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正義の柱

 あの頃。私はまだほんの子供で、自分の能力のことも、ましてや役割のことなんて、何にも分かっていなかった。

「貴女は今日から人を殺します」

 その至極簡単な構文が子供の私には理解が出来なかった。

 センパイから渡されたのは銀色の刃。見たことないほどの輝き。

「こんにちは、桜ひらのちゃん。私が今日から貴女に正解を教えてあげるわ。それはすべてのすべてよ。明日何を着たらいいのか。何をどれだけ食べたらいいのか。何の本を読んだらいいのか。何の素材の枕で寝たらいいか。何を信じて生きたらいいのか――。そのすべて」

 恐ろしさに鳴き声をあげたら、次の瞬間には頬が真っ赤に腫れていた。叩かれたのだと気が付かないように無意識に下を向いていた。恐怖のためか、涙は何故だか一粒もこぼれ出なかった。

「愛してる」

 センパイは私の頬を赤く染めた後、私の歯を折った後、私が血の色を吐き出した後に必ずそう言った。そう言ってその後、私の髪をぐしゃぐしゃと撫でまわした。私の髪の毛はそのたびにあちらこちらに跳ねてしまうが、私はそれを直すこともしないままにセンパイの感情の見えない瞳を覗いて、目を伏せる。

「人は、決して、人は殺してはいけません。分かる? 道徳性、倫理性、社会性。人が人を殺して許されるようなことは絶対にないのです、本来は、ね。けれど、私たちだけは許されます。何故でしょう? そう、答えは『正当性』です。大人の世界ではコレさえあれば、コレ、たったひとつさえあれば、すべてが許されるのです。裏を返せば、これがないとなればその行為はすべて間違いとなるのです。どう、簡単でしょゥ?」

 センパイは私にすべてを与えた。

 輝いたナイフも。綺麗な服も。私を表す「桜ひらの」という名前も。生きる目的も。正当性さえも。

 私は与えられたナイフに、はあ、と息を吹きかけた。銀色の刀身が私の息で少しだけ曇った。

「貴女は、だから、今日から人を殺します」

 目の前に、神様がいた。両手足を縄で縛られ、目を、口を塞がれ、涎と、擦り切れた皮膚から流れる血と、漏らし出す糞尿の臭いを纏った神様がそこにいた。

 生理的な嫌悪感に眉を顰めたら。また、私の頬を赤く染まり、そして髪の毛もくしゃくしゃになった。

「はい、どうぞ」

 センパイは私の手にその手を添えた。小さなこの手にはあまりにも大きな刃をぎゅっと握らせた。

「貴女の右手には、本当の神様が宿ってるから、ね。こんな世界を腐らせている大人な連中とは違って、本当の神様が」そして、とセンパイは私に自分の右手を握らせた。「私の手にも――」

 私はその日、初めて命を奪った。

 それは私にとっては呆れるほどに簡単な『作業』だった。センパイの言によれば、私は恵まれた子らしい。何故なら私は欠伸をするような気軽さで、人を殺せる。たった少し、相手に傷をつけ、そして命を奪うことさえイメージしさえすれば、その人は勝手に、深い眠りにつく。心臓を抉ることも、脳みそをぶっ飛ばす手間も必要ない。私はまるで息をするギロチンだった。

正義の柱(ギロチン)』。

 それはセンパイを示す言葉でもあった。

 その最期。空を見上げ、今までの人生を思い出し、その幸福と不幸の両方を思い出す。その機会を与えられる、唯一絶対の正義の刃。それが瀬紀センパイに与えられた記号。

 そして私に与えられた理想。

「愛してるわ」センパイは言う。

「愛してます」私もセンパイに言う。

 世界の介錯人、桜ひらのは、そうやって大人になっていく。


 ※※※


 空は青ばんで、今日も春のにおいを運ぶ風。もうサクラはすっかり散って死んでいた。私は世界の吐息をそっと聞いた。目を閉じると息吹を感じる。腐り落ちた世界。死に傾きすぎた世界。乙女たちが血を散らす花の世界。涙の音が響かない世界。

 電車が線路を叩く音。お濠を沿って私は歩く。暑くないのに汗が出る。私の心と私の身体。

 落ちてくる、少女の双眼。「じゃあね」と呟きが聞こえた。どん、と音を立てて、真っ赤な血しぶき。私は、はあ、とため息をついた。

 私がホントの本当の大人だったら、タバコや酒やドラッグや、まあそのへんの類をどぼどぼやりたい心持。良い子の私はそんなもんには手を出さないけど。

「はろはろォ!」

 瀬紀センパイが右手をひらひらさせた。もう片方の手にはアイスコーヒーの缶。ぽん、と投げ渡されたそれを私は右手で受け取る。プルタブを押し開けると、異国の香り。苦み、ツンとさす苦み。センパイの好きなこの苦みを、私はいつか愛せるだろうか。考えながら喉の奥に通す。

「センパイ」私は言った。「これ返します」

 レモン。酸っぱさ。初めてのキスと同じだけの酸味。口の奥で唐突に広がるその痺れは、神を殺す、そのための爆弾。

 センパイ、私、甘い中で生きていきますから。甘い甘い。そんな世界で生きていきますから。だからこれはセンパイに。私のことを愛してくれてる、そんなあなたに。

「介錯人ヒラノ」

 血の海。肉の山。都会の真ん中に仁王立ち。ビルから落ちる少女の双眼。弾けるかおり。音。響いた悲しさ。私は笑った。

 レモンを受け取ったセンパイは困った様に、でも少しだけ嬉しそうに、小首をかしげた。

「決めたのねェ」

 センパイの声は驚くほど澄んで空へと響いた。私は空を見上げた。その青さは目にまぶしく、春のあたたかさは吐き気のするほどの優しさだった。

「ええ、決めましたよ。センパイ」

 センパイから頂いたナイフ。私が上げたハンカチーフ。投げキッス。私の愛。

「さよなら、センパイ。悲しみよ、こんにちは」

 そう私は決めたのだ。

「『正義(ボワ)()(ジュスティス)』セシル! 今日、私はあなたを超えます。私は空想の中に生きることに決めました!」

 息がはじけた。

 笑った。センパイが。大きく口を開けて。

「そう、そうよ――。私の二つ名は『正義の柱』セシル。知っての通り、人類史上最も多くの罪人を救ったと言われるあの道具の名前。身分の貴賤も関係なく、一瞬で、美しく、痛みもなく、あの世へといざなうもの。空想世界の夢の武器。それが私の二つ名」センパイが右手に刃をとった。「そう、つまりはつまり、そういうことよ――」

 私はセンパイの瞳に頬を抑えた。赤くないそこが薄く痺れ始めたのを感じた。

「ほら、センパイってそういう風に自分だけカッコいい二つ名があるんですから。ズルいですよね。ズルズルのズルです」

「『介錯人』ヒラノ。あらァ、いい名前じゃない。ま、それはつまり『正義の柱』には絶対勝てないってことを表してるんだけどもね」

 センパイの髪のにおいが私の鼻元にまで届く。相変わらず趣味の悪いオーデコロン。空想世界の香り。その強い香りは、血の臭いを隠すためのもの。

 うん、そうなんですよ。私とセンパイは、結局、そこが大きく違うんだ。

「愛してますよ。センパイ」

「ええ、ひらの。私も」

 私たちは大きく笑い合った。二つの刃がゆっくりと震える。

「じゃあ、ひらの。遊ぼっか?」

 私は、笑い涙を人差し指で拭って、はい、と頷いた、


 世界の歪。


 冷たく静かに殺す。生への渇望。


 下賤な空。春の陽だまり。


 散る桜、残る桜も、散る桜。


 静寂の響き。弾けて、散る。


 それは希望であり恐怖であった。そして未来でもあり今でもあった。

 広がる空の下、民衆たちの瞳が一点に交わるところ。罪人の咎を断ずるための一刀。安寧と救済。まるで聖女の涙が落ちるように、大地に吸い込まれる。

 血。音。におい。混じる。

 人はそれをギロチンと呼ぶ。

 空想世界の武器。

 瀬紀センパイの二つ名。

 最も多くの罪人を救ってきたその武器は、つまりはつまり、セシルという少女の生き方そのものだった。


 ※※※


「愛してるわ」

 センパイの声はいつも耳もとで聞こえた。

 殺すたびに。命を奪うたびに。それは頭の中で響く。

 私は世界の中でその愛に応える。応えるためにはナイフを振る。

「冷たく静かに殺す」

 愛されるために、愛するために、それだけのために、生きてきた。

 そう、私は、そういう女だ。

 最初の恋と、最後の恋の違い。

 最初の恋はこれが最後の恋だと思い。最後の恋は、これこそ初恋だと思うものだって、そうつまりはつまりそういうこと。

 私の恋は最後の恋は終わりを告げ、そして初恋も、私の手で殺す。

 あ、もしかして、私、初めて流行に乗っちゃってるてる?


 ※※※


「冷たく静かに殺す」

 私の能力はたったそれだけのものだった。たったそれだけの能力で私は、私を愛してくれる人の目を閉じさせた。

「センパイ……。これがセンパイに教わったことですよ」

「そう」

 センパイから流れる血の色は私と同じ色だった。いつもと逆にセンパイの髪をそっと撫でれば、甘い香りが漂った。センパイの身体はきっと何人もの死体を合わせてつくった人形。

「ああ、いい。気持ちいいわ。ねえ、ひらの。私はなんて幸せなのかしら。大好きな貴女の刃で眠れるなんて……。生きてると、こんなにいいことがあるのね……」

 センスの悪い皮肉だった。私はそのセンスの悪さがたまらなく好きだったのだ。

 右手を強くセンパイに押しつけた。小さく漏らす息の音。私は彼女に深く口づけをした。お熱いのを一つ、きっとセンパイはそういうのが好きだから。

「愛してますよ、センパイ」

「……ふふ、うれしい」

 ゆっくりと、その目は閉じられた。暖かな暗闇。桜と血と香りが混じって弾ける。

 胸の奥で、何かが綺麗な音を鳴らした。

 ――コンッ。

 目を開けるとセンパイは、もう、ちっとも動かなくなっていた。手から滑り落ちた刃の音は虚しくただその残響をその場に残し続けていた。

 神を殺す、そんなレモンが転がる春の陽の下。

 私は今日、私の瞳に映るすべてを殺した。

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