冥界の終わりとプロポーズ
「作るまでは長かったのに、消える時は一瞬だな」
闇の中で男が独りごちた。今彼の周囲では彼が在るべき世界が崩壊の真っ最中であった。地は割れて天は落ちる。岩の砕ける轟音の最中にあっては、彼の独り言など呟いた彼自身にすら聞こえない。
彼が今いるのは崩壊する世界の中心、豪奢な造りの神殿の最上に在る居室。居室のバルコニーから先ほどまで何事もなく維持されていた景色が一変し崩れていく様を、彼は感慨深く眺めやっていた。
「おー、おう、怨念が集いに集って、なんだ、俺に文句を言いに来たか」
避けた地の底からどす黒い霧が生じた。霧はまさしく意思を持った生き物のように手を伸ばし唸り声を上げ雪崩れ込んでくる。黒い形のない人影が無数に霧の中に浮かび上がる。悪意が怒声を上げて彼に手を伸ばした。
しかし、霧が彼に害を為すことはできなかった。彼の背後より出現した巨大な狼が、霧を丸ごと飲み込みかみ砕いてしまった。狼は彼の傍に寄り添い、周囲に対しては唸り声を出し威嚇していた。
男は狼の毛並みを撫でてやり、自らバルコニーより宙へと踏み出した。男の体は落ちることなく宙を踏みしめ空へと昇る。男の後ろを狼が従い続いた。
「恨むな、全て自業自得だろう。人を甘く見た自身の不徳だ。元よりお前らは死んでいただろう」
男が手を掲げた。掌の中心に炎が浮かび上がる。炎は巨大な塊となり、やがて太陽と見紛う大きさにまで変化する。男は躊躇いなく炎を地に落とした。まだ微かに残っていた黒い霧も何もかも、炎は全て吞み込んだ。
〇
その日の森は静かだった。この場所で根を張り暮らす者にとっては不気味なほど静かであった。羽虫達は鳴りを潜めて、まだ見ぬ恐れから身を守った。一方で大人しくしていられなかった者達もいた。幻獣と呼ばれる不可思議な生き物達。ただの動物ではない彼らはどうしても無視できない気配を感じて、彼の元に向かっていた。彼らは何にも従わない自由な生き物だ。ただ一つ例外として、神に類する存在へ、彼らは無条件で首を垂れる。
彼らの様子を見ていた妖精は一人首を傾げた。妖精は幻獣とは異なる存在だ。だから彼らが何にそんなに興味を示しているのか理解できない。
しかし、彼女は好奇心が強かった。妖精は総じてそうである。故に危機にも陥りやすく今ではすっかり数を減らしてしまっていた。だが、そんなことは彼女は構わなかった。彼女はか弱い生き物らしい臆病さを持ち合わせてはいたが、同時に今この瞬間の興味を満たすことを第一とする刹那主義者でもあった。
そして彼女は幻獣の向かう先へとついていった。やがて彼らは開けた場所へと至る。その中央に幻獣達が集っている。彼らが輪を描いた中心、木漏れ日に照らされた草の上に、男が一人倒れていた。不思議と生きた気配のない男であった。死んでいるのかと思えど、胸を見れば上下に動いており呼吸をしているのが分かる。傍らには狼の毛皮が落ちている。生きてはいるが、男は血まみれに見えた。
妖精は恐る恐る男に近づいていった。
瞬間、くわっと男の目が見開かれた。
「ひっ!!」
妖精は驚いて幻獣の影に隠れた。だが、男はどういう仕掛けを持っているのか妖精のいる方向に顔を向けた。男の勢いがあまりに異様で妖精は恐れをなし、より一層身を縮める。男は彼女の様子に気付くことなく地面を這って彼女に迫った。男の鼻息は荒く目は血走っている。
「お嬢さん、お名前は?」
「……り、リリィ」
答えなければ食べられる! そんな恐ろしい想像が彼女の脳内に浮かんだ。男は彼女の名前を聞くとより一層鼻息を強めて天を仰いだ。
「まさか理想の存在に早くも出会えるとは……リリィさん!」
「ふえ、え、あっ」
「俺と結婚してください」
「……え?」
突然の申し込みにリリィの目が点になった。
これが彼女と彼の長い歩みの始まりであった。