愛
出会いも、サクラの季節だった。
桜さん、と私のことを呼び止めたのは朱志香からだった。
今となっては至極まっすぐで純粋でぽわぽわとしたお姫様のようなワタクシではございますが、その頃の私はツンと尖った瞳の、まるで殺し屋のような女だった。
――なあんて。
「ジュズカケバトの話知ってる?」
言うに事欠いて、たった一回同じクラスになっただけの人間に対して、朱志香は空想小説の話を始めたのだった。
「空想小説は禁止されているはずだけど」
良い子ぶるのではなく悪い子ぶるために、わざと法律順守を唱える私の、スカートの丈は校則よりもだいぶ短かった。
「なに言ってるの?」朱志香は八重歯を見せながら、揚げたてのドーナツのような笑顔をした。「ジュズカケバトって言っただけで空想小説の話だって分かる桜さんが実は空想小説の熱心なファンだってことはとっくのとうに知ってるよ。私もね、空想小説の大ファンなの! 『フランス』って国で起こった革命の話とか、『アメリカ』で馬に乗って荒野を走り回るガンマンの話とか、『日本』の銀行員が青酸を飲ませれて皆殺しにされちゃう事件の話とか。心躍るよねえ!」
あ、この子は私を同類だと思っているんだ、と最初私は辟易とした。
私が空想小説を読むのは、貴女が空想世界に夢を見るのとは違う。私の目指す世界が向こうにあるからそのために刃を振るう、つまりは生きる理由そのもの。
架空の国の出来事を、まるで現実のもののように描いたのが『空想小説』と呼ばれる作品群だった。その膨大な文章量と綿密な設定の数々は小説と呼ぶにはあまりにも超大過ぎた。誰の手によって書かれているのかも分からないその膨大な作品は、毎日、街角に貼られる新聞のような形で発表される。政府はそこに書かれている空想を退廃的なものとして取り締まりを行っているが、それでも小説の発表は止むことがない。
だから、こうやって公の場で堂々と空想小説のファンであることを宣言するのは慎むべきなのだ。よくよく見れば彼女の通学カバンには『日本』と『ロシア』と『アメリカ』の国旗のキーホルダーが揺れていた。
「私ね、桜さんと友達になりたいんだよ。友達、フレンド、パドゥルーガ!」
にへへ、と八重歯を見せる彼女の、その髪の毛にサクラの花びらがとまった。
オリーブをくわえたジュズカケバトが新たな大地の誕生を知らせる。それは平和と友愛の象徴だった。あの世界のユートピアはそこから始まる。穢れきった住人が一掃された、神による誅罰。
その時、桜の花びらが風に舞った。この花は空想の国『日本』の花らしい。同時に、こんな私を表す記号でもある。私は桜吹雪の向こう側に貴女を見た。
朱志香。ジェシカ。JESSICA。
声に出して唱えてみるととても滑稽な響きだと感じて、私は嬉しくなって何回か胸の内でも呟いてみた。
「私、空想小説好きだよ。桜さんもでしょ? 私ね、この世界をあんな風にできたらな、ってそう思ってるんだよ。だから、だからね。貴女と友達に、なりたいの」
無遠慮な彼女は私の冷えきった右手をとった。彼女の手は馬鹿みたいに温かったから、私はきっとのぼせたのだ。
「いいけど、私、殺し屋だよ」
すると、朱志香はメープルシロップをたっぷり落したチーズタルトのような笑顔で言った。
「知ってるよ。貴女はきっと私の羽を毟るジュズカケバトなんだよね」
途端、彼女に触れていた右手が火傷したみたいにぴりりとした。胸の奥が、ホットチョコレートを流されたみたいにぽかぽかとしだした。
この感情を自分自身にも説明することは出来ない。人を好きになるということに理由があるんだというのなら、それはきっとこの右手に答えがあった。
彼女にとっての私がそうであるのなら、もちろん逆も真であって、私の心を、朱志香はそのくちばしで毟るジュズカケバトだった。
「世界を、ユートピアにする?」
「ええ、そう。私と貴女の二人で」
「私は、『日本』が好き」
「私も、だよ」
――まあ、つまりはつまり、そういうこと。
※※※
デパートの屋上。遊園地。私は右手にはシナモン味のチョロスを握りしめ、左手にはコーラ。
一方の朱志香は春先なのにイチゴ味のかき氷を美味しそうに舐める。舌の先を真っ赤にして私にあっかんべーをする。私は南方の香り漂わす真っ直ぐな棒を、ぽっきりと真っ二つにして、私はそれに応戦する。
「男と女の恋心でさえも、今は哲学ではなくて脳科学の領域なんだよ。男は女の腰を見て、大きなお尻とその比率が七対十の割合であれば、あ、こいつはいい女なんだって、そういう風に分析するんだってことを暴いて。遺伝的な多様性の確保のために恋なんて十八か月しか続かないんだって、いう。そういう時代。それってまるでお前らは猿なんだって言われてるみたいだよね。ま、猿なんですけど、私たち、キキキィ」
「何の話?」
「ん? ただの与太話ッ」
今日も絶好の自殺日和だった。すぐそばでは、いっせいのーっせ、の掛け声で目の前で女子高生たちが飛び降りる。
青空。狂おしいほどに透き通った青。吸い込まれてしまいそうに高く、澄み切った美しさは死を連想させるほどに儚い色。
――ああ、下賤。
ぱんぱら音を鳴らしながらガキが跨るパンダちゃん人形と小さな小さなメリーゴーランド。機械仕掛けのジャンケンゲーム。オンボロなパンチングマシーンに猫パンチ。フリースローで勝負して、ゆるゆるのクレーンゲームに金を落して私たちは暇を殺した。
「私ね、死のうと思ってるんだ」
空想小説の登場人物をモチーフにした、テディというクマのぬいぐるみをクレーンで掴み上げた時、彼女が言った。『こん棒外交』。素敵な響き。
「ふーん、そう」私は言ってから、「え、あ、ごめん聞いてなかった」と嘘をつく。
「ひらのはさ、空を飛んだこと、ある?」
「あるよ」――嘘。
「私もね、流行りに乗ろうと思って、ね?」朱志香は八重歯を見せながら笑顔した。「ほら、私ってトレンディな女じゃない?」
そうこうしているうちに屋上にいるのは、私と朱志香だけになった。みんなは一足先に流行りに乗った。
「そんなら、私に殺されてよ。私は殺し屋だよ」
「むふふふ――。どうしよっかなあ」
死神のタップ。
とん、てん、たたん。
私は彼女の右手に、本当だったら見えないはずの『鎌』を、確かに、見た。それは人の命を刈り取るための道具。鈍く輝く美しく。すべての人を魅了する光。
私のポケットには瀬紀センパイから預かったレモン。対象――神だけを殺す中性子爆弾。朱志香の鎌とは全く逆の、美しさの欠片もない、馬鹿みたいな玩具。右ポケットで今すぐ破裂したがって暴れている。
――まあだ、だよ。
「この機会にね、絶対に私だけは見れないものを、見てこようかなぁって、昨日、ひらのから電話があって、思ったんだ」
「この機会ってどの機会よ」
「貴女が私を殺してくれる、って言ってくれた、その機会」
絶対に自分自身では見ることが出来ないもの。
――それは、自分の顔。
死ぬまで、それを自身の目で見ることはできない。そういうもの。自身の表情は。
彼女が、私にテディを押しつけた。
「どうしたのよ、その『なんか臭いな、っと思ったら臭かったのが自分の鼻の穴の中だったって気付いたとき』みたいな顔して」
「そんな顔、してないよ……」
はは、と小さく笑って見せた。
愛は与えるもの。腐りきった心。唾棄すべき性欲と、抑えきれない恋心。胸の内に隠れた理性という名の配電盤は、視覚嗅覚触覚から与えられた情報を身体中に配分し、溢れんばかりの感情を点火させる。
「見れるよ、死ななくたって、自分の顔くらい……」
声が震えた。
キスの直前。その距離。息が交わる。私の汚いのと、貴女の綺麗なのと。混ざって、貴女色の染まってしまえばいいと、半ば本気で思ったまま、私はアイシテルの言葉を静かに胸にしまって、レモンを抑える。
うまく演じ切れているだろうか。
途端、不安になる。私は暗殺者サクラ・ヒラノになりきれているのだろうか。
朱志香の瞳に私が映った。
私は、私の顔を見る。
――ああ、そう、これが私だ。
「ホントだ、見えるねえ」
貴女も笑った。
朱志香の瞳が私ではなく青空を映した。
「でも、やっぱり、私は――」
次の瞬間、世界のすべてに救いを与える、死神の少女は駆けだした。
空へ向かって。走る、走る。ここは屋上。果てには空。どこまでも遠くへ。遥かなる空へ続く狭い有限の世界。
それは殉教のために、その身を劫火に焼かれる『フランス』の聖処女とは真逆の美しさだった。笑いながら彼女は、死に向かった。髪の匂いが静かに広がった。
その瞳には涙はなかった。ただ笑顔だけがそこにあった。
永遠だった。
彼女の美しさは間違いなく永遠だった。
しかし、それは終わりのある永遠。
私は――。
私は手を伸ばしていた。まるで世界中の救いがそこにあったかのように、私は自分の尊厳も自尊も役割さえも忘れて朱志香の腕をつかんでいた。
――この、右手で――。
『冷たく静かに殺す』。その力を秘めた、この小さな手で死神をつかんだ。
折れそうなほど細いその腕。メレンゲのような軽さ。彼女から目を逸らすと、私の放ったテディが屋上に寝そべり空を見上げていた。
私は、ぐっと、力強く、今までで一番の暴力で彼女をこの世界にとどめようと努力した。胸の中に彼女を抱く。一つの瞬きもなく私は彼女を見つめる。涙を拭った後のティッシュペーパーのように私の心はしわくちゃになって、悲しみの海を漂う。行方不明の感情を、私は手さぐりに求めると、それはとっくに私の胸の中に落ちていた。
愛は女を酩酊させる。
「死んじゃうかと、思った?」
「……うん」
「そ、」朱志香はちょこんと首を傾げた。「じゃあ、死んであーげない」くすす、と笑う。
自分の右目にコンパスの針を近づける時の気持ち。山椒は小粒でぴりりとなんたら。そんな舌触りで言葉を紡ぐ。
「ヒツジはね、転んだら起き上れないんだよ」
「そうなの?」
「うん、もふもふだから」
「もふもふだと起き上れないの?」
「そう、だから、もふもふも考え物なのよね」
「もふもふ……」
「もふもふ」
私は泣いた。もふもふと何度も口にしながら泣いた。今度の今度は嗚咽が混じった。
胸の中の死神を、私は愛していた。
バズビーの椅子に貴女を無理やりに押し倒したい。ゆあーんゆよーん、と宙吊りのなか。押し倒して蓬莱山の薬を、私の唾液と一緒に貴女に流し込む。貴女はきっと最初の一瞬、後ろに身を引くでしょう。私はそれを抑え込んで舌をねじ込む。手で押しのけようとする貴女の手をぎゅっと握り返して、耳もとでバニラビーンズの香りが利いたシュークリームのような言葉を囁く。頬に二度口をつけた後、ゆっくりと私の唇は貴女のそれへの道を辿る。息なんかしなくていいんだよ、と私は貴女のすべてを塞ぐ。何時間でも、何日でも。いろは歌に、作者の呪詛が込められているように。私の言葉には、どうしようもないくらい、貴女への気持ちがまぶされる。
「私って、そう、彗星と一緒なのよ……」
「彗星?」
「そ、彗星。ムーミン谷に落ちてくる、淋しい彗星」
ひとりぼっちの彗星は、みんなに恐れられ、怖がられる。ムーミン谷の森も雨も風も海も光もすべてを奪い去ってしまうような彗星。スニフがコーヒーのカップを倒しても、そんなことは関係ない、だってすべてはお終いだから、お終いの彗星。
私たちは、それと、きっときっとよく似てる。
「それがひらのなの?」
「そう、そして朱志香も……」
「私たちが、そろって彗星?」
「そう」
「ひらのの話は時々意味わかんない」
「良かった、時々で」
「にへへ」
決めた。
私の握るべきは、ナイフでもレモンでもなく、甘いガトーショコラ。それが、つまり、愛してるの意味。
役割、役目、能力。
そのすべてが私で、私のすべてがそれなのだから。
私の覚悟。
私は、私で、私を、私に――。