眼鏡少女から見た血みどろ男
国立中央博物館。ソフィアが下働きとして勤務するこの国の知の展示場である。彼女はここで正規の職員らの為に様々な雑務を請け負っている。お茶くみから掃除、来館者との連絡の中継ぎ等、地味ながら業務内容は多岐にわたる。しかし不満はなかった。貴族でもない下町生まれの彼女が博物館に携われるだけでかなりの幸運である。本来ここは貴族と貴族が連れてきた側仕えで構成されるべき場所だった。
彼女は博物館が大好きだった。普段は高い来館料が必要だが、年に一度王様の誕生日だけ下々にも無料で開放される日があり、彼女は幼い時のその日、初めて祖父母に連れられこの場所を訪れた。そして圧倒された。魔術によって動く機関車の模型、幻獣と呼ばれる不思議な生き物のはく製、輝く星をそのまま封じたプラネタリウム、およそ彼女の想像の埒外にある物がここには揃えられていた。
この場所をずっと目に映していたい。彼女はそれ以来守衛と顔なじみになるほど博物館の入り口に通い、門の隙間から僅かに見える館内の様子を見つめ続けた。そしてそのちょっとした奇行が招いた縁でこの場所の雑務という仕事を得たのであった。
「あれ?」
彼女はその時目にしたものの異様さに、思わず驚いた声を零してしまった。彼女の視線の先に博物館にはふさわしからぬ男がいる。長旅に晒されて擦り切れた衣服、豪華とはかけ離れた薄汚れた装飾品。そして野卑を感じさせる狼の毛皮。何よりも全体を見た印象が一言『血みどろ男』としか言いようのない男が来館者として堂々と入ってきていたのである。
ソフィアは思わず天井を見上げた。天井にはこの博物館の名物となっているカレンダーがあった。国が定めた祝日までの日数を時計の針に似たものが針と模様の距離で教えてくれるのだ。平民にも館が解放される王様の誕生日まで、まだ針はずっと遠い。しかし彼はどう見ても貴族には見えない。この博物館のべらぼうに高い来館料をとても払えるとは思えない。職員へ貴重な情報や資材を提供する調査員かとも思われたが、彼らならば裏口から出入りするはずである。このように博物館の中をうろつく筈がない。
「あ、怪しい……」
守衛さんはどうしたのだろうかと目を向けたが、守衛は何故かまったく問題視してない様子で視線を別方向に向けている。しかしソフィアは彼を本当に野放しにしていいのか判断に迷った。迷った末に、彼女は一つ決断することにした。勤務功労者としていつも優しくしてくれる上司の貴族がくれたお古の眼鏡をくいっと鼻頭のポジションに戻すと、彼女は意を決して彼の後ろをこっそりとついて回った。
〇
「我輩に馬鹿高い来館料を支払わせたからには、きっちり全て白状してもらうぞ」
「へー、へー、分かってますよ」
レーヴは何度目かになるゲートルリヒの嫌味を耳の穴を掻きつつ適当に聞き流した。ゲートルリヒはこれでもかと言わんばかりに貸しにして恩を売りつけてくるが、彼にしてみれば求められた答えを与える為の必要なステップなのである。なので恩を着せられる云われもない。
「しかし良いのか? ……貴様の事情とやらは、あまり人の耳に入れて良いものではないのではないか?」
「あ~……まあ、確かにそうですけど。けど、こんだけ人がいれば逆に話なんて聞かれないですよ。人混みなんてそういうもんです」
確かに来館者は多く、各々展示品を見るのに集中しているようだ。しかしレーヴのせいで時折ぎょっとしたりあからさまに顔を顰められてヒソヒソ囁かれてもいる。ゲートルリヒとしては引率者にあたる立場上、彼らの視線が気になって仕方がない。
「ああ、あそこに地形図がありますね。とりあえず旅の道筋から話しましょうか」
レーヴが指さした先に巨大な模型があった。山や谷、村や街が細かく再現されており、彼らの今いる国ばかりでなく他国や海を挟んだ別の陸地、あまつさえ人がとても到達できないだろう海底や、実在するのかとても信じられない天空に浮かぶ大陸まで再現されていた。
「とりあえず俺達が今いるのがここ、アイル王国中央都市シャンバラ」
レーヴが指さすとリリィがひらりと模型の上部に舞い降りる。ゲートルリヒは周囲に見られはしないかとひやりとしたが、物珍しいものを見慣れているこの場所の人々にとって、稀とはいえ世界にたった一人というわけでもない妖精の存在はそれほど驚くものでもなかった。
「で、俺達がまず目指すのがここ、空中国家エルドラゴン」
リリィがふわりと舞い上がり腰掛けたのは宙に浮かぶ円盤である。銀色で作られた皿にしか見えないが、よく見れば細かく都市のようなものが確認できた。
「伝説の国か。……本当に実在するのか?」
「疑い深いなぁ。大丈夫ですよ。勝手知ったる我がエルドラゴン、王様とも俺マブダチですよ?」
「……俄かには信じられぬ」
「エルドラゴンなんてまだ信じられるほうかと。文献もあるし見上げりゃ誰でも視認できる」
「確かにそうではあるが」
ゲートルリヒが言葉を濁すのも無理からぬことであった。長くエルドラゴンの実在と非実在はこの国の議論の的であった。国の研究所では勿論のこと場末の酒場のツマミ話にさえなる。なにせ見えるのである。空には常に銀色の円盤が太陽や月と並んで浮かんでいる。そして実際に行ったと豪語する冒険家も多いのだ。だが、ほとんどの者があまり信用されていない。何故なら彼らの言った通りの道順を試しても誰一人として正確に円盤の上に上がれなかったのだ。
すぐそこにある架空の存在、それがこの国にとってのエルドラゴンという国だった。
その国の存在をレーヴは確信しているようだった。しかし語り口がやたら軽いせいで、やはりゲートルリヒは信じきれなかった。
「エルドラゴンを信じられないようじゃ、ティル・ナ・ノーグなんて存在からして信用してないでしょう」
「そちらはそもそも初耳だ。なんなのだその、てる、」
「ティル・ナ・ノーグ、精霊の王国。通称不死の国。常若の国。全ての精霊と妖精の生まれ故郷」
円盤の上に腰掛けていたリリィがきょとんと瞬きをした。レーヴの口ぶりからは妖精と縁浅からぬ場所のようだが、彼女もこの国についてよく知らない様子である。
「俺達の旅の最終目的です。俺はこの国に行って精霊になり不死の力を手に入れる。死ななくなれば冥王の復活もへったくれもないですからね」
「言いたいことは分かるが……やはり信じられぬ。そんな国が本当に実在するのか?」
「さあ?」
「さあぁああ、だと!? 貴様、この事の重大さが本当に分かっておるのか!?」
「うるさいですよゲートルリヒ様。博物館ではお静かに」
「このっ、貴様っ、ぐ、ぐぬぬぬぬぬ」
「まあ自分のことですから、そりゃちゃんと考えてますよ。ちゃんとね」
ゲートルリヒはやけにレーヴの身を案じているようだった。彼にはすでにレーヴ側の事情をほとんど話してしまっているので、それも無理からぬことではあるのだ。
なにせレーヴが死ねば人類も存亡の危機に陥るのだから。
「その件でももう少し話しておきましょうか。ちょっと場所を変えましょう。伝承の閲覧が出来る場所がいい。資料室へ」
二人が場所を変える背後から、ついて歩く影があった。赤い髪をおさげにした眼鏡の少女。しかしゲートルリヒもレーヴも彼らより一回り小さい無害な少女の尾行にまるで気付いていなかった。