137 難易度変更・超
おまたせしました。
第四部開始です。
◆???視点
そこは、あまりに暗かった。
ミストラディア樹国は、森の中にある国だけに、もともと日照に恵まれているとはいいがたい。
わけても牢獄などというものは、日当たりの悪い場所にあるものだ。
必然的に、外から差し込む日の光はごく限られていた。
牢の中は、常に震えるような寒さに支配されている。
もっとも、森がなければ、激しい日照はミストラディアの国土をすべて砂漠に変えてしまうだろう。
実際、霧の森の地下にある広大なダンジョン遺構がなければ、樹国は古代と同じ砂漠の国だったはずだ。
樹国の人間にとって木陰とは、自分たちを厳しい太陽から守ってくれるありがたい存在だ。
だが、獄につながれた身にとってはそうではない。
ただでさえ薄暗く底冷えする牢獄をよりいっそう過ごしにくくする、悪魔の産物のようにしか思えなかった。
牢獄には、ひとりの男がいるだけだ。
もとは美青年だったはずの顔は瘦せこけている。
強すぎる自意識によって輝いていた目も、どんよりと暗く濁っていた。
男は、両肩から先を失っている。
肩口にはえたいのしれない闇がこり固まり、そのせいで出血多量で死なずに済んだ。
「いっそ、あそこでくたばってたほうがマシだった……」
男はしゃがれた声でつぶやいた。
何度、同じことをつぶやいただろう。
もちろん、男の声に応えるものなどここにはいない。
「それでも……俺はあのかたのお役に立てたのだろうか」
魔族の長であるという魔王アルミラーシュ殿下。
男は、幽世でしかその存在を知らなかった。
しかし、その清純で無垢な心に胸を打たれた。
その役に立てるならと、あの醜悪な魔族イムソダの監視役を引き受けた。
結果、ことを急いだイムソダは滅ぶことになった。
「あのかたは嘆いておられるだろう」
イムソダのような輩すら、あのかたは大事な同胞として気にかけておられた。
監視役でありながらやつの行き過ぎを止められず、挙げ句の果てには因縁ある冒険者にイムソダもろとも敗れ去ることになった。
男は、自分の無力に歯噛みする。
「……くっ、冒険者ミナト……やつだけでもこの手で殺したい。殺さねば気がすまぬ……」
その妄執だけが、男を現世にとどめていた。
さもなくば、プライドの高いこの男はもっと早くに自殺していたことだろう。
「だが、どうしようがある? いまの俺は樹国に囚われた身だ。たとえ逃げられたとしてもお尋ね者。あの機敏で小ずるい盗賊士を追いつめるのは難しい……」
男の思考は堂々巡りを続けている。
この牢に放り込まれてから、男は同じことを幾度となく考えた。
そのたびに絶望し、死にたくなる。
男を踏みとどまらせたのは、冒険者ミナトへの復讐の念と、「あのかた」への思慕だった。
「こんな俺でも、あのかたは死んでほしくないとおっしゃるだろう……」
男の魔王への思慕は崇敬となり、やがて狂信へと変わっていた。
男の中にある「あのかた」は、もはや現実の魔王アルミラーシュからは遊離した存在だ。
理想の聖母、理想の天使、あるいは理想の神。
牢獄の壁には、男が刻んだ傷跡がある。
四本の横棒に一本の縦棒を引く。これで五日分。
それとまったく同じ印が、壁には既に二十数個は並んでいた。
両腕のない男は、牢に落ちていた石をくわえ、鼻を壁に擦り付けるような格好で、毎日その記号を刻んできた。
「気が、狂いそうだ……」
自分をこんな目に遭わせたすべての者たちへの怒りと。
その怒りをぶつけることすらできずにこのまま朽ち果てていくのではないかという恐怖と。
牢獄に押し込められ、なにひとつやることのないまま、ただ放置されていることからくる、堪え難いまでの退屈。
叫び出したい気分だった。
「ぐっ……こらえるんだ……」
ここで叫べば終わりだ。
あとはもう、狂気へと至る下り坂を転げ落ちていくだけだろう。
「くそっ、くそっ。話し相手すらいないのがここまで辛いか。誰も俺のことを理解しない。理解できない」
魔王アルミラーシュとは、イムソダの監視につく前に会ったきりだ。
あれは幻覚だったのではないか。ここにいると、そんな疑いすら湧いてくる。
孤独な男は、押し寄せる狂気への恐怖に震えながら、牢の冷たい床を感じている。
その冷たさこそが、男に最後に残された、外界を知るためのよすがだった。
何も感じなくなったら、もはや男は自分の内面と向き合うしかなくなってしまう。
そうなったら、怒りと恐怖と絶望と無念と……あらゆる感情が精神を破壊し、男は狂うことになる。
それは、もはや時間の問題だと思われた。
だが、閉じ込められて以来、なにひとつ変わることのなかった牢獄に、おもむろにひとつの変化が訪れる。
「な……んだ?」
それは、光だった。
牢獄を、どこからともなく現れた光が満たしていく。
男を閉じ込めていた牢獄が光の中に消えた。
代わりに現れたのは、どこまでも続く白い空間だ。
「な、なんだ!?」
精気を失いかけていた男も、これには驚く。
白い空間の真ん中に、金髪碧眼の青年が浮かんでた。
白いトーガのような服に身を包んだ、二十代なかばくらいに見える、中性的な美青年だ。
男も、自分が異性から見て魅力的であることに自信はあった。
だが、現れた青年を前にすると、その自信も揺らいでくる。
それほどに、白いトーガの青年は完璧に整った容姿をしていた。
その笑みには神々しさすら感じてしまう。
うぬぼれの強い男ですら、嫉妬を抱く以前に圧倒された。
「いいね、君」
トーガの青年が言った。
「実にいい。その身勝手さ、逆恨み、自惚れ。まるで昔の僕たちのようだ」
「な、なんだ、おまえは」
微笑みながら言ってくる青年に、男はそう返す。
「クレティアス、と言ったっけ。君は、ジョウレンジ・ミナトに煮え湯を飲まされ、強い憤りを抱いている」
「なっ……あの冒険者を知っているのか!?」
「知っているとも。彼女は、なかなか困ったことをしてくれる。彼女に力をあげたのは、無駄なあがきをして絶望に染まる姿を見てみたかったからだけど、期待はずれの結果になった。
まぁ、意外性はあったけどね。でも、僕の望んでる方向の意外性じゃない。こんなのは、ただただ不快なだけだ。僕たちのやってきたことを否定し、すべてをひっくり返そうっていうんだからね」
「ど、どういうことだ?」
「君が知る必要はないことだよ。君が知るべきは、むしろこっちだ」
トーガの青年が指を鳴らす。
白い空間に、霧のようなものが生まれた。
霧は即席のスクリーンとなり、そこにここではない光景が映し出される。
そこに映っていたのは、ひとりの少女だった。
水色の長い髪と同色の瞳。
左右の耳の上におおきな巻角がついている。
顔立ちはあどけないが、整っているほうだろう。
少女はドレスの上に紫色のマントをはおっていた。
少女は玉座のようなものの前に立ち、数人の臣下らしき魔族たちになにかを言っている。
(なんだ……既視感がある)
男――もちろんクレティアスだ――は戸惑った。
少女のたたずまいを見ていると、クレティアスの胸を不思議なざわめきが襲うのだ。
だが、少女の顔を見ると、そのざわめきとはべつの、吐き気のようなものが込み上げてくる。
同じ人物から感じる印象としては正反対だ。
「おや、気づかないのかい?」
トーガの青年が言った。
「何に? いや、待て。そもそも、おまえは何者だ」
ようやく頭が回りだしたクレティアスが聞く。
「僕は、神だよ」
青年が当然のように言う。
「神だと?」
「魔王がいるんだから、神だっていていいだろう? で、いま映ってるのは、君の愛しの彼女じゃないか。魔王アルミラーシュ。そう名乗る存在さ」
「なに!?」
クレティアスは食い入るように映像を見た。
「た、たしかに、雰囲気はよく似ている。俺は幽世でしか『あのかた』を見ていないが……」
「そう。紛れもなく彼女だよ。
でも……まだ気づかないのかい?」
「な、に……?」
嘲るような「神」の言葉を、クレティアスは理解できなかった。
「しょうがない。もっと決定的な場面を見せてあげよう」
映像の中で、魔王である少女は話を終えた。
少女は重荷を下ろしたような顔でほっと息を吐き、自室へと引き下がる。
その部屋には先客がいた。
黒髪と黒い瞳。
やや小柄な少女は、あいかわらず、目立ちにくい盗賊士ふうの格好をしている。
みずから不幸を呼び込みそうな辛気くさい顔は、以前よりはいくぶん自信ありげに見えた。
入ってきた魔王に気さくに話しかけ、淡くほほえんでいる様子は、ただの年頃の少女のようだ。
だが、その少女の姿を見て、クレティアスの腹の底から冷たい狂気が込み上げてくる。
「冒険者、ミナト!」
「うん、君の仇敵であるジョウレンジ・ミナトさ。
ところで、何かに気づかない?」
「なんだと?」
「魔王アルミラーシュとジョウレンジ・ミナト。二人の顔をよく見比べてごらんよ」
クレティアスは、「神」の言った通りに二人を見比べる。
アルミラーシュを見れば歓喜と至福が、ミナトを見れば憎悪と忿怒が込み上げてくる。
だが、それを排して比べてみると、二人の少女はよく似ていた。
年齢が同じくらいというだけではない。
顔立ち自体が似ているのだ。
映像の中で、ミナトがなにかを言い、意識を集中しはじめる。
それにともない、驚くべき変化が起きた。
その変化に、クレティアスの脳は凍りつく。
「これ、は……」
ミナトの髪と瞳の色が変わっていく。
魔王アルミラーシュと同じ、水色に。
髪と瞳が同色になってみると、二人の少女はほとんど双子のようにそっくりだ。
「ど、どういうことだ……」
クレティアスは呆然とつぶやいた。
「くくっ……もうわかってるんじゃないのかい? 君はいっぱい食わされたってことさ。ジョウレンジ・ミナトと魔王アルミラーシュの二人に、ね」
「っ……!」
「二人は最初から結託していたのさ。こうして互いに入れ替わりながら、この世界の秩序を破壊しようと企てている。幽世に封印された魔族たちをこの世に降ろし、冒険者たちに力を与えているグランドマスターシステムを根幹から破壊しようと――
ふふっ。どうやらもう僕の話は聞こえてないみたいだね」
「……こまで、コケにするか」
食いしばった歯の隙間から声が漏れる。
奥歯が異様な音を立てた。
口内に血が溢れるが、もはやそんなことは気にならない。
「ここまで俺をコケにするかッ! 冒険者ミナトぉぉぉっ!」
クレティアスは叫んだ。
喉が裂け、舌に血の味がにじむ。
敬慕していた女性の裏切りに、クレティアスの目からは涙すら溢れ出す。
クレティアス自身ですら、もはや怒っているのか悲しんでいるのかわからなかった。
こみ上げる衝動のままに、クレティアスは頭を地面に打ち付ける。
白い光の床には手応えがなく、求めていたような痛みは得られない。
そんなクレティアスを、神は歪んだ笑みを浮かべて見下ろした。
「ふっ、くく……いいねえ。そうでなくっちゃ。
クレティアス、君はジョウレンジ・ミナトを殺したいかい?」
「殺す! 絶対に殺す! そのために俺の魂が必要なら悪魔にでもくれてやる! あの鼠に生きてきたことを後悔させるほどの苦痛を与え、殺してくれと哀願させてから無残に殺してやる!」
「おっと、彼女の仲間たちのことは放っておくの?」
「そいつらももちろん殺す! あの鼠の前でひとりひとり拷問にかけて殺してやる!」
「じゃあ、魔王アルミラーシュはどうするのかな?」
「そ、それは……」
神の挙げた名前に、クレティアスが躊躇する。
「どうする? やめておくかい? 僕は君に力をあげられるけど、もしそんなとこで日和るのなら――」
「……いや、あの女も殺す! 俺を笑い者にして利用したんだ! 女に生まれたことを後悔させ、手足をひきちぎり、目をえぐりだし、殺してくれと懇願させてから惨めな最期を迎えさせてやる!」
「いいねえ、いいねえ。それなら、君は今日から僕の使徒だ。君に、新たな力を与えよう」
神はそう言って、クレティアスに手をかざす。
手から光のようなものが生まれ、クレティアスの胸に吸い込まれた。
「ぐああああっ!?」
灼熱のような感覚に、クレティアスが胸をかきむしる。
「おや、ちょっと強すぎたかな? まぁ、魂を悪魔に捧げるとまで言ったんだ。寿命が三十年ばかり縮んだところでかまわないよね?」
「ぐぅっ……これは、いったい?」
「君に与えた力は、『難易度変更・超』というチートさ」
「な、難易度変更……?」
「ちがうちがう、『難易度変更・超』だって。きちんと覚えてもらわないと困るんだよ。あのジョウレンジ・ミナトに与えた力はただの『難易度変更』。いま君にあげたのは、その完全上位互換版なんだから」
「な、に……?」
「この世界の人間である君に理解できるとは思えないけど、いちおう説明しておこう。君は、オプションメニューからこの世界の『難易度』を変更できるようになった。そうだね、世界を都合よくねじまげられるようになったと思ってくれればいい」
「な、なにを言ってるんだ?」
「ジョウレンジ・ミナトに与えた力とちがうのは、君の難易度変更には制限がないってことさ。
ミナトの力はグランドマスターシステムの影響下にある対象にしか通じない。しょせん、ダンジョンのデバッグ用の機能にすぎないのさ。
でも、君のはちがう。この世界のあらゆる事象に干渉し、君の人生をイージーモードに改変する強力な力だ。運命すらねじまげる力だから、人間の身で持てばいろいろ副作用があるんだけど……まぁ、いいよね」
「この力があれば、あの鼠に勝てるのか?」
「そういうことさ。試しに、元に戻ったら『オプション』と言ってみるといい。念じるだけでもいいよ。あとは、自分で試行錯誤すればわかるはずだ」
「な、なぜ、俺にそんな力をくれる?」
「君と僕の敵が一緒だからさ。ミナトは僕を怒らせた。そのことを、たっぷり後悔してもらう必要がある」
神の言葉とともに、白い空間から光が薄らいでいく。
やがて周囲に牢獄の輪郭が現れる。
クレティアスは、気づけばもとの牢獄にいた。
「……いまのは夢か? それとも幻覚か? ははっ、俺もとうとう狂ったか」
クレティアスは自嘲した。
「ふん。狂ったんなら人目を気にする必要もない。試すだけ試してやろう。
――オプション」
――それから、しばらくも経たないうちに。
クレティアスは、神の言葉が事実だったことを思い知る。
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