投影 3
白衣の男は帰っていった。アレイドは彼岸にしがみつき、自由を許さない。
「何しに来たんだよ」
「その女の子をピンク街に売り飛ばすとかなんとかって。顔が気に入らねってさ」
「は?」
紫鴉はベッドに上がり、漫画雑誌を手に取った。
「怖かっ…た。あの、人…怖い…」
「泣くなよ、だりぃな。もう帰ったし、お前の意思を尊重するって…警察呼ばれたら分からんが」
彼岸はアレイドを剥がそうとしたが、小さな手からは想像もつかない力で押さえ込まれる。
「あ、あの人…、私ッ…カラダ…わた、…っ」
息が出来ず、胸を押さえて呼吸を焦る。彼岸は乱暴な手付きで薄い背中を撫で回した。
「下の段に水入ってる」
漫画雑誌を捲りながら他人事のように彼は言った。
「悪ぃな」
ベッドサイドの冷蔵庫から出された水を飲み、アレイドはゆっくり座らされる。雑誌越しにアメジストがちらちらと覗いた。
「退院したらすぐ、出て行くわ」
「…アテあんのか」
「ない。でも場所も分かったし、流れ着いた先で探す」
「婚約者には自分で伝えろよ」
雑誌に隠れ、紫鴉は渋々了承した。
アレイドは引き摺られながら帰路につく。ペットボトルを片手にぶら下げながら、歩幅の広い女の後をついていくのは余った裾を踏んでしまいそうだった。
「あの子…、出て行くって…」
「もともとどっか一箇所に収まる性分じゃねぇんだよ」
歩くのが遅かったらしく、強く引っ張られる。
「私が…、居るから…?」
「退院しちまったら用事が出来るからじゃねぇの。知らねぇよ、興味もねぇ」
駐車場から大通りに出るには狭く急な階段を上らねばならなかった。彼岸のペースに合わせられず、転びそうになる。
「まぁ、当分はうちにいりゃあいいけど、ずっとってわけにはいかねぇわな。他人家の事情に首突っ込むわけにはいかねぇから。この街の文化は知らねぇが、わたしの故郷じゃ野暮ってやつだ」
「彼岸さん…ここの生まれじゃ、ないんですか…」
タクシーを停めるため彼岸が足を止めてしまい、その背にぶつかる。鈍臭ぇな、と悪態を吐かれアレイドの質問には答えなかった。タクシーが停まり、ドアが開いた途端に放り込まれる。彼岸は運転手に住所を告げ、紙幣を数枚握らせると乗らずにドアを閉めた。
「彼岸さん!」
振り返ることもなく、黒い髪が揺れた。白髪の男とは違う赤い瞳がタクシーの車窓に向くことはない。アレイドはドアを開けようと試みた。しかし運転席で管理されていた。乗客の様子から窓が開いていく。身を乗り出す。運転手から注意されたが、小さくなっていく彼岸を呼んだ。タクシーは止まらない。苺のような赤ともピンクともいえない深い髪色の女が彼岸に話しかけている。ぞわりとした寒気にも似た熱気に襲われる。彼岸がその女に連れ去られてしまいそうで。彼岸を呼び続ける。彼女があの女を選んでしまうのが、恐ろしかった。
*
彼岸が眠っている。ハンスはまだ帰らない。彼岸は帰ってきた。その喜びだけで胸がいっぱいだった。あの女は誰なのか、訊ねたくて仕方がなかった。しかし彼女はもう寝ている。寝るには早い時間帯で、着替えもせず、ベッドを横切るようにシーツへ沈んでいた。暗い寝室は大きなガラス張りの窓の外の光を借りて家主のひとりである女の姿を薄っすらと浮かび上がらせる。粗野な言動や大雑把な挙動がなりを潜め、穏やかな寝息をたてている。リビングから漏れた照明を背にアレイドはじっとその様を眺めていた。十数分もそうして、やっと一歩が踏み出せた。女の寝顔を傍でまた数分眺め、薄い唇に吸い寄せられる。あの女は誰。どうして腕に包帯を巻いているの。ずっとハイヒールで疲れない。髪を触ってみてもいいかな。私のことどう想ってるの、迷惑じゃない?
彼女の息がアレイドの頬を撫でた。
「いいと思ってんの」
アレイドは頭を下げるのをやめた。ハンスではない若い男の声がした。
「別にあんたの好みをどうこう言う気はないケドね」
リビングのドアがある寝室の壁に凭れ、光の届かないところで白いタンクトップが肩を竦める。
「意識ないやつにヤバいよ、それは」
少年は不敵に笑って、眩しいくらいのリビングに消えていった。




