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プロローグ

 お腹から真黒な内臓をはみ出したまま静かに眠るネズミの、その脇には白いタンポポの花が咲いていた。ふう、と息を吐いて綿毛を散らす。育てや育て。芽生えや芽生え。風が吹いて種子を運ぶ。雲一つない青ばんだ空へ。

 下賤な空の向こう側に、私は、明日を見つける。細めた目からは自然と、涙がぽろんと転げて落ちた。

 落ちてくる少女の、双眼。

「じゃあね」の言葉を混ぜた絶好の溜息と、生理前の乳房の張りと、自殺日和の青い空。いつからかこの街には安っぽい死臭が蔓延した。

 散って溢れたザクロの実。

 社会はその脇の汚れていない様に見える道を、選んで、進む。私たちの歩みとは別に、歯車のように、ぐるぐるぐる。錆びついて、軋まない様に、油をさして磨く。

 えいっ、とサクラの花びらを踏みしめ、とんとんとん。けんけんぱ。

 世界が核の炎に包まれる。いやいや、そんなわけありませんて。そんな特別チックな秘密出来事がなくとも、世界には生と愛と死が満ち満ちているのですわ。お濠のそばを通る電車と平行移動の私の歩み。傾いた視界で私はポケットの中のビスケットを口へと運んだ。そして余った齧りかけをポケットに突っ込んで、ぽん、と叩いてみれば、なんだか明るい、文明開化の音がした。

 大好きな人のことが知りたい、とか。触れたい、とか。爪の先から頭の先まで、すべてがすべてを私の色に染めたい、とかとか。酒の残った頭と、少しばかり充血した瞳で、半裸の私をこつんと抱いて、「ずっと一緒さ」みたいな言葉と、板チョコみたいなキッスと。えへへ、そんな風景の中に、『愛』なんか決して見つけることは出来ないから、私はただシュー生地でくるんだみたいな日々に溺れる。

 ガトーショコラで殴り殺したいような、そんな風に思える人を愛したい。粉砂糖をたっぷり振ろう。ざっくり割れる、甘い洋菓子。

 私に愛を教えてくれる人が現れるのだとしたら、白馬に乗った王子さまか、もしくは、カローラに乗った上級公務員か。それは知らない、分からない。いずれにせよ、ガトーショコラで殺したくなるような、そんな人じゃなきゃ嫌だ。

 そういう人にもし出会えたときに、胸の内から自然と、ふつふつ、と湧いてくる感情を、私は、きっと、愛と呼ぶのだろうと思う。

 春の生温かさは、若さに溺れる男と女とを酔わせる。性欲と生命欲と、あとついでに睡眠欲と。それぞれがそれぞれに貪る。私だって例外じゃないさ。若いっていいねえ、素晴らしいねえ、と口で言いながら、その若さに溺死した少女たちの死体を踏みつけ、私は今日も生きていく。

 大好きが無から湧いてくるようなものなら、それは宇宙の始まりとそうは変わらないわけで。じゃあこの気持ちを『大好きビッグバン』とでも名付けようか。なあんてこっぱずかしいことを考えているような振りして歩く。

 哲学さ。ああ、哲学さ。哲学さ。愛とか恋とか。罪とか罰とか。私はただ涙の数だけ強くなればいいのさ。セックス、ドラッグ、ロックンロール。男と女。あやつりつられ。みたいなみたいな夢芝居。

 ああ、ああ、ああ。

「……死にたい」

 私の呟きは死臭に混ざって静かに消える。

「あら、随分と贅沢なことを言うのねェ。贅沢は敵だ、なんてそんなこと全然思わないけど、遠い異国の難民さんのお粗末な生活を写真で見ながらご飯茶碗片手に笑えるようなそんなジェネレーションに献杯ッ」

 瀬記(せしる)センパイが「おこんにちは」と言いながら、右手をブラブラと振った。センパイの差し出すコーヒーの缶。無糖のブラック。相変わらずびっくりするほどに冷たい。

 センパイは熱い飲み物が苦手だ。私の知っている、数少ないセンパイの苦手。

 私はプルタブを大仰に押し開けて返事する。

「献杯」

 腰に手を当て、黒の汁を喉に通す。ツンと刺す苦み。私に焦げた豆の汁の味など分からない。それでも日に何度も口に流すのは、きっと、私の世界が寝坊助には厳しいから。

「美味しい?」

「ええ、」

「本当は?」

「苦い」

「お子ちゃまねェ」

「私も、もういい歳ですから、それはそれでお褒め言葉ですわ」

 センパイはいつも通り、イカ墨で染め上げたみたいなスーツの上に黄褐色の上着を羽織っていた。腰のベルトに銀で出来たブドウのレリーフを、耳もとにはキリンの逆立ちしたピアスをぶら下げている。その趣味の悪さを私は愛おしく思う。

「これから朱志香のところへ行くのゥ?」

「ええ、まあ」

「仲がよろしいことで」

 くすす、とわざとらしくセンパイは口元をハンカチーフで隠した。私が誕生日にあげたタオル地のハンカチ。

「唐突だけど、はい、これ。プレゼントフォーユー」センパイが懐から出したのは眩しくなるほどにイエローなレモン。「爆弾よ。ボム。中性子爆弾。世界にほとんど影響を与えることなく対象のみを殺す兵器」黄色い身体に軽く口づけ。「いざって時は爆発させて、ね」

 酸っぱさ。苦み。紅茶に落としてペーハーを下げる。そんな初めてのキッスのメタファーをゆっくりと握り込む。ツルツルとした、まるで人を馬鹿にしたような触り心地は、まさに爆弾に相応しいものだった。

 世界は、今、私の手の中に。

「はい、わかりました。センパイ」

 私はわざと皮肉に聞こえるように言ってみた。

「うん、可愛くて良い子」センパイは一切の嫌味を感じさせない笑顔で私を皮肉る。「愛してる――」

 何度も何度も繰り返される同じ時間、幾層もの重なり。バターの香り弾けるクロワッサンと同じ。憎ッき敵国を討ち果たして、皆が喜び、それをば喰らう。そもそもクロワッサンなんてそういうものなんだから。

 再び歩き出す頃には、春の日差しの生温かさにも身体が慣れ始めていた。足音を重ねて、鎮魂歌。来年またタンポポを咲かせるために土へと返る少女たちへ。

「甘いものを、うーんと、食べたい」

 世界が粉々につぶれてしまうのならば、事前に知らされたりしないほうが、ずーっと気が楽なんだよね。

 サクラの花びらが降り注ぐ。雨のように。地面の上で静かに眠る少女をあたためるかのように、降り積もる。

 吐き気を催すほどの美しさ。

 毎日に疲れ果て、挫けそうになった時、私は夢見る。ハチミツのシャワーを浴びてから、ホールケーキのベットでコーラを味わう。焼き立てワッフルの香りをアロマにして私はアップルパイに冷たいバニラアイスを落す。そんな時、愛する人が隣にいて、私の言葉のすべてに耳を傾けてくれる。そういう夢。

 ――ね、聞いてる?

参考文献

岡田有希子『優しい去勢のために』筑摩書房

ヤンソン「ムーミン谷シリーズ」講談社文庫

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