第9話 猫を“買う”ことに決めました
瞼が開く。
薄い水色の瞳が露わになるのを見て、ぼくは胸を撫で下ろした。
「よかった。やっと起きた」
ちょっと強く叩きすぎたのかと心配していたのだ。
「ガウ……」
少女は被っていたシーツを蹴っ飛ばす。
すかさず敵意を剥き、ぼくから一旦距離を取る。
タン、タン、と獣のように床を蹴ると、大口を開けて突っ込んできた。
速い!
あ。やばい。魔法が切れてる。
かけ直しをしなくちゃ。
思った時には遅かった。
少女はぼくに組み付き、馬乗りになった。
なんとか身体を押さえるけど、まさに獣のように噛み付こうとしてくる。
「ちょっと待って。ぼくは敵じゃない。落ち着いて」
説得を試みるも、まるで通じない。
悪魔に取り憑かれたように攻撃性を剥き出してくる。
やばい。
本当に食われてしまう。
食的な意味で……。
ぼくはなんとか呪文を唱えようとするも、それどころではない。
すると――。
ぐぎゅるるるるるるるるるるる……。
盛大なお腹の音が聞こえた。
ぼくじゃない。
少女の方だ。
同時に動きが止まる。
少女はペタリとぼくの胸に倒れ込んだ。
意識はあるようだが、完全にエネルギーが切れてしまったらしい。
どうやらお腹が空いているようだ。
ぼくはそっと少女から離れる。
宿から出て近くの食堂でお粥を買ってきた。
部屋に戻ると少女の耳がピクリと動く。
かと思うと、がばりと起き上がった。
涎をだらだら垂らしながら、物欲しそうにお粥が入った器を見つめる。
「食べる?」
差し出すと、少女は飛びついた。
器をひったくると、スプーンも使わず犬食いを始める。
あっという間に、一杯空けてしまった。
キラーン、と今度はもう一杯の器を見つめる。
「ちょ! これはぼくの分なんだけど……」
情けない事にぼくは胃が少々弱くて、朝はお粥しか食べない。
この世界に来て、一番助かったのは、お米で水炊きという調理方法があったことだ。ちなみにお酒は別腹だ。
だけど、獣娘は視線を外さない。
垂れた涎が床に広がっていき、このままではこの子の涎で溺れてしまいそうだ。
「わかったよ。あげる」
器を慎重に床に置く。猛犬を餌付けしてるような気分になってきた。
ガッガッガッ! お粥をかっ喰らう。
最後にコップに入った真水を差し出すと、一気に飲み干した。
やがて獣娘は物欲しそうにぼくの方を見る。
「いや、もうないよ」
手をヒラヒラさせるのだが、少女の口からは依然として涎が垂れていた。
さっきまでの凶暴性は失せ、ご主人を見つけた犬のようにモフモフの尻尾を振っている。
「わかったよ。おいで」
少女を近くの食堂まで案内する。
すると、大人4人前もある量の料理をあっという間に食べてしまった。
住宅の頭金と思っていたゴルの半分近くが彼女の胃袋に収まってしまう。
明日からまたスライムを倒しにいかないとね。
さらに大人4人前を平らげてしまった。
唖然とする店主と客に見送られ、ぼくたちは店を出る。
お腹一杯になった少女はすっかり気を許したらしい。
ぼくのズボンを掴み、片時も離そうとしなかった。
「すっかり餌付けしてしまったようだね」
宿に帰ると、フロントで煙草をくゆらせていたルバイさんが言った。
手には干し芋を握ると、それを少女に向かって放り投げる。
上手いことをキャッチすると、またガツガツと食べ始めた。
まだ食べ足りなかったんだね。
「この子、おそらく奴隷だね」
「奴隷?」
「ステータスカードを持ってなかったからね。たぶん、ジョブ放棄者かそもそも登録をしていなかったかもしれないね」
「ジョブを放棄することなんて出来るんですか?」
「出来るよ。けどね。その末路は悲惨そのものさ。一生人に飼い慣らされることになる。つまりは奴隷さ」
「じゃあ……」
1歩間違えれば、ぼくもこうなっていたかもしれないのか。
目を細める。
硬い干し芋と格闘する獣娘を見つめた。
「おそらく奴隷商か主から逃げてきたんだろ? 知らせてやんなきゃね」
「主人のところに返すんですか?」
「そうだよ。可哀想だけどね。この子は奴隷だ。何の取り柄もない。主人がいなくては生きてはいけないからね」
「そうですか……」
可哀想だと思う一方で、納得する面はあった。
ぼくは1度、ジョブを無視して、仕事に就こうとした。
けれど、どこも門前払いだった。魔法使いと縁の深い魔導書の専門店ですら、拒否された。
それほど、この世界でジョブを持っていないということはハンデになる。
生きていく方法はただ1つ。
命を代価に、人に仕えるしかないのだ。
「邪魔をするぞ」
低い男の声が聞こえた。
宿の前に1人の大柄の男が立っている。
その後ろにはさらに強面の男が数人。
手には鎖が付いた枷を持っていた。
「この近くで小さな少女を見なかったか。薄汚いコートを……ん?」
年は40代ぐらいだろうか。
真っ黒な長い長髪に、如何にも偉そうな口髭。
神経質そうに尖った瞳の下には、隈が浮かんでいる。
ファーのついた赤いマントを羽織り、腰のバックルが鈍く光っていた。
男はぼくのズボンにしがみついた少女を見つける。
対して獣娘は明らかに警戒心をむき出しにし、小さく唸り声を上げた。
おそらくこいつが、主人だ。
「おい。いたぞ」
顎をしゃくる。
部下と思しき男たちが前面に出ると、少女を掴まえようとした。
ぼくは詠唱した。
「ゆう○い――」
ぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺ……。
突然の奇声に驚き、男たちの歩みが止まる。
「なんだ? お前?」
「しがない魔法使いだよ。レベル1のね」
「レベル1だと……。悪いことはいわん。大人しくすっこんでろ」
「そういうわけにはいかない。この子はぼくが拾った猫だ」
「ちょっと! あんた!」
ルバイさんが慌てる。
主人と思しき男は、ぼくを睨んだ。
「俺の名前はロダイル・ハウナーズ。奴隷商をやってる。ちなみにお前さんの後ろに隠れている奴隷の主だ」
やっぱりね。
「拾ってくれたことには感謝する。だが、大人しく返さないと痛い目をみるぞ」
「そうだよ。大人しく返した方がいい」
ルバイさんも一緒になって説得する。
しかしぼくは応じなかった。
少女の頭に手を載せ、安心させるように撫でる。
その余裕が挑発行為に見えたらしい。
部下の男が掴みかかってきた。
それなりのレベルの持ち主なんだろう。
でも、まだ遅い。
ぼくはゆっくりと動く。
あっさりと男をかわし、側面に出る。
がら空きになっていた脇に、拳打をめり込ませた。
「ふご……」
男は膝をつき、倒れる。
ひぃひぃと悶絶した。
もう1人も襲いかかろうとしたが、主人の方から「待った」がかかった。
「お前、本当にレベル1か。こいつらレベル30の用心棒なんだぞ」
奴隷商は眉を顰める。
「そんなことはどうだっていいんだ。商人さん、あなたに提案がある」
「なんだ?」
「この子を売ってくれないか」
また奴隷商の眉間に皺が寄った。
「残念だが、こいつの売り先は決まってるぞ」
「じゃあ、その売り手の倍を出すよ」
「待ちなって、あんた! まだ金額も聞いてないのに、そんな約束――」
ルバイさんがこんなに慌てているところ初めて見た。
「そうですね。……では、いくらですか?」
「1500ゴルだ」
「せん…………」
「じゃあ、3000ゴルですね」
「あんた、そんなお金……」
「ええ。持ってません。けど、1日待ってもらえないでしょうか?」
ロダイルに尋ねた。
「ダメだ。1日待ったら、そいつを連れて逃げるかもしれない」
「大丈夫。そんなことはしません」
「口約束なら誰でも出来る」
「約束を破ったら、ぼくの命をどうとでもすればいいです」
「お前の命なんていらない。俺がほしいのは、金だけだ」
徹底してるなあ。
まあ、商売人って感じだけど。
さて、どうしようか。
ぼくが持っている財産をすべて投げ売ったところで、3000ゴルは到達しない。
どうにか明日1日ぐらいあれば、なんとかお金を工面できるんだけどな。
「ロダ……。1日ぐらい待ってやんなよ」
といったのはルバイさんだ。
ロダ――というのは、奴隷商の愛称なのだろうか。
女将さんの知り合いなのかな。
「いくら女将のいうことでも、こいつは聞けねぇ」
「あんたはいつかそうケツの穴が小さくなったんだい? じゃあ、わかった。実はこの娘、うちの天井を壊しちまったんだ。他にも客からクレームが来て、経営上の実害も出てる。責任者として、この落とし前はどう取ってくれるんだい?」
おお! なんか女将さんかっこいいぞ。
ロダイルは押し黙った。
瞼を閉じ、しばし考える。
「わかった。昔ここで世話になったあんたの顔に免じて、1日だけ待ってやる。金が工面できたら、俺のとこに来い。店の場所は女将が知ってる」
まくし立てると、ロダイルは肩を切り、店から出ていった。
「かう゛?」
獣耳の少女は何が起こったかわらかず首を傾げる。
ぼくは優しく少女の頭をまた撫でるのだった。
異世界転移/転生15位。
日間総合52位でした。
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目指せ1桁! 目指せ50位突破!
更新頑張ります!!