって、だって、いまはどことも戦争なんてしてないよね?」
「正面から乗り込んできた一人の騎士が、王都の精鋭たちを薙ぎ倒し、王を弑して、自ら聖王と名乗って即位した。その騎士の名は……クレティアスじゃ」
「クレ……って、あのときの?」
シャリオンは特派騎士だったクレティアスが起こした事件のときに人質にされた。
あの、美形だが冷たい目をした騎士のことは、忘れようにも忘れられない。
「でも、クレティアスは樹国でミナトお姉ちゃんが捕まえたって話だったんじゃ?」
「わからぬ。しかし、王都をからくも逃げ出してきた盗賊士によれば、人相からしてまちがいなくやつだったと」
「その直後にこの灰か……。よくわからないけど、関係がないとは思えないね」
「うむ。じゃが、わしはいまから逃げても間に合わぬじゃろう」
「そ、そんなことは……」
「コカトリスの嘴ですらこの程度しか効かぬ。石化の灰から脱する前に石化するのは確実じゃ。
まったく。このようなことになるのなら、もっとたくさんもらっておけばよかったの」
「わ、わたしの指輪を使えば……」
「馬鹿者。子を犠牲にして生き残りたい親がおるものか」
「ドモさんは私の本当の親じゃない。私なんかが生き残るより、人望もあって実力もあるドモさんが生き残るべきだ」
「老い先短い年寄りが、年端もいかぬ娘を犠牲にしてまで生き延びて、どうしようというのだ。
そうさの、もしどうしてもわしを助けたいのであれば、逃げ延びた先で、この街の石化を解く方法を探してくれればよい」
「そんなの……あるの?」
「可能性がないわけではなかろう。事実、こうして石化しかけた腕を、嘴は治すことができるのじゃ」
「でも、肺や心臓がやられたら助からないって」
「少ないながら、完全に石化した状態から生還したという報告もある。いずれにせよ、わしはここを動くつもりはない」
ドモトリウスの頑なな様子に、シャリオンは肩を落とす。
「……わかった。私はここを出てどこに行けばいい?」
「その質問がすんなり出てくるのは、盗賊士として成長した証じゃな」
ドモトリウスが満足そうに笑う。
「このような事態をどうにかできる者の心当たりはないの」
「そんな」
「心当たりはないのじゃが、奇跡を起こしてくれそうな人物の心当たりならある。シャリオンとは意見が一致するはずじゃ」
「お姉ちゃん、か」
シャリオンは、小さいはずなのに、やけに背中が大きく見える盗賊士の先輩のことを思い出す。
あの時も、シャリオンを絶望の淵から救ってくれた。なんの見返りも求めずに。
「うむ。魔王などと呼ばれておるという話も漏れ聞こえてくるの。
じゃがあの娘は、どのような立場になったところで、その本質を曲げるまい。
もっとも、まだこの街を離れたことのないおぬし一人に任せるのは荷が重かろう。まずはダンジョンへ向かい、ギルド出張所をまとめるシズーやアーネと合流するがよい。灰のやってきた方角からして、ダンジョンはまだ無事じゃろう」
「わ、わかった」
「道中はくれぐれも警戒するのじゃ。クレティアスの差し向けた軍勢がこちらに向かっておる可能性も否定できぬ。灰の中でおぬしだけ動いておれば目立つのは避けられぬからの。
もしダンジョンまでもやられておるようじゃったら、霧の森に逃げ込むのがよいじゃろうな。濃い霧と鬱蒼とした木立とが、灰を多少なりとも食い止めてくれるやもしれぬ」
「う、うん」
ドモトリウスはシャリオンに、ギルドに保管されている限りの地図を渡す。
霧の森方面のものだけではなく、西や北に抜けるルートや、王都周辺の地理についても簡潔にシャリオンに説明した。
シャリオンは、教わった内容を復唱する。
「北は氷海を抜けるルートだけど、船便が少ないからお金を積んで船を出してもらう。西は山越え。峻険な山に登れば灰から逃げられるかもしれないけど、ドラゴンの生息地に入り込まないよう注意する」
「うむ。やはりおぬしは盗賊士に向いておる」
指折り数えて確認するシャリオンに、ドモトリウスがうなずいた。
「では、行け。時間はあまりない」
「……うん。絶対、助けに来るから。お姉ちゃんを連れて」
「シズーに会えたら、ロフトの盗賊士ギルドの全権を託すと忘れずに伝えるのじゃ。さっき渡した書状とともにな」
「大丈夫。全部覚えてる」
「あの娘によろしく言ってくれ。あの娘のことじゃ、自分の責任のように思うじゃろう。じゃが、そんなことを気にしておる暇があったら、やるべきことをやれ。わしがそう言っておったと伝えてくれ」
「うん、必ず。
その、ドモさん」
「なんじゃ?」
「ありがとう、ございます。最後みたいな言い方はしたくないけど、いましか言えないかもしれないから」
「ああ、うむ。わしも、この歳になって娘が持てたのは貴重な経験じゃった。なにも言わずともよい」
「ありがとう……お、お父さん」
シャリオンは小さな声でそう言うと、振り返ることなく部屋から駆け出していった。
ドモトリウスは瞑目し、手を組んで祈りの言葉を唱える。
「おお、偉大なるグランドマスター、エンドウ・ハヤオよ。われらの娘を守りたまえ」
ドモトリウスは、祈りの皮肉さに気づくこともなく、その姿勢のままで石となった。




