伸ばされた手
レーヴはそれから繰り返しリリィに良いところを見せようと森の問題を解決し続けた。崩落した崖を瞬く間に元に戻したり、病を得た樹木を立ちどころに治して見せたり、か弱い森の住人にしてみれば奇跡のような所業をいくつも容易に見せつけた。だが、悲しいかなそれはどれもリリィにはいまいち関係のないことばかりであった。リリィは崖の付近には住んではいないし、沢山の木の内の一本が病で枯れても、特に思い入れのない木であればただの自然現象の一環である。泣いて喜ぶ幻獣らと同じ気持ちには成りえなかった。
ただ、少しだけ彼女とレーヴが共に過ごす時間が増えていた。リリィは彼の為すことを興味深く眺めていた。レーヴもまた彼女と共に過ごすことを喜んでいるようであった。
レーヴはリリィの好奇心を強く刺激する存在だった。彼の持つ技は森で生まれ育った彼女の見たことがないものばかりであった。
レーヴが奇妙な技を使う度に、彼女はあれは何、これは何と、いくつもの質問をレーヴにぶつけていった。
「どうして何かする度に指を切るの?」
その日は森の入り口で人の作った道を消す作業をしていた。この森は人外だけのものではないようだ。あまりにも人の気配がなかったせいでレーヴは勘違いしていたのだが、どうも定期的に猟をしに現れる人間がいるらしい。そんな人間が森を荒しに来ないよう、レーヴは入り口から残さず道を消し去っていた。
一日はかかりそうなその作業を傍らで見ていたリリィは早々に作業を眺めるのに飽いて、彼の肩に腰を下ろしレーヴの術の初動に共通する不思議を彼に聞いた。
「俺の技は魔法じゃないからね……代償が必要なんだ」
「代償?」
「そう、代償……生贄と言い換えようか。俺は自分の血を生贄に凄い力を使えるんだ」
「いけにえ……」
その言葉の意味はリリィにはよく分からなかったけれど、なんとなく恐ろしいものに感じられた。そもそも指を切るという行為だってリリィにはとてもできない、恐ろしい行為だ。彼は彼の身体にとって悪いことを平然としているのではないだろうか……?
心配そうな顔をしたリリィに気付いたレーヴは、少し嬉し気に口角を上げて、だが彼女を心配させまいと顔を引き締め彼女に向き直った。
「大丈夫。何も心配いらないよ。なにせ俺はちょっとそこらの人間じゃないからね。この程度の傷ならほら」
レーヴが見せたのは彼の手のひらだ。何度も術を見せて、今しがたも術を使ったばかりだというのにそこに一切の傷がなかった。元々指を切ってなどいないと言わんばかりの綺麗な手のひらがそこにあった。
だが、リリィの不安はまだ拭いきれなかった。レーヴは何から何まで凄いとしか言いようのない生き物だ。幻獣らに崇められ、森の数々の難問を解決した。いまや森の主と化しつつある。だが、彼女は彼に出会った当初から感じていて、距離の狭まった今ではずっと強い懸念に変わったことがある。
「あなたからずっと死んだ人の匂いがするの。本当は今にも死にそうなんじゃないの?」
はっきりと口に出して問うたリリィの言葉に、レーヴは口を閉ざした。目を瞠って問われた言葉の内容を頭の中で反芻しているようだ。よほど衝撃が大きかったらしい。リリィの言葉の何にそんなにショックを受けたのか、リリィには分からなかった。
「俺、匂うかい? そんなに死人臭い?」
「ううん、気にしないようにすれば気にならない。臭いんじゃない。でも一緒にいると分かる」
「そっか……どうしようかな」
レーヴはショックから立ち戻ったようだった。そして何やら思案を始める。小言でぶつぶつ独り言を続けて、リリィは置いてきぼりだ。
「うっかり聖職者に迫られちゃ困るな……といってこのまま森の中に引きこもるというのも」
「え?」
レーヴの言葉に今度はリリィが目を見開いた。なんだか聞き捨てならなかった。レーヴはずっとこのまま森の中にいるつもりはないという。つまりいつか森から出ていってしまうのだろうか。
「リリィ?」
リリィはふらりとレーヴの肩から離れた。なんだか頭の中がいっぱいでいてもたってもいられない。不審に思ったレーヴが声をかけてくるが、その声に応えるのがひどく億劫だった。
「ついてこないで」
力なくリリィが彼を拒絶すると、レーヴはそれ以上強くは引き止められなかった。リリィは項垂れたまま彼をその場に残してあてもなく森の中へと消えていった。
この時、彼らには幻獣らのざわめいた様子が目に入っていなかった。目に入っていれば、すぐにも森に異変があったことに気付いただろう。彼らのいる森に穏やかとは言えない足音が徐々に近づいていた。しかし、今はまだ幻獣以外に気付いたものはいない。
〇
リリイは森の奥で一人ふさぎ込んでいた。レーヴに素っ気なくしてしまった自分の気持ちが自分でよく分からない。だが素直に彼へ笑いかけることがどうしてもできなかった。
彼は森を去って行ってしまうという。ならば自分を置いていくつもりだろう。リリィはあまりに弱い存在だ。敵を退けるだけの力があるわけでもなく、生きるだけでやっとの昆虫のようなものだ。樹液を見つけ出す能力が高い分、昆虫のほうが優れているかもしれない。
リリィは両手を広げた。金色の輪が手のひらから広がり彼女の身体を包む。リリィは輪を纏ったままちょうどすぐ傍にいたトカゲの幻獣に体当たりを仕掛けた。その幻獣は口から火を噴いて遊んでいたところだった。リリィの金の輪は幻獣の火を全て弾いた。しかし、幻獣の身体にぶつかるのと同時に弾けて消えた。
妖精の輪である。リリィがちょっと他の種族よりも自慢が出来るのはこれぐらいだ。しかし何もかもを弾けるわけではない。じつに脆い鎧だ。リリィがぶつかった幻獣は迷惑そうにリリィを尻尾で追い払い火を噴く遊びに戻ってしまった。追い払われたリリィは草むらに転がりより一層暗く落ち込んでしまう。
森の外には出られない。森の外は恐ろしい。惰弱な自分では生き抜くことはできない。レーヴに頼っていればなんとかなるかもしれないだろうが、自分の命を他者任せに出来るほどリリィは野生のない生き物ではない。
ふと、ここでリリィは疑問に思った。彼が森から去ることがこんなにも自分の心を暗くするのは何故だろうか。自分は彼をどう思っているのだろう。自分でも気づかないうちに、彼が大事だと思える相手になっていたのか?
「みぃつけた」
背後より迫る影と声に、一瞬リリィはそれがレーヴかと思った。この森で人の言葉を喋るのは彼女の他はレーヴしかいない。だが、彼はこんな粘ついた声をしていただろうか。影も彼より低く横に広い。リリィは振り返って彼女の背後に立つ存在を目にし、言葉を失った。そこに立っていたのはリリィの知らない男だ。薄汚れ目を血走らせた醜悪な男が、手にいくつもの縄を握って立っている。男の手に握られた縄の先には、無数の幻獣の死体が括りつけられ引きずられていた。
リリィの喉奥で悲鳴が空気と一緒に零れた。
「情報屋の野郎、後でたっぷりキスしてやるぜぇ」
逃げなければ、リリィは本能的に悟った。しかし身体が震えて上手く動けない。飛んで逃げなければならないのに羽根が凍り付いて動いてくれない。
「まさか超級レアな妖精がこんな辺鄙なとこに隠れてるとはな!」
男が口を開くと臭気が漏れ出てきた。いくつも抜けた後の黄色い歯の隙間から粘液を滴らせ舌なめずりをして、男は垢と泥と何かよく分からない湿り気に塗れた手をリリィへと無遠慮に伸ばした。
「い、いやっ!」
リリィは咄嗟に妖精の輪を広げて自分の身を守ろうとした。男は恐らくそのままでも問題なくリリィを捕獲できただろうが、初めて目にする妖精の輪にいくらか警戒を示した。だが、当然のごとくそこで諦めるという選択はしない。
男は手近な石を地面から拾うと、リリィの妖精の輪に向けて思い切り叩きつけた。
「きゃ……っ」
妖精の輪はあっけなくガラスの様に壊され砕け散った。男はリリィが再び妖精の輪を展開するより先に、今度こそ彼女の身体を手で掴み上げ捕獲した。