投影 4
今日も変わらず白いタンクトップを掴んだ。なんだよ!と少年は怒った。
「どこに行くの?彼岸が心配する…」
「ふん、寝込みを襲うようなやつに心配されてちゃ世話ねぇよ」
紫鴉は手でアレイドを追っ払う手振りをしたが彼女は反応を示さない。
「ねぇったら。ハンスも…」
「よせ、よせ。あのお人好しはとにかく、あの口悪女は心配なんざしてねぇよ」
タンクトップを掴む手を解こうとするがアレイドは紫鴉の目を捉えたまま頑なに放そうとしない。
「互いにやりてぇことがあんの。家族ごっこって関係じゃねぇんだよ。あんたはよろしくやってな」
彼は一度だけ振り返ってアレイドを見ると宥めるような、説得を諦めたような顔をして彼女の手の中にあったタンクトップの端ごと擦り抜けて消えた。暫く立ち尽くし、手はまだ宙に残っていた。彼岸のもとに戻ろうと踵を返す。途端に目の前に白く浮かんだ物体が広がった。
「やっとさぁ、処分されてくれる気になった?」
身体の芯から冷えていく、凍ってしまいそうな心地になる声が降ってきた。顔を上げてその存在を認めることもできなかった。緊張感に四肢は縛り付けられ、声も出ない。白衣の繊維まで見えるほど近くにあの男が立っている。
「君の役目は終わったの。さ、さ、帰るよ。君の原型ちゃんは見つかったから偽物は消えて当然ってワケ」
冷たい大きな手がアレイドの手首を掴んだ。喉が裏返るようで声が出なかった。足首が氷と化したように動かず力の方向に引き摺られた。いや、やめて、放して。声が出ない。遠くから車の音がして駐車場へと入っていった。歩くたび翻る白衣がぶつかる。アレイドは力尽くで引っ張られ、転倒を恐れた本能が凍りついた足を踏み出させる。横切る途中の駐車場で車のドアを閉める音がした。この機を逃したら…
「助けて!」
声量の調節もできなかった。ただ迫られた危機に身体は助けを求めることだけに振り切る。手首を掴んだ手が強まり、白衣の男は常時浮かべている笑みと変わらない表情でアレイドの頬を張る。首を掴まれ、視界には空が映っていた。背中を強かにアスファルトへ打ち付けた。
「あ?」
駐車場で人の声がした。車のキーに付いているらしきライトがちらちらと彷徨う。降り注ぐ力強い殴打にアレイドは場所を示せなかった。
「女の子の肉って殴り甲斐あるよね!」
白衣の男は笑んだまま殴るのを止めた。頭を守ろうとするアレイドがゆっくりと腕から顔を覗かせると拳が振り下ろされる。しかし衝撃は彼女へやってこなかった。
「あれ、お前、ハンスのとこの女じゃね」
赤いメッシュの入った前髪が目に入った。彼は自分を知っているようだがアレイドは知らない。
「また女変えたのか、ロリコン野郎。警察沙汰はだりぃから、じゃあな」
黒髪に鮮やかな赤い毛を混じらせた若い男はアスファルトへ叩き付けるように白衣の男の腕を放した。
「待って!待ってください!」
呼ばれた若い男は彼女を見下ろして片眉を上げた。しかしアレイドは横から長い髪を鷲掴まれ突き出される。
「この子の顔見覚えない?」
若い男は何か薄気味悪いものでも見ているかのような表情で後退る。
「ねぇわ」
髪を乱暴に掴んだ手が引かれアレイドは大きな黒縁眼鏡の奥の赤い瞳に顔面を覗き込まれる。まるで舐めるような眼差しにアレイドは息もできなくなった。腹の中を蔑まれた時と同じ眼差しをしている。
「こんなに、似てるのに?」
「愚息と同じカラーリングだわな。ひでぇシュミ」
「力作なんだよ?似てるって言ってよ、お世辞でも」
若い男はアレイドを一瞥した。みるみる表情が歪んでいく。
「ロリコン近親相姦DV野郎かよ。ゲロ吐きそう」
彼は車のキーをじゃらりと鳴らしてアレイドに背を向けマンションのほうに行ってしまった。
「待って…、」
「あ~あ、恥ずかしいなぁ!抜作を自慢しちゃったよ!恥ずかしいなぁ!君は出来損ないだって!木偶人形!」
白衣の男は大笑いで、それから「いいこと思い付いたよ」と言ってアレイドの髪を引っ張り、どこかへ連れて行ってしまった。
彼岸は東側壁一面がガラス張りになっている大窓から夜景を見下ろした。小娘が帰って来ない。帰る場所を見つけたか、或いは胡散臭い白衣の男に誘拐されたか、若しくはどこかで道草でも食っているのだろう。深く関わりを持つつもりはなかった。外の世界から視線を断ち切りキッチンへ向かう。タンドゥーリーチキンを作る予定だった。人の好い婚約者がもうすぐ帰るとメッセージを寄越していた。余っちまうな、と呟いた途端にインターホンが鳴る。モニターに映った顔を反射が起こり拳の骨が軋む。インターホンがまた鳴った。誰もいないのかと相手はインターホンのマイクに訊ねた。しかしモニターは真っ暗に塗り潰され、一族を殺害した若者の姿を消した。




