空想
彼女は油で揚げる前のドーナツの生地で、私は熱されたサラダ油。重なり合えば、痛みが走る。火傷したような心。死神と殺し屋。ローレンツのジュズカケバト。
私は、彼女の溜息一つをも愛した。
「空想小説の話をしようか」
「ふふ、またぁ?」
そう私たちは最初から最後まで空想一つでつながっていたんだ。
「私ね、『日本』とかに生まれたかったよ」砂糖菓子の甘さ。口の中に広がる。「だって『日本』なら、みんな裕福で、戦争もなくって、残虐な事件もない。みんな仲良しで優しくって愛にあふれてる国なんだよ。死にたい、なんて、きっと誰も思わないんだよ、ね」
そうユートピア。空想小説に描かれた私たちのユートピア。生まれ変われるのなら私はあの世界の住人になりたい。
女の子は夢を食べて生きる。夢の世界の住人。時計の針が十二を指すことを怯えるシンデレラのように、女の子は夢から覚めないかを常に怯える。もちろん私も夢見る女の子。桜ひらのは愛しい死神の夢を見る。
「私の信じる私と、貴女の瞳に映った私と、そのどちらもが私だから、両方の私で貴女を抱きしめられたら、それ以上の幸せはきっとないと思うんだ。貴女の過去と、貴女の未来と、そしてもちろん目の前の貴女と、その全部をガトーショコラで殴り殺せる、そんな、そんな気持ちをきっと、私は愛と呼ぶから、愛と呼びたいから、だから、お願い。私の隙間を、貴女が『殺して』」
死神なんでしょ。朱志香。
私も殺し屋だから、得意だよ、殺すのなんて。
気持ちも、想いも、世界も。
全部、全部、殺す。
けれど、私は、たった一つの、願い。
貴女に殺されたい……。
私の心を、存在を。
「想いなんかすぐに灰になって消えちゃうよ……。言葉の方がずっと信用できる。この想いが回る世界に擦り切れた時でも、私が貴女に言う言葉だけは、絶対に残り続けるでしょう? 想いが消えても、言葉だけは残る。世界が滅んだそのあとも言葉だけは残り続ける。だから、私は貴女への言葉を、たった一言、この世界に残したいの……」
世界の傾き。私は傾いて朱志香の瞳を覗く。
下賤な空。私と貴女。腐りかけの世界。殺し屋と死神。
「言葉だけでいい。言葉だけ。お願い、たった一言だけでいい。愛してるって……、貴女のことを愛してるって、言わせて」
想いだけは変わらないなんて嘘だって知ってる。
明日の私は、今日の私と何もかも違う。
そう、そうなんだよ。
もう、ここに昨日までの私がいないように――。
「ずっと、愛するなんて……、そんなこと……、出来ない……。けど、けどね。私が貴女のことを、たとえば、永遠に愛するって『言う』ことは出来るから。言って、約束することは出来るから、ね……」
私は、私になった時からその言葉しか知らなかった。「愛してる」
朱志香は私のことを、こつん、と抱いた。寝ぼけまなこで世界を見下す、猫背の私を真っ直ぐにした。ずっと一緒だよの言葉。飲み込んで、押し込んで、涙の味を舐める。
「大丈夫よ」朱志香は私の右手を包みこんだ。「ひらのの想い、ちゃあんと私が殺してあげる。私は、だって、ねえ、死神だもん――」
朱志香の八重歯が私の唇にそっと触れた。
「死神に任せなさい」
「ありがとう。ジェシカ」
溶けたアイスクリームのように私たちは混ざり合った。自分も貴女もすべてが分からなくなるくらいに、愛を信じた。コーラの上に落としたアイスクリーム。しゅわしゅわの心と、とろとろの身体。
彼女の鎌を、自分の首に望んだ。それがただ一つの愛。死は救いだから。
「死神の名に懸けて」
「殺し屋の名に懸けて」
殺すのなんて、簡単だ。
愛される人に、心を殺される困難さに比べれば、ずっと、ずっと。
※※※
窓を開けたら、風と共にサクラの花びらが入り込んだ。
私に似た花。銀色のボウルに花びらが落ちる。牛乳を飲んだコップを流し台に放り投げて、私は腕まくり。
「さあ、ホットケーキでも作りますか」
誰にともなく呟いてみる。「甘くて甘くって仕方ないやつを、さ」
少しばかし高級なホットケーキの粉を買ってきた。銀のボウルにそれを開けて、そしていつもより一つ多めに卵黄を落す。綺麗なオレンジの卵。私はそれをつぶして、つぶして、つぶして、つぶす。真っ白な牛乳を流し込んでかき混ぜる。そこにちょっとの溜息を混ぜ込めば、それはまるで一つの生命体。
フライパンにバターをのせて、優しく熱した後に、濡れ布巾に落とす。心地よい悲鳴のような音。熱された水のにおい。軽くフライパンを回して油をひく。
高いところから生地を落す。ぽん、と優しい音が鳴って、ぷくぷくと甘い香り。
ホットケーキの出来上がり。
「さあ、ホットケーキの上にすわりこんでみようか」
冗談を言って、メープルシロップ。とろけるバター。ホイップクリーム。手作りの苺ジャムも添える。ほかほかの温かさとふわふわの香りを発するホットケーキ。お皿に二人分乗せて、私はテーブルに並べる。
今日はテーブルクロスも敷いて、花瓶も真ん中に。『フィンランド』柄のマグカップにはコーヒーを注ぐ。カーテンを開いて、外の風、部屋の空気と混ざり合えば、一つの渦巻きが発生する。
私はその中で、とんてんたたん、とタップを刻む。
「ジェシカ」
私は死神の名前を呟いた。すべてが満たされる心地がした。
「ジェシカ、ジェシカ、ジェシカ」
私は家じゅうの窓という窓を開け放った。
空を見上げる。下賤な空。でも今日は何だかいつもより澄んだ青に見えた。
センパイからもらったナイフ。そっと外に放り投げた。軽やかの音に次いで、小鳥が二羽、目の前を飛び去った。高く高く飛んでいったそれはすぐに青空の中へ消えてしまった。
遠くから朱志香が駆けてくる。
私は窓枠から身体を乗り出し、遠くまで聞こえるように、喉の限りに叫んだ。
「ねぇー!! ジェシカー!! そっちに向かって跳んでもいいかなあ!!」
朱志香は私の大好きなあの笑い方で、私に向かって、大きく手を広げた。
「さあ、来い!」
途端に世界に光が満ちた。私は大きく息を吸った。跳んで、跳ねて、踊って。甘い甘いコーヒーを啜って。甘い甘いホットケーキを齧って。そこに座り込んで。おまじないの言葉を唱えてみたり。
彗星が落ちる。少女が落ちる。
死んだら、死んだ。そんなトートロジー。
世界も、私も。どっちもそんなに変わりはしないから。私はそのどちらもぎゅっと殺してやる。
目を閉じて息を吸えば、甘い香りが、世界に漂う。
「ねえ、ひらの。これからもずーっと一緒だよ」
断頭台の刃が地面に落ちる音がした。
殺し屋の名に懸けて私はこの想いを殺し続ける。春の風はもう、死を決して含んではいなかった。
さよなら。そう、さよなら。
空想世界の夢。
私たちはいつまでも見続ける。死と愛が混ざり合う世界ではなくて、すべては穏やかな春の世界。私は空を見上げる。
世界が壊れるとどんな風になるのか、死神と一緒に眺める。
愛してる。
ただ、それが私の呟き。
呟いて、ガトーショコラ。そして、静かに静かに、世界は暗転。