死神
「空想小説の話をしようか」
クリームが山の様にそびえるチョコレートパフェ。丸ッとしたバニラアイスに、極彩色のフルーツ群。ウェハースとかささっちゃてさ、これ邪魔なんだよね、ってさ、いいながらさ、それで溶けかけのアイスクリームとチョコのソースと、すん、と掬って齧ってみると、私の顔まで溶けだしそうで。そうして、銀色の長いスプーンで下の方からプリんとした牛乳味のムース救い出して、食道に流し込むと、私の心は悦楽に染まる。
――ああ、幸せ。
血の色の水たまりを踏んで。
世界は随分傾いた。二十三・四度の傾きはそのまま、ゆっくりと、ダメな方へ世界は沈んで行っている。そんなこと前世紀も、そのまた前の世紀末でも、ずっとずっと言われていたことだけど、今度のはホント、そんな気がする。
曇りのち少女。
最近、よく女の子が地面に落ちる。花びらを散らす。みたいなエッチぃ表現? そういうのがよく似合うくらいに、女の子が死ぬ。若い少女の死は美しい。美しきは少女の死。桜の木の下には処女の死体が山ほど埋まる。
「知ってる? 岡田有希子」
「誰だっけ? それ」
「『日本』のアイドル。大昔の」
日本、という国の名前を出した途端、朱志香の瞳がキラキラと輝きだした。
「空想小説の話なら私に任せなさい! うーん、でも知らなぁい」朱志香は、口を開けながら笑った。「で、そのアイドルさんがどうしたっての?」
「うん、そのコね。飛び降りるの、二回りも歳上の俳優との色恋沙汰でね。こう、ひょいっと所属事務所のビルから、ね。えい、やー、ぽーん、って」
私の説明に朱志香は一瞬で興味を失ったような顔で頬杖をつく。
「なあんだ? そんなの、別に、珍しくないでしょ。ほら」
朱志香が窓の外を顎で示す。見ると、向かいのビルの屋上にはセーラー服を着た女の子が仁王立ちしていた。
「あんなところに大股でいたらパンツ見えちゃうのにねえ」
ほんとほんと、水玉おぱんちゅ。
「飛び降りたらスカートめくりあがったまま倒れることになるかも。そしたら変態にいたずらされちゃうかも知れないし。ぐふふのふ。死んだならおっぱい揉ませてもらってもいいよねん、みたいな変態さん。やっぱり、死ぬなら死体が残らない方法にしなくちゃだめだよね、うん。溶鉱炉に飛び込むとか、養豚場のぐるぐる回る解体機に頭からえいやあって飛び込むとかとか?」
そんなこんなの間に、
あ、飛んだ。
「で、その岡田有希子の自殺の翌日ね、こう彼女の写真がバンッと新聞に載るわけですよ」
「飛び降りた後の写真?」
「そう、その写真が彼女を後世まで語り継がれるほどのアイドルにしたのよ」
日本中が彼女の美しさに驚愕した。脳みそと脳漿を飛び散らせてうつぶせに倒れる彼女。足は変に折れ曲がり、まるで糸の切れた操り人形。十八歳という若さ。愛と夢に溺れて死んだ。純愛? 邪恋? 若すぎる少女は、きっと、すべてを知っていた。
少女だったの死体の、ああ、何という儚き姿。
「あれがね、日本人に死の美しさを思い出させたの」
――あ、私、死ぬほどクサい事、言っちゃってるてる?
「ふーん、死の美しさ、ねえ」
ま、空想小説の中でのお話ですが。
朱志香は人差し指でお冷の中の氷をこつんと一周させた。指先から滴る水の雫。テーブルの上にぽつんと落ちる。彼女はそれを指先で伸ばし、ネズミさんを描く。南無南無。チュウチュウ。
「思えばさ、私たちには死ぬ理由がたくさんありすぎるんだと思うよ」朱志香は窓下に倒れる大の字の女の子を眺めながら甘いフラッペを啜った。「うん、甘い。甘くてうまい」
にへへ、と朱志香は八重歯を覗かせる。
「たとえば、数学のテストが二十四点だったり、お気にのショールにコーヒーの染みをつけちゃったり、部屋の壁に真っ黒でテカテカ触覚の生命体を見つけたり、とかね。そういう時に私は死にたくなるのよねん」
「最後のは分かる」
「でしょ、でしょ?」
喫茶店の入り口付近に座る私たちより少しばかし年上に見えるお姉さん。貝殻のピアス。焦げ茶に染めた髪。薄く化粧の乗った桃色の頬。ナイフを首に一刺し。それからぐっと横にスライド。とび出る鮮血。
あれは店員さん、お掃除は大変だ。
「若い女の子ばっかり死んでいくってのはさ、だから、きっとそんな深刻な理由なんてないんだと思うよ。ティラミスだったり、ルーズソックスだったり、ふなっしーだったり、ああいうのが『日本』で流行ったのと同じ。流行なんだよ。トレンドなんだよ。自殺ってのは、若い女の子たちの間での、ね」
うん、そう、思う。と、私は真っ赤なサクランボをぱっくり。口の中で茎を輪に結ぶ。
舌の上にのっけて「ほら」。
人生ってさ、時々、輪のように喩えられるじゃん。永劫回帰? 歴史の終焉? まあ何にせよさ。私はこうやって口の中で一つのメタファーを創り出してしまえるのさ。そういう、そういう女の子なんだよねぇ。私って。
向きつけ不可能の人生観。みたいな。
「なあに、それ?」
「ただの戯言」
――あ、サクランボウの輪を舌だけで作れるコはチュウがチョー上手いんだってよ。試してみるみる?
これは、世迷言。
「まあ、ってことで、ひらのは、大丈夫だと思うよ。自殺とか。関係ないよ。いつも流行とは縁遠い生活をしているようですから」
「それ、馬鹿にしてる?」
「ううん。滅相もない。いい意味で、ダサい、って言ってんの」
「いい意味で?」
「そ、いい意味で」
私たちは声を合わせて笑った。
苺ショートをフォークで切り分けて、自分の口元に運んで、美味しッ、と微笑む少女は、人の生と死をも、そうやって選り分ける。そう簡単なのだ。人の生き死になんて。苺をつまんで飲み込むみたいに。
優しさが響く。彼女の心。彼女は世界を愛していた。
そして世界もきっと彼女を愛していた。
朱志香は死神だ。
比喩ではなく。本当の。本物の。正真正銘。
世界を本当の意味で殺してあげることのできる、たった一つの存在。
そして同時にたった一人の、私の『親友』。
私はそんな彼女の笑顔を見ていた。
「知らないの? いわゆる世界宗教の登場前、古代宗教の時代、その時代にはまだどこの宗教においても自殺というものは崇高なものとされていたんだよ。人間だけが自殺をする。我々は獣畜生とは違う。そういう意識がね、人間を人間たらしめていたのさ。有史宗教がそれに反逆し始めたから世界には悲劇の臭いが充満する。そう、だからのだから、自殺というのは素晴らしい文化なのです、古代からの」
まあ、嘘だけど。
「ひらのはなんでも知っているね」
「そう、私は何でも知っている。正解も、真理も、朱志香の恥ずかしい黒子の場所も……」
これも嘘。
「ふふふ。私、ひらののこと大好き」
「私も、朱志香のこと、愛、してる」
これは――。
「まあ、結局のところ、このストリームは止められないっつうことですわ。規範を失った世界の住人たちは自由の海に流されて溺死するのですよ。妄想は爆発だ、みたいな感じで自由すぎることの逆説的窮屈さに破裂するんだよ」
「あんな風に?」
「そう、あんな風に」
爆死。それは今もっともトレンディな死に方。薬を飲んで、閉鎖空間にてガスに引火させて、ダイナマイトを腹に括り付けて、ドッカンドッカン。真っ赤な火花。火薬のにおい。血と肉が弾け飛び。たった一つのワタクシがこの世界から永遠に消えるその快感。爆発の二文字の気持ちよさ。望遠の彼方に爆炎があがる。
寂しすぎて消えてしまうような夜は、私も、あの炎と共に弾け飛びたい。なあんて――。
――う・そ。
そんな感じで窓の外でドカン。窓ガラスがぴしぴしと揺れるが誰も気にする様子を見せない。夢から覚ますはずの黒味を啜って、満足げな皆の衆。私のパフェの器はもうすっかり空になっていたから、こそっと朱志香のお皿から苺の方を拝借、拝借。
「ねえ、ひらの。私、今からたった一つの告白をしようかと思うのですが、どうでしょう?」
「どうでしょうと言われましても」
勝手にしやがれって感じ?
「私ね、死神なんだ」
なあんだ、それ。知ってますとも。
「驚かないの?」
「うわあああ、び、びびび、びっくり!」
「ほっぺにクリーム」
「あ、ほんとだ。甘し」
人差し指で頬のクリームを拭って舐める。なんか自分の指を舐めるのって背徳的。エッチ・スケッチ・ワンタッチ。ああ、貴女の指を舐めるのでも、貴女に指を舐めてもらうのでもなくて、自分で自分の指をしゃぶる。その感じ。なあんて素晴らしいのだろうか!
――ぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろ。
「犬みたいだね。ワンちゃん。私、好きよ。柴とチワワとシベリアン・ハスキーに限るけれども」
「私は猫派ですよ、死神さん」
「あ、そうそう、その話」朱志香の八重歯。「今まで黙っててゴメンね」
――この顔。
朱志香は笑いながらも、寂しそうな、悲しそうな、叩けばキンッと響きそうな表情を私に見せる。『空想』趣味の入った彼女の服装。トリコロールのバンダナ。星条旗のイヤリング。日の丸の入ったナップザックに、ユニオンジャックのトレーナー。そんな彼女はこの世界でたった一人の死神。
「安心してよ、朱志香。私は貴女がたとえ何であっても傍にいるよ」
「本当?」
もちろん、私はだって、貴女に出会うために生まれてきたんだから。
これは言わない。胸の内に秘めた、ホントとウソの間の心。
嘘だよ。もちろん貴女に逢うために生まれてきたなんてのは。縦の糸はあなた、横の糸は私。そんなもんだってどっかの誰かが歌っているけど、そんなもんだよ、ね。人生なんて。
でも、貴女の傍にいる、ってのはホントの本当。本当だよ。現実が証明してくれる。私はいつもあなたの隣にいてあげる。だってそれが私のたった一つの人生の目的。
「愛してるよ、朱志香」
「私もよ、ひらの」
死神様との死臭の中でのランデブー。
私は酩酊せずに彼女の瞳を覗くことのできる、きっと、唯一の存在なのだ。
※※※
最後に流れ着く場所。川が海に流れていくように。人の心は結局そこにたどり着く。
絶望。
時代の、社会の、歴史の、人の。
すべてには流れがある。それに身を任せ、膝を抱え、流れていると、人は必ず、絶望にたどり着く。
絶望は死に至る病だと、空想小説の登場人物が言う。
きっと世界は行くところまで流れ着いてしまったのだろう。この死臭はその帰結。
安っぽい言葉だと思った。望みが絶たれたなんて。
そんなの絶たれるだけの望みが元からあるから使える、甘ったれた世界のお話。
「死神は滅さねばならない。この世界に希望を取り戻すためには」
そんな言葉を私はだから苦みの中に落とし込んだ。
ホットチョコレートを啜りながら私は自殺する世界を斜めから覗き込んだ。
楽しそうに死ぬ人々。自らの命を玩具へと変える少女たち。処女の血が油にまみれたコンクリートを清める。
「貴女は、だから、世界の希望よ」
耳もとで瀬紀センパイは愛撫するかのように、そっと囁く。
私は、苦いものよりも、酸っぱいものより、何より甘いものが好き。
ただそれだけの女の子なんだ。
――まあ、嘘なんだけど。