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殺し屋

 ナイフの光沢。月の明かりを反射する。夜の静けさが弾ける。私はとんてんたたんとタップを刻む。

 傾いた世界に、傾いた私。わざと斜めに立って世界を見下ろす。ビルの屋上。眼下には影。少し足に力を入れて、前に身体を推し進めれば、昼間見た少女たちの仲間入り。風が私の身体を叩く。目を閉じる。街の呼吸音。腐りかけの世界。窒息しそうな心。溺れかけの自由。

 私はそんな世界に大好きのチュウ。

 夜の街は静かだ。人影もまばら。昼間は競い合うように死んでいった乙女たちも、この時間はゆっくりとお休み。静かに眠っている。子守歌の響きを私は鳴らす。

「退屈」

 腰に巻いたロープ。人はこれを命綱と呼ぶ。この程度の太さに、たった一つ命を預けるなんて、そんな素晴らしいネーミングセンスに私は敬意を払う。ぎゅっと締めるか、ゆるく締めるか、考えるのが面倒だから適当に巻いて縛っておく。

 こういうプレイもいつか試そう。

 これって、素敵な、乙女心?

 ちちち、と小さく音が鳴った。

 時間かな?

 ――ああ、時間だ。

 ぴょん、と跳ぶ。スカートがめくれる。風が痛い。ぴん、とロープが張り詰めれば、そこが目的の階。勢いをつけて窓ガラスに蹴りを入れる。小気味いい音が鳴って、私の肢体はビルの中に転がる。

 えいっ、とロープを斬り離す。

 煙草の香りが一番に鼻についた。初恋のフレーバーというやつだろう。脂ぎった中年男の臭いもそれに混じっているけど。

 突然の侵入者に驚き顔のおじさん。フローリングの床を私の革靴で汚しながら走る。流石、瞬時に彼は得物を手に取ろうとするが、私相手には遅すぎる。その手に私の投擲したナイフが深く刺さる。

 痛みで顔を顰めたオジサンに、やあっ、と跳びかかる。

 生温かさ。呻き声。臭い息。でっぱったお腹。毛むくじゃらの腕。私はオジサンの青髭に手を回す。加齢臭まじりの耳もとにそっと囁いてあげるのだ。

「おやすみなさい」

 静かに眠れ。よいこわるいこ。

 私は、この、人のぬくもりが失われる瞬間というものが、たまらなく、好きだ。

 絶頂を覚える。

 どこの誰でもいい。先ほどまで動いて、考えて、喋って、息して、そういう確かな存在物としての人間が、物言わぬ人形となる時に発生させる放射熱に私は、ほれぼれとせざるを得ない。

 お祈りをする間もなく、オジサンは私の胸の中ですっかり冷たくなっていた。

 ――愛してる。

 その言葉を捧げて、オジサンを床の上に寝かせる。




『冷たく静かに殺す』。




 私の右手に宿った、たった一つの、特別な力。

 世界の介錯人。瀬紀センパイは私のことをそう呼んだ。

 少しだけ、ほんのちょっとだけ、私が右手で相手を傷つけさえすれば、私はその人を『冷たく静かに殺す』ことができる。

 我ながら、なんて美しい力なんだ、と思う。

 赤い実、弾ける。あんな死に方も素敵だ。だが、社会を汚さず。静かに、うるさい喚き声も漏らさずに、そっと、恋人を愛撫するように殺す。その時の喜び。

 ――いいね。実に、よろし。

 懐の携帯が振動を始めた。私はオジサンの腕から引き抜いたナイフを、朱志香からもらったレースのハンカチーフに包んでから、その電話に出る。

 向こう側からは聞きなれた声。

『おばんですゥ。ひらのちゃん。お仕事終わったみたいだねェ』

 瀬紀センパイのしゃべり方は相変わらず耳をなめあげるかのような調子。

「ええ、センパイ。神は死にました」

『あ、それ空想小説の登場人物のセリフだねェ。確か《ドイツ》とかいう架空の国の哲学者の言葉だったかなァ? アホリズムの巨匠。アホリズムだよ。アホ! ま、あの人のあれは比喩で言ってんだろうけどさ、ひらのの目の前にいるのは正真正銘の神様だからねェ』

 にひひ、と電話の向こうでセンパイが笑った。

空想ユートピアには神がいないのです」

『そう、それがつまり貴女がこっちで頑張る理由、でしょゥ?』

 依頼人からの仕事はセンパイを仲介して私に降りてくる。この仕事の先輩であるところの瀬紀センパイは、私にはきつい仕事を投げて、自分は楽ちんな仕事で左うちわだそうな。

「もっと生産的な仕事を下さいよセンパイ。こんな油ギッシュなオジサンをぶっ刺すようなのじゃなくて、もっと世のため人のためになるお仕事を!」

『あら、殺しは嫌ァ?』

「殺しが嫌なんじゃありません。私が汗水たらしたなかセンパイだけがお休みしているという状況が嫌なのです」

『あらら、それは失敬』

 ぷーくすくす。人を小馬鹿にしたように笑う。安っぽくて冷たい缶コーヒーと後輩へ意地悪するのが大好きなのだ、この人は。

「では、ご依頼の通り、神様一柱の殺害完了いたしました、ということで」

『はいはーい。ひらのの活躍によってまた一つこの世から貧困の種が消えましたァ。知ってる? 時に貧困ってのは核爆弾より多くの人を殺すのよ。たった一回の経済危機で、何十万人もの民草が自ら命を絶つ……。政治屋ってのはそういうところの認識が甘いのよねえ、っていうのは、戯言ォ。じゃあひらのちゃんには良い子良い子のチュウをあげようねェ。はいチュゥー』

「あ、これ貧乏神だったんですね」

『そうだよ。言ってなかったァ?』

「センパイはいつも説明不足なんですよ」

『残念ながら、それは仕様ですぅ』

 ハチミツを垂らしたヨーグルトの体で私はビルを抜ける。夜の街は何もなかったかのように静か静か。街灯が照らし、黒猫が鳴き、少女たちの血の色に染まった夜。

 スカートのポッケからブドウ味のキャンディを取り出す。それは私の体温でちょっとだけ溶けていて、包み紙にくっついていた。

『いい? その神様はそのうち、土にかえって、やがてその土から木が伸びて、その周りを子供たちが跳ねまわるの。それがそんなに悲しいこと?』

「あ、それトゥーティッキが言ってました」

『はァ? 誰よそれ』

「ムーミンの登場人物です」

『ふーん、そう』

 センパイは興味なさそうな声を上げたので私もそれ以上はおしゃまさんについての解説は控える。

「何です? 私が落ち込んでるとでも思ってそんなこと言ってくれるんですか?」

『へ? ああ、ああ、そう、そうよ。親切心よ。ねえ。親切心。私はそれのみで世界に接してるのよ。知らなかったのぉ』

 何、言ってんだか。

 街の中に無駄な明かりをばら撒く、そんな自動販売機で温かなコーヒーを買う。もちろん練乳の入った甘―いやつ。


 私は、殺し屋だ。

 それも神様専門の。

 今までどれだけの神様を殺してきたのか、もう、覚えていない。センパイに出会ったあの日から、私はただ神を殺し続ける。

 神殺し。

 冷たく。

 静かに。

 硝煙のにおい。タバコの煙。血の水たまりとタップダンス。ジンジャービスケットの粉くず。甘い夢のまどろみ。

 ヤドリギは神をも貫く。たとえ盲人であろうとも。どれだけ弱い力でも。神は殺せる。そして、光は失われ、世界は終末を迎える。

 私はだから自分自身の目をこう、ぐっと、つぶす、のだ。

 ――もちろん、比喩だけど。

 目は、痛い、痛い。


「貴様が殺し屋か?」

 だから、まあこうやって恨みを買うこともしばしばのしば。私はスカートのポケットからナイフを取り出す。からん、と音を立てて缶が地面に落ちる。

 見れば、神様が一柱。若い女の姿をとっている。一体何の神様なのか。知りようもないし知りたくもない。この仕事を長く続けて入れば、神か人かはにおいで分かる。とにかく彼らは世界に溶けようとして無臭なのだ。気配を消そうとしている気配が強い。芳香剤のようなものだ。

「声を掛けてから襲おうなんて、やっぱり神様って連中はおバカさんなんですね。貴女は唯一の勝ち筋を捨てたんですよ。本当に、愚か」

「口を噤め。神殺しの大罪。天罰を下す」

 ――きゃあ、かっくいい。

「そう言って挑んできたのは貴方で八柱目。あなたたちはそろいもそろって私を殺しにかかってきたわ。どうなったか? 今、私がここにいるから、まあ、そうね、結末はお約束通りってこと」

 とん、

 アスファルトを蹴る。

 私は今、神に向かって進んでいる。それだけできっと世界の反逆者。大罪人の名にふさわしい。神とは本来、待ち続けるものなのだから。神の威光の前に顔を伏せない女はきっと幸せになんかなれないでしょうね。

 末代まで祟ればいいわ。その罰はきっと世界の介錯人としては光栄なものになるだろう。

 夜風を斬る。張り詰めた空気。ぴん、と弾く。小石を蹴り上げる。冷たい世界の底を私は這う様に縫い上げる。夜街を映すショーウィンドウに私の影が動いた。そこで初めて、自分自身の顔に笑みが浮かんでいることに、私は、気付いた。

 ああ、だめ、これ、気持ちいい――。

 神の殺意を一身に受けたこのカラダ。

 私は興奮している。世界の中に大の字でダイブ。

 真正面にそれを捉えた。神様が構えるものはやけに悪目立ちする黒銀の塊。必要以上にメカニカルな外見のそれは月影を見事に弾いている。

 ――八十九式。自動小銃。

「空想小説の再現。さすが神様。……ご尊敬」

 架空の国『日本』の武器。

 その国は平和の国だという。黄金の国とも呼ばれる。四方を海に囲まれ山々が連なる自然の国。永久に戦争を放棄した、戦争なき国の武器。

 空想ユートピア『日本』。

「そんなものが、私に当たるかしらん?」

 神が引き金を引く。火花と共にとび出る鉄弾。

 ああ、大好き。この音、このにおい。

 いくつもの線が私に向かって進んでくるのが見える。緩やかにぶれながら、しかし、私に向かってひたすらに進んでくる弾、それを――。

 殺す。勢い――。

 右ポケットの中身を投げつける。米粒みたいなビーズ。無数に散らばる。その一つ一つが相手の放った人殺しの道具とぶつかり、そしてその勢いを『冷たく静かに殺す』。

 雨のように、死んだ弾たちが地面に落ちる。

 静けさの残響。破壊的な音色。

 私はそれに合わせて踊った。

 ――死の舞踏と呼んでください。

「車に牽かれる危険が最も大きいのは、一台目の車を避けた直後だって、『彼』が言ってたわ。あ、『彼』ってのは、神様のことを死んだって言い放った人ね。空想世界の住人。フリードリッヒ・ニーチェは斯く語ったわ」

 残心。それだけは怠らない。

 神様の懐に入り込む。銃口が勢い振り上げられる。それも私は右手で『殺す』。

 ――淡!

 と、弾ける火焔。最期の悪あがき。私の頬にもかすらない。

「歌ってあげるよ、ねえ、神様」

 私は彼女の耳もとでそっと囁く。ムーミンのための子守歌。


 やすらかな 暗い夜が 帰ってきました

 おやすみ 愛しい 子どもたち

 おやすみ 火の玉 ほうき星

 時の軌道は 飛んで去きます

 おやすみ 夢で 忘れるのですよ


 血も滴らない。彼女のお腹には私のナイフが深く突き刺さった。いや、違う。彼女のお腹が私のナイフを咥え込んだのか。まあ、どっちもちょっとしか違わない。

 一滴の血も吐き出さず、神様はゆっくり目を閉じる。力の抜けた神様は偶像(アイドル)にすらなりはせぬ。そっと、ナイフを引き抜いてハンカチーフで拭う頃には、彼女は地面の上で、天のまきばの子羊を夢みている。

 優しい寝顔。

「バイバイ」

 私は空に向かって手を振った。ブドウ味のキャンディを舐めながら。星々のきらめきの中に私は過ぎ去った光の尊さを知る。

 何故だかその時、私は無性に、朱志香の声が聞きたくて堪らなくなった。何を話すでもなく、彼女の声を聞きたいと、そう、思った。

 気付くと手の中の携帯電話は彼女の番号を表示していた。

『もしもーし』

 間の抜けた声に私は飴を呑み込んだ。

「朱志香……。私」

 息が苦しくなった。朱志香の声を聞いただけで、私、死ぬほど動揺している。

 涙だけが零れた。嗚咽はない。だからきっと彼女には気付かれていない、はずだ、うん。

 センパイから渡された中性子爆弾。愛する人を殺す神殺しの爆弾。

 神は死んで、そしてこの世界は、ユートピア(空想)になる。

 つまりはつまり、そういうこと。

 私、貴女を殺さなきゃいけないんだ――。

「――ということなんだけど、どうでしょう?」

『え!? ははは、真夜中に電話かけて来てそれ?』電話の向こうの声はポップコーンが弾けた様な笑い声だった。『うん、いいよぉ』

 そう、死神様はお優しい。優しすぎて人を傷つけてしまう。そんなくらいに温かい手なのだ。

「じゃ、明日のお昼過ぎに逢いましょう」

『あーい。分かったぁ』

 くすす、と笑い声を残し、彼女は電話を切った。

「愛してる……」

 呟くだけ呟いて、私は夜の街から家路だけを選んで通る。

 夜桜だ。サクラの季節ももうすぐ終わる。

 暖かい春が来て、辛い夏に入り、やがて秋が訪れ、冬に凍える。そしてまた春が来たら、その時、きっと私は今の私とは到底違う、桜ひらの。

 どんなことがあっても前を向けることが強さだって、リトルミイが言っていた。そう、ムーミンたちはいつも私に勇気をくれる。

 勇気、勇気、勇気。

 きっと、正解はトーベ・ヤンソンだけが知っている。知っているのだ、きっと。

 ――ねえ、ムーミン。明日もよろしく、ね。

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