lightning 1
空は雲で覆い隠され、冷たい風が布越しに身体に噛み付いてくるようだ。牢屋に残された紫鴉には今着ているもの以上の防寒具はなかった。たまにやってくる面会人は見ず知らずの研究員で最初は警戒していたが暇を潰すにはちょうどよい人材だった。妙な小瓶を渡されては、それを飲むだけ。説明はない。無味無臭の何の効果も望めない液体だった。罪人に人権はないのがこの街のルールだ。裁かれることもなく牢に放り込まれ半年。カビが生えて薄汚れた毛布の掛けられた寝台には紫鴉が入る前の住民が眠っている。全身骨となって。すでに異臭に慣れた鼻には夜風に運ばれてくる花の香りのほうがむしろ悪臭に思えた。紫鴉は膝を抱き、寒さに耐える。
使えない男を1人消しただけでこの生活に耐えねばならない。その必要があったのだろうか、寒さや暑さや飢えに襲われた時、そういった悔いが沸き起こる。だがそのたびにまた変わらない答えがある。その必要はあったということだ。双子の弟を売り飛ばした市長を殺害した。その時に潰された左目はもう光を見ることはない。風の吹き抜ける音と雨漏りの音がするだけで人為的な音のない静寂にひとり夜を待つ。看守もいない。壊れ掛けた牢に放り込まただけだ。投獄しておけばそれで仕事は果たしたことになっているこの街の治安はやはり悪かった。躊躇なく市長を惨殺した男はただ高く高く積み上げられた不安定な建物の頂上にある牢屋に放置されているだけなのだ。凍死や病死、餓死するまで孤独に耐えることが与えられた刑罰なのだろう。紫鴉は冷たくなった爪先で石畳に転がる空き瓶を蹴る。朽ちた壁の穴に落ち、外へ出ていく。ここを突き破れば脱獄は可能だ。手錠は片手首で揺れ、足枷はない。だが気力がない。そして分厚いコンクリートを壊す道具もない。散らかった空き瓶をひとつひとつ小さな穴に落としていく。この空き瓶に入っていたものだけを摂取して半年間生き延びている。この生活が続くなら餓死を選んだほうが後々は楽なのかも知れない。満たされた感覚はないがそれでも病に罹らずまだ生きている。無味無臭の瓶の中身は栄養食品か何かなのだろうか。問う気も起きない。あの研究員に話しかければもう来てはくれないような気がしたからだ。
空き瓶を落とす穴からきな臭さが漂ってくる。火事だろうか。壁に無理矢理空けられた窓の外を見る。暫く立つことをしなかったため、膝が震えた。この牢ごと燃えてしまえばよかった。この牢のある建物の死角で事は起きているらしい。火の熱さが恋しい。寒さに歯が鳴った。骨に掛かった毛布に何度めかの手が伸びる。どうしようもない人生だった。そう思う。馬鹿で愚鈍な大罪を抱えた男を誰が殺したのか世間に知らしめることもなく、どこかへ売られた弟を見ることもなく、寒さで死んでいく。牢が大きく揺れ、軋む。この建物が燃えていたのかも知れない。焦げ臭い匂いと相反した身を削るような寒さに両腕を摩る。あの研究員は自身の亡骸をどう思うだろう。そう思った。そしてどうも思わないだろうと答えが出た。ただていのいい実験台がひとつ無くなっただけだ。寂しいと思った。まだ温かさが自身の中にあったのかと驚くほど目から熱い涙が溢れる。冷たい左手が疼き出す。熱くなる。寒さを感じなくなってしまったのだろうか。死というものを身近に感じる。
古い牢が軋み、埃や塵が落ちてくる。眠ってしまいたい。鼻の奥が痒くなる。もうすぐ先住民と同じ眠りが待っているはずだというのに感覚はそういうつもりがないらしい。自身を孤独にし世間と隔てる鉄の棒の列が崩れていく。ここは何階だっただろう。上へ上へと積み上げられ安全性や物理耐久を考えない不衛生なスラム街だったはずだ。音を立てて視界が壊れていく。数十秒も待たずに身体は大きな衝撃を受けた。左手の熱と疼痛は治らないまま。潰された左目も呼応するように疼きはじめる。頭上から降り注ぐ瓦礫が身体中にぶつかった。大して気にもならなかった。久し振りに空の下にいる。崩壊した建物と、住処だった牢の瓦礫の中で。夜だが明るかった。キャンプファイヤーだ。街がキャンプファイヤーになっている。大きな瓦礫の上に仰向けになりながら左手を空に翳す。猛禽類によく似た鋭く大きな爪。肘から手首まで血管が浮かび上がっている。病だろうか。だが構わなかった。もうすぐ死ぬのだ。寒さと飢えで。夢なら覚めないで欲しい。行くあてがない。売られた弟の場所も見当がつかない。生きようとする気力がない。必要も意味も見出せない。左腕を下ろす。瓦礫に打ち付けるように。街の脇の林の中ならば、まだ星空が見える。とうとう寒さも感じなくなっていた。いい夜だ。いい死に際だ。
「こんばんは」
知っている声がする。最期に聞く声がまさかあの研究員だとは思わなかった。
「生きているかい」
夜空を遮って研究員の顔が横から視界に入る。
「思ったより元気そうだ」
白髪に黒い大きな眼鏡。胡散臭いがそれでも紫鴉には唯一の外界との接触だった。
「外はどうだい。落ち着くかい」
一方的に話しては帰っていくその研究員を見つめる。夜風が前髪を攫っていく。街の現状と合わないのんびりした研究員の様子。
「…アンタがやったのか?」
久々に出した自身の声はなんだかしっくりこなかった。研究員は肩を竦める。
「まさか。こうなってしまったから、君の様子を見にきたんだよ。大事ないようだね」
悪い気はしなかった。様子を見にきたということは研究員の中に少なくとも、自分の入る余地があった。実験台の扱いだったとしても。
「左手がおかしいんだ…」
左手を研究員に差し出した。だが研究員はほくそ笑む。
「おかしくなんてないよ」
研究員が紫鴉の左手を取る。
「君が生きられるように飲ませただろう、小瓶の中の薬」
触れられているのに何重にも何か巻かれているように感触が鈍い。だが大事ないという。温かい風が吹いて、研究員の白衣を揺らす。赤く照っている。紫鴉は振り返った。木々の奥で街が燃えている。赤々と、爛々と、燦燦と。
「何が、起きてるんだ?」
「市長を火葬しているんだよ、街ごとね」
研究員は大したことはないというふうだった。市長を殺したのは紫鴉だった。
「市長を殺害するなんて、やるね。僕は白兎。紫鴉くん、君の名前は?」
紫鴉は自分が住んでいた古いアパートの方角を見つめた。だが燃え盛る炎しか見えない。その中の建物の陰を判断する前に目が直視することを嫌がった。
「知ってるんだ」
「知ってるよ。でも動機は分からないな」
話そうかどうか紫鴉は迷った。焦げ臭さを風が運んでくる。
「弟がいた。双子のね。顔はあんま似てない」
街を包む炎が足元を照らす。
「市長は小さな子供が好きなんだ。ソウイウ意味でね。ずっと気付かなかった。まさか弟が、…遊ばれてたなんて」
「なるほど、弟のために?」
「弟のためにかって訊かれると、分かんない。他の誰かなら別に好きにしろって感じだけど、弟が好き勝手されて、気持ち悪かったんだよ」
伸びた髪が顔を叩く。弟にはもう会えないだろう。会えたとしても。
「脱獄しようと思わなかったのかい」
「行くところ、ないし」
「弟は」
「市長のシュミの範囲じゃなくなったんだろ。売り飛ばしたって。あの街にどれだけあると思う?カラダ売る店」
すでにその店が並ぶ街は炎に抱かれている。あの中に弟はいるのだろうか。
「もし会えるなら、会いたい?」
「…」
「即答じゃないのが、意外だよ」
紫鴉は項垂れる。季節外れの温かい風。
「弟は…不本意とはいえ、市長に好き放題されたわけで、売り飛ばされた後も…それで、オレは人を殺した」
弟の姿を覚えているが、思い出せない。弟のためにと思ったつもりで、ただ自身が不快感に抗えなかっただけだ。
「あの街でレイプされない女性が何人いると思う」
「さぁね。興味ない。ただ弟は市長に好き放題された。それだけが気持ち悪い。会ったこともない女とかその他大勢のことなんて例にもならない」
だがおそらく会ったら、きっと。会えたことに喜んでから少しずつ募っていくのだろう、違和感を帯びた気色悪さが。
「いいね、君。最高だよ。うちのバカ息子にも見習ってほしいくらい」
「息子…」
研究員には家族がいたらしい。研究員は独りではないのだ。紫鴉は自身の父親を思い出す。弟を市長へ、紫鴉には安いアパートを与えてどこかへ消えた。
「行くところがないなら、作ってあげるよ」
「え?」
「それじゃあね。バカな息子が待っているから」
研究員は白衣を翻す。大火に炙られた風が吹く。帰るところはどこにもない。
「あの街は捨てて。君の住むところは今日からあの街だよ」
この山を挟んで、大火に滅びる街の反対側に位置する都市。犯罪と抗争、暴力が跋扈する街。
「市長殺しを犯した君が怯えるところじゃあないよ」
住んでいた街が焼かれる炎に照らされる研究員の穏やかな笑み。色濃く落ちる陰に呑まれそうだった。