7 おめえの宿ねえから!
方向音痴の私は盛大に道に迷い、レイティアさんに教えられた宿『売られた仔牛亭』に着いた時には、もう日が暮れかけていた。
「あの⋯⋯宿泊したいんですが」
「ええっ、あんた、こんな時間に宿を探してるのかい? まあ、いつもなら泊めてあげるんだけど、あいにく今は満室でね」
でっぷりと太った人の良さそうなおばちゃんが、気の毒そうにそう言った。
「そ、そうですか⋯⋯」
「ちょ、そんな青い顔をするんじゃないよ。若い女の子をこんな時間に追い返すつもりはないさ。馬小屋が空いてるから、そこの飼い葉で眠ってもらうしかないけどね」
「馬小屋⋯⋯」
「なあに、ちょっと臭いけど、慣れちまえば大丈夫。野宿するよりは、屋根があるだけマシだろう?」
うう、しかたないか。
私もさすがに路上生活なんてしたくない。
「わかりました。それでお願いします」
「よし、わかった。でも、宿泊料は一泊分ちゃんともらうからね」
「⋯⋯⋯⋯」
この世界も大概世知辛い。
夜は少し肌寒かったが、馬小屋は暖かかった。
(だって、お馬さんいるし)
馬の体温で馬小屋はほどよい温度になっていた。これなら寒さに震えずに寝られるだろう。
(⋯⋯ちょっとくさいけど)
うう、臭いがうつったら嫌だなぁ。
馬小屋は、壁の上半分が空いている。
そこから見上げる星空には、二つの月が浮かんでた。
赤い大きな月と青白い小さな月だ。
二つの月の上側に、かなり明るい天の河が広がってる。
こんな光景を見せられれば、 どうしたって認めるしかない。
(ああ、やっぱり異世界なんだなあ)
モンスターの跋扈するような野蛮な異世界に来て、宿にあぶれて馬小屋で眠ろうとしてる。
我が身の不幸を嘆かざるをえなかった。
「しょうがない⋯⋯寝よ」
明日のことは明日になってから心配しよう。
どんなに不幸であっても、時間が経てば明日は必ずやってくる。
善かれ悪しかれ、物事は時間とともに変わるのだ。
⋯⋯という現実逃避で、私は寝逃げを決めこむことにした。
のだが。
「――今日の稼ぎがこれだけだと⁉︎ ふざけてんのか!」
馬小屋の外、 いくらも離れてない場所で怒声があがった。
続いて、風を切る音と、肉が叩かれる鋭い音。
昔、父親にベルトで叩かれたことがあるからわかる。
今のは、人が誰かを鞭打った音だ。
「ご、ごめ⋯⋯ごめんなさい! 怖い男の人にからまれて⋯⋯」
「言い訳すんな! おまえがぼさっとしてるからつけこまれるんだよ! だいたい、おまえ、俺の言う通りにしてるんだろうな! その腕を見せて哀れっぽく縋りつくんだよ! 情に脆そうな金持ちの女を狙えって言ってるだろ!」
「やってるよ! やってるけど⋯⋯今は王子様も石化熱だから、僕になんてかまってくれなくて⋯⋯」
「うるさい! 口答えするな!」
再びぴしゃりと鋭い音。
(イヤな音だな⋯⋯)
痛いかどうかは大した問題じゃない。
私もミミズ腫れになるまでベルトで打たれたけど、痛みなんてすぐに感じなくなる。
本当に痛いのは心の方だ。
おまえが悪い。
俺の言うことを聞かないおまえに価値はない。
おまえのことなんか認めない。
もちろん、愛するなんてとんでもない。
人を鞭打つってことは、相手にそういうメッセージを投げつけるってことだ。
「どうすんだよ! どうせすぐにくたばるんだから、その前にすこしは俺の役に立ったらどうだ! 誰がおまえをここまで育ててやったと思ってる! この疫病神め!」
ぴしゃり、ぴしゃり。
殴られる子どもの声はもう聞こえない。
声もなく、ただ耐えてるのだろう。
(私が出ていけば⋯⋯)
難易度変更で無双状態の私なら、このろくでもない父親をぶちのめせる。
(でも⋯⋯)
殴られてる子は、きっとそんなことは望んでない。
私が一時助けたとして、その後、私がいないところではどうなるのか?
この世界に児童相談所なんて絶対にない。
――子は親の所有物 。
この世界の文明レベルでは、それが当然と思われてるにちがいない。
私は、鞭打つ音と怒声が鳴り止むまで、息を潜めてただ待った。
路地から子どものすすり泣きしか聞こえなくなった頃には――私の手のひらには、うっすらと血が滲んでた。
私は、馬小屋から顔を出して路地の様子をうかがう。
路地には 、うずくまってしゃくりあげる子どもがいるだけだ。
子どもは十歳を越えたくらいだろう。
たぶん、男の子。
私はそっと馬小屋を抜け出し、子どもに近づく。
手が届く距離に入ったところで、子どもが跳ね起き、飛びのいてこちらをにらんできた。
私は伸ばそうとした手を宙にさまよわせながら、子どもの強い視線にたじろいだ。
「だ、誰だよ!」
少年が言った。
「私は⋯⋯」
誰だと言うんだろう?
泣いている子どもを見過ごせなかった通りすがりの善人か?
そんなわけはない。
どうにもならないからと子どもが虐待されるのを黙って聞いてた偽善者だ。
口ごもる私を見て、少年は事態を正しく読み取った。
「ふん、同情なんていらねえよ。金になるわけでもねえし、あの親父がくたばるわけでもねえ」
虐げられた者は、同情されることを何より嫌う。
それは、傷口に塩を塗りこむことだ。
虐げられた相手に、おまえはかわいそうな存在だと、追い討ちをかけるような行為なのだ。
虐げられた者は、自分は強い、自分は大丈夫だと思い込むことで、 かろうじて自分を保ってる。
その薄氷のような壊れやすい自尊心を打ち砕く権利なんて、この世の誰も持ってない。
「同情なんてしないよ。でも、怪我してるみたいだから」
少年の顔にはミミズ腫れがあった。
(あの父親⋯⋯!)
顔を鞭で打った父親に殺意が湧く。
そんな私を見て、少年が意外そうな顔をした。
「なんだ、姉ちゃんも同類か」
少年が言う。
さっきとは打って変わった、気の抜けたような語気だった。
「同類?」
「同類は、同類さ。あんまり恵まれてない者同士ってこと」
「ああ⋯⋯」
少年は、短いやり取りで、私がどういう人間かを理解したようだ。
私は言う。
「怪我なら、治せる人を知ってるわ」
「金なんてねえよ」
少年は、私が見てる頬の傷に、指で唾をつけながら言った。
「大丈夫。お金はとらないって言ってたから」
私が先導して歩き出すと、 少年は思いのほか素直についてきた。
明日からは毎日一話更新(昼12時)になります。
ミナトの冒険に末永くおつきあいいただければさいわいです。