血みどろ男と森の妖精
森に突如として現れた男、レーヴはひたすら可憐な妖精を見つめていた。男の掌よりも僅かに零れる程度の大きさしかない小さな存在。人形と見紛う細い手足が、きちんと意思を持って動いているのだ。透き通る羽根が細やかに震えて、身にまとった植物の衣の下では触れただけでも折れそうな肢体を隠している。
自身が血まみれなことなど忘れ去って、ずずいっと彼女に迫った。
「俺の名前は……そう、レーヴと言います。リリィさん、今特定のお相手はいますか?」
「いない、けど?」
「なら問題ありませんね! 式は湖畔式と神聖式どっちに致しましょう! 神聖式の白いヴェールも素敵ですが湖畔式の素朴な衣装も捨てがたいな。森にお住みなら湖畔式のほうが馴染み深いでしょうか。さあ、さあ、さあ!」
「どっちもやだぁあ!」
レーヴがあっと声を漏らし引き止める手を伸ばすより先に、リリィは顔を真っ赤にして逃げて行ってしまった。彼女は未だかつてこんなに強引な程熱く求められたことがなかった。これを良いか悪いか感じる以前に、彼女の情報処理能力を超えて脳がオーバーヒートを起こしてしまっていた。
一人残されたレーヴは行き場のない手を下ろしショボくれてしまった。せっかく理想の相手と出会えたと言うのに自分は求愛の仕方を間違えてしまったようだ。がくりと肩を落とし過ちを悔いる。
落ち込んでしまった彼の周囲に幻獣達が心配そうに近づいてきた。ここでようやく彼はこの場に彼と彼女以外の存在がいたことを知った。
彼らは奇妙としか言いようのない生き物であった。羽の生えた熊や昆虫の目をした鳥、頭が魚の狐等、普通に生活していれば人間が目にすることのない生き物達である。
だが、レーヴは彼らの存在を知っていた。そして恐れも抱かなかった。中には鋭い爪や牙を持つ生き物もいたのだが彼は一切恐怖しなかった。
「幻獣か……夢魔、時告げ、火食いに鳥犬、随分と揃ってるな」
自分自身の種族名を告げられた幻獣は嬉しそうに、ある者は羽を広げ、ある者は目を光らせて応えた。
「この森はお前らの住処になっているのか」
問うでもなく呟くレーヴの言葉を聞いて、幻獣らが人のように首を振って頷いた。彼らの従順な様子に気をよくしたレーヴは相貌を崩して彼らに頼む。
「なあ、この森で何か困っていることはないか? 余さず教えてくれ。片っ端から俺が解決してやろう。彼女に良いとこ見せたい」
幻獣らはレーヴの真正面な言葉にそれぞれ顔を見合わせた後、思い思いの場所へと彼を案内し始めた。
〇
リリィは森の中の自分の住処である木の洞へと逃げ込み、木の葉を被って震えていた。突然の愛の告白は、彼女にしてみれば恐怖の対象であった。虫けらのように小さな自分をあんなに巨大な生き物が真面目に愛する筈がないと彼女は考えた。何かの間違いか、そうでなければやっぱり自分を食べる狡猾な罠だ。あんなに大きな生き物にとって自分など食べても大した量にはならないだろうに、もしかしたら余程お腹が空いていたのかもしれない。事実彼は自分があの場に向かうまで倒れていたのだ。
リリィは確信した。あの生き物は自分を食べる気なのだと。それにしてもである。あの生き物は何故あんな場所で倒れていたのだろうか? この森は豊で食べ物には困らない。こんな状況で倒れる等よほど偏食をする生態なのだろうか……?
木の穴の中で震えていると、ふと外から何やら不可解な音が微かに聞こえてきた。カンカンと硬質に、硬い石と石をぶつけるような不思議な音だ。誰かが石と石をぶつけているのだろうか。しかしこの森には四つ足の生き物か石より小さな小動物しかいない為、そんな風に石と石をぶつける存在に心当たりがない。
リリィは再び悪い癖を出してしまった。彼女の好奇心が音の正体を知りたいと騒ぎ出す。今しがた謎の男に出会う災難が降りかかったばかりだというのに、彼女の頭には懲りるという言葉が存在しない。恐る恐る木から顔を出して、音のする方へと飛行した。
「た~お~れ~る~ぞ~」
間延びした、どこか間抜けで気力の抜けそうな声が聞こえてきた。見遣れば、リリィにレーヴと名乗ったあの大きな生き物が川向こうに立っていた。男はいつのまにか血が払拭され綺麗になっている。男の声のすぐ後に、木の皮が軋み折れ曲がる音も続く。何事かと音の原因を探るより先に、巨大な影が襲い掛かってきた。
「きゃああっ!?」
リリィは慌てて茂みに逃げ込んだ。轟音と共に土煙が舞い上がる。襲い掛かる影はリリィの錯覚であった。ただこちら側に倒れてくる木の影が伸びて襲い掛かってくるように感じたのだ。茂みから恐る恐る顔を覗かせたリリィの視線の先で、レーヴが実に良い笑顔を浮かべていた。
「どーだ? これでこの川を渡るのが容易くなっただろう。念のためもう一本倒しておくか」
レーヴは手にしていた火打石に慣れた手つきで親指をこすり付けた。彼の親指からは血が滴っており、指先に傷があることが分かる。しかし欠片も気にした風を見せず、彼はその血のついた火打石を本来の使い方と同様に打ち合わせた。数度打ち付けただけで火花が石から飛び出した。その火はすぐさま火打石から放たれるものでは考えられない大きさとなり、生き物のようにレーヴの周囲へとぐろを巻いた。
レーヴは炎を素手で掴む。掴んだ手から煙は出ない。燃え移ることもなく、レーヴの道具として握られている。レーヴは炎を扱いてぴんっと張らせると、思い切り木に叩きつけた。
叩きつけた勢いのまま振り切ると、木が炎に触れた箇所だけ抉られている。抉られた場所から発火することはなかったが、代わりに黒く変色し焼け焦げていた。レーヴは一度だけでなく、二度、三度と叩きつける。炎で叩かれる度に木の幹が削られていく。
レーヴは仕上げに今まで叩いていた部分とは反対側を削り取った。途端にめきめきと木の皮が剥がれ木の繊維が引きちぎられる。緩やかな速度で木は傾き、やがて倒れる速度を上げ、あっという間に先に倒れた木に並んだ。
これにわっと歓声を上げたのは幻獣達だった。彼らはレーヴに着かず離れずの位置からずっと彼を見守っていた。レーヴが木を伐り終えると嬉々として倒れた木の幹を橋代わりに川を渡った。羽根のない者にとって川渡りは決して楽な行為ではないのだ。
「な、何してるの?」
リリィは思い切って川を超えてレーヴに問いかけた。レーヴはちょうど後ろを向いていたが、彼女の声に気付いて嬉しそうに振り返る。
「もちろん。橋渡しだよ。これで我々の恋も橋渡し、なんつ……てああっ!」
レーヴはリリィが飛んでいる様を見て愕然とした。出会った当初にもリリィは飛行していたが今更気付いたのだろう。彼女は飛べるのだ。よって川に橋が架かろうと何の恩恵も受けない。
「なんてこった……良いとこみせて惚れてもらおうと思ったのに」
がっくりと肩を落とすレーヴの様子にリリィは首を傾げるばかりだ。しかしレーヴはすぐさま立ち直った。この程度ではへこたれない強い精神性が彼を立ち直らせた。
「見ていてくれないか。必ず君の心を射止めてみせる!」
ぐっと拳を握り言い切る彼を前に、いつしかリリィは恐怖よりも強い感情が浮かび上がっていた。
すなわち戸惑いである。彼女の前で一喜一憂する男に害意は感じられない。これはどうも自分を食べるつもりではないぞと、僅かであるが彼女は気付き始めた。